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解説「菩薩の生き方」第三十一回(7)

【本文】

 かように自覚し、他人の利益のために、常に精進せよ。大悲の心があり、(智慧の目によって)衆生の利益を見る者には、禁止されたことも容認せられる。

【解説】

 さあ我々も、他人の真の利益のために、ひたすら精進しましょう。
 そして次の一文は、慎重に読み取らなければなりませんね。ここは、「大悲の心があり」という部分と、「智慧の目によって」という部分がポイントです。
 つまり、それが衆生の悟りや救いにつながるならば、一般に悪とされていることでも、場合によっては許されるということですね。これは上に書いた、観念を超えた実践の話につながりますが、その場合、重要なのはまず動機です。煩悩によって悪を行なうのではなく、大いなる慈悲の心がまず確固たる動機でなければなりません。
 次に、慈悲という動機があったとしても、智慧がなかったら、良かれと思ってやったことが、実際には衆生を悟りから遠ざけたり、苦しみに突き落としてしまう場合もあります。よってここでは、今自分が何をすることが真の意味で衆生のためになるのかということを正確に見極める智慧の目が必要なのです。
 この慈悲の動機と智慧の目によって導き出された答えが、たとえ一般の善悪の観念や戒律に違反していようとも、許されるんだよということですね。しかし慈悲や智慧に欠ける場合は、そういうことをやってはいけません。その場合はあくまでも一般的な法にのっとった方法を選択すべきでしょう。

 はい。まあ、これも同じ話の流れですね。まず最初に書いてあるのは、大前提として、「かように自覚し、他人の利益のために、常に精進せよ」と。まずこれが、われわれ菩薩の生きるべき大前提。他人の利益のために常に精進せよと。いかに自分の――昨日もそういう話出たけどね――いかに自分の生き方、存在が人のためになるかと。
 もちろん段階があるからね。段階があるっていうのは、人を修行させるとか、人の修行を進めるとか。これは最高であると。でもまだそういう段階にない人もいる。その場合は別に現世的なことも含めてかまわないので、もうあらゆる意味で、いろんなレベルにおいて、自分の存在が人のためなってほしいと。
 まあこれ、『入菩提行論』のいろんなところに出てくるけども。シャーンティデーヴァの祈りとして、「わたしは病人の医師であり、医薬でありたい」。あるいは、「飢饉のときには食べ物でありたい」とまで言ってるんだね。うん。つまりもちろん相手を修行させられれば最高なんだけど、まだその段階までいってない。ただ餓鬼のカルマによってものが食べられない。そういう人には、じゃあわたしを食べてくれと。わたし自身が食べ物になりたいとかね。そういう感じで、相手のレベルに応じた幸せを与えたいんだと。そのために自分は存在していたいんだと。そのために精進するんだと。うん。つまり消極的にじゃなくて、常に、なんていうかな、自分は何ができるのか。もちろんそのベースには修行があるわけだけど。多くの人の役に立てる自分になるために、もっともっと修行を進めなきゃならん、という感じで精進すると。自分の修行を精進すると。そしてそれだけではなくて、機会があるならば、いろんなかたちで人のためになることを探して頑張ると。これがベースですよと。
 
 はい。このベースの上に、「大悲の心があり、(智慧の目によって)衆生の利益を見る者には、禁止されたことも容認せられる」と。
 はい、これはだからさっきからの話とのつながりで、そのような菩薩には一般的に悪とか駄目だって言われていることもオッケーな場合もありますよと。しかしそれは、ここに書いてあるように、大悲の心がある、そして智慧の目がある、これが条件ですよと。
 まさにここで説明されているとおりなんだけど、まずは動機として、大悲、つまり慈悲がなきゃいけませんよと。それは当たり前ですよね。うん。つまりさっきから言っているように、動機がエゴだったら駄目なわけです。
 つまり自分、エゴっていうのはさ、欺瞞性があって、自分をすごくだますからさ。「これは君のためなんだ」とか言って(笑)。例えばですよ、じゃあMちゃんがメロンジュースが嫌いだとしてね。まあ嫌いじゃないかもしれないけど、仮に、

(M)好き。

 あ、好きか(笑)。

(一同笑)

 
 じゃあ話がなくなっちゃう(笑)。

(一同笑)

 じゃあ仮に嫌いだとしてね。仮に嫌いだとして、K君が、「好き嫌いは駄目だ」と。「君のカルマを破壊するためにメロンジュース飲め」と、「僕のもあげる」とか言って(笑)。もう分かると思うけど(笑)、その背景には実はK君が「おれは飲みたくない」という思いが隠れてるかもしれない(笑)。でも自分では相手のためと思ってるかもしれない。で、こういう感じで自分の中の欺瞞性を探って、それが本当の意味で慈悲じゃなかったらそれは駄目だと。
 はい。で、もう一つは智慧。つまり慈悲があったとしても――まあ、つまりさ、この慈悲と智恵というのは両翼。つまり鳥の翼のように両方ともなきゃいけないというわけで。
 慈悲がすごくて智慧がないパターン、これは、なんていうかな、熱いけど誰のためにもならないうざい人みたいな、そういう感じになる(笑)。つまりもうほんとに慈悲であふれていると。「君のために!」「みんなのために!」――でも全部外れてると。あるいはよくいわれる「愚者の慈悲」ってあるよね。愚者の慈悲って、これもよくあるパターンの例えとしてはさ、すごく下手くそな泥棒がいてね。うん。泥棒稼業なんだけど、下手でいつも見つかっちゃうと。捕まっちゃうと。あるいは盗めないと。それを見ていて、間違った慈悲が湧いてね、「おまえ、なんて下手なんだ!」と(笑)。つまりおまえ泥棒が望みなのに、全然できてないと。うん。「おれが全力で手伝ってやる!」――これは間違った慈悲ですよ。つまり相手が望みどおりいかないっていうのを見て、望みを叶えてあげたいって意味では慈悲なんだけど、それやったって相手の悪業になるだけだから。相手の盗みの手伝いをしてあげたら、相手は将来よりいっそう苦しまなきゃいけない。これ、愚かですよね。つまり自分は相手を幸せにしたいと思ってるんだけど、その思いによって相手を実際は苦しめる。これは駄目だと。つまりこれは、慈悲はあるけど智慧がないっていうパターンね。だから智慧は持たなきゃいけない。
 智慧はもちろん、実際修行で身に付けるしかないんだけど、ベースはもちろん、教えの教学ですよね。教えを教学して、さっき言ったように――まあ言葉の問題なんだけどさ、そうですね、知識、そして理解、そして悟りという三段階があるって考えたらいいね。皆さんが教えを学んだだけ、これは知識です。しかし知識もばかにできません。膨大にあれば、それはかなり武器になります。それによって自分の心がだいぶ変わるから。でもよりいっそう大事なのは、知識を理解に昇華させる。これはさっきから言っている、つまり料理の本を見るだけじゃなくて料理しろって言っているのと同じで、日々、教えどおり日々の実践を頑張ることによって、その教えのより深い意味がだんだん分かってくる。これは知識が理解に昇華された段階だね。で、悟りっていうのはまた全然別のステージです。つまりその教えの実践、教えの理解も含めて、いろんな修行を進めることによって開ける、別ステージの、パーッて花が開くようなもんですから。
 つまり、もちろん悟りが得られたら素晴らしい。悟りはもちろん段階があるよ。小さな悟り。パッパッパッと経験すると。それはそれで素晴らしいけど。もちろん小さな悟りがあればそれはそれでいい。で、それがなかったとしても、その前の教えの実践による理解によって――なんていうかな、智慧っていう言葉も実際は広くて問題があるんですけど。問題があるんですけど、そうですね、――じゃあもう一つ言うならば、相対的智慧と絶対的智恵がある。絶対的智慧が悟りです。相対的智慧っていうのは、つまり経験を深めることによる、智性の増大ですね。うん。この相対的な智性の増大によって、悟っちゃいないけど、教えのポイントが分かってくると。そうなるとまさに、まず慈悲があって、慈悲によって相手のためになんとかしたい。このときに何が一番ベストなのか、分かってくる。このときにこの教えを捨ててもいいのか、駄目なのか。で、これがちゃんとそなわっている者にとっては、禁止されたことも容認されると。で、これが大乗仏教とか密教とかが、言ってることではあるんだね。
 でも繰り返すけど、それを、未熟な者、教えをまだ理解していないし体得していない者が手に取ると――だからよく密教っていうのは、刃物のように例えられる。子供に刃物持たせたら危ないですよね。うん。ちゃんと使いこなせる大人だったらいろんなことができる、刃物で。刃物一個あれば例えば、皆さんが無人島に一人でほっぽり出されても、刃物一個あったらかなり(笑)、かなりいいですよね。うん。でもよく分かってない子供に刃物持たせたら、ね、怪我しちゃうだけだと。つまりここでいう子供っていうのは、まだ教えを理解していない人――が面白がって、そういった大乗仏教とか密教の、その観念を超えた世界に手を出すと、怪我をするだけだと。
 ここでいう怪我っていうのは血が出るだけじゃ済まないからね。うん。魂の堕落ですから。だから非常に気を付けなきゃいけないんだね。
 しかし、繰り返すけども、しっかりと教えを理解した者にとっては――もちろんグルがいる場合はグルに聞けばいいわけですけど。あるいは実際に指示されるかもしれない。「人々のためにこういうことをやりなさい」と。それは自分が思ってたこととちょっと違うかもしれない。でもそれがもし、ほんとにグルからの指示であって、あるいは実際に智慧によって選ばられた道なんだったら、それは全く関係がない。

 もう一回話を、全体の話をまとめるけどね。絶対なる真理っていうのは観念を超えています。しかしわれわれは観念の世界に生きているので。つまりすでに悪い観念をいっぱい持っているので、いきなり観念を捨てろって言われると、あまり根付いてない教えの観念ばっかりなくなって、根付いている悪い観念ばかり残ります。これ、最悪です。だからまずは、観念的に教えを学んで、教えの観念によって悪い観念をぶち破ると。つまりこれは、ね、真面目に、「いや、教えがこうだから。これは捨てなきゃいけなんだ」という観念。これで悪い観念をどんどん薄めていくと。で、その教えがある程度根付き、理解が深まることによって、実際はこの教えって何を言いたかったのか――さっきの信号の例えみたいにね。うん。信号の役割ってほんとはなんなのか、っていうのを全部理解ができてくると、これはあらゆる場面においてではないかもしれないが――あらゆる場面っていうのはもう完全に覚者というか、ブッダしか分かんないから。じゃなくて分かりやすい場面においては、「あ、これはこっちの道を取った方が相手のためにもなるし、実際に教えにものっとった行動になるな」っていうのがだんだん分かってくるわけだね。もしそのような場面が来たら、それはその衆生のために。あるいはより本質的な真理の実践としてそれは取ってもいいですよと。
 はい。しかし、繰り返すけども、このような教えのベースには、さっきからずっと言っているような、決してエゴにだまされてはいけない。あるいは教えの理解がない上でそういうことをやっちゃいけないというような、安全装置というか、それは徹底的に自分の中で持っておかないといけないね。

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