yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第三十二回(3)

 はい。で、後半は、この解説でもあるように――たださ、ここにあるのは、ちょっとまとめると、まずですよ、そうだな――つまり他者のために命を捨てるっていう状況、これは正しいのかどうかっていう問題ね。で、言ってしまえば、ここに書いてあるように、それはケースバイケース。つまり、そこで命を捨てても誰も救われないって状況だったら、当然捨てる意味は全くないと。でも、これはそういうケースが現代であるか別ですけども、ほんとの慈愛のある者、もしくはもちろんグルであるとか、あるいは大聖者であるとか、そのような者のためだったら、喜んで命を捨てなさいと。それは何も失われないって書いてある。それはもちろんその捨てた人にとってもとても素晴らしいことだし、あるいはそれが、それによってそのグルとか聖者とか、ほんとに慈愛にあふれた人が救われたとしたら、その人によってまた多くの人が救われるだろうから。
 ただ、ここで問題なのは、ここにも書いてあるけど、『ジャータカ』とかでは、お釈迦様とかは、結構、つまり無鉄砲に捨ててます。だって虎のためとかね(笑)。つまり虎のために命を捨てても誰のためにも普通はならない。でもさ、ここには大きな意味があってね。――これはこの問題だけじゃないんだけど、そうだな――智慧のある人はわたしが何を言いたいかもう分かってるかもしれないけど、つまり、なんて言ったらいいかな、大義名分的なことと、それから、ほんとの心の状態ね――は、混同してはいけないっていうか。つまり何を言いたいのかっていうと、お釈迦様が示しているような発想は、実はベースとしては必要なんです。つまり何を言いたいかっていうと、われわれは、まず自分の命は大事でしょ? つまり誰かが――まさに人間もそうだけど、人間どころか虎。ね(笑)。虎が死にそうだと。そのときに自分の命を差し出せるかっていう問題ね。普通できないよね。あるいはほかのパターンでもいいけども。その人が聖者じゃなかったとしても、誰かのために――これはもう一回言うけども、それがいいことかどうかは別として。正解かどうかは別として、できるかっていう問題。誰かのために命投げ出せますか?っていう問題ね。できるかっていう問題。で、まずはそこはクリアしなきゃいけないんです、実は。つまり、お釈迦様のように、「ああ、虎の親子が腹を空かせてかわいそうだ」と。「このままだと虎のお母さんが自分の子供を食っちゃうかもしれない。これは駄目だ」と言って、自分で自分の首を切って虎の前に身を投げ出すと。これは、もう一回言うけども、それをやった方がいいのかは別問題。できるかっていう問題。普通みんなできません。で、ここは克服しなきゃいけない。克服して、つまり、もしそのようなシチュエーションだったら――仮にですけどね、例えばグルがそれをやれって言ったら、普通にできますという状態をつくっておいて――でも、ですよ。でも、さっきから言ってるようないろんなパターンにおいて、でも、この場合はそれは誰の利益にもならないからやってはいけませんっていうだけなんです。そうではなくて、「いやいやいや、虎のためなんて死ねません」と。虎じゃなくて人間だったとしても、「じゃあ、こいつのために死んでくれる?」「いやいや、無理無理無理」と。で、この人がかっこつけて、「これは誰のためにもならない」とか言っても(笑)、いや、それは、誰のためにもならないっていうのは確かにそうだけど、それ以前にできないでしょ?と。
 だから教えっていうのは全部そうですけどさ、特に密教とかになってくると、いろんな細かい現象の分析があるから。つまり、いつもケースバイケースで「あ、これはこういうケースだから、それはやっちゃいけない」とかね、「やった方がいい」とか、いろいろ出てくるわけだね。で、普通はだからここでこれをやった方がいいのかもしれないけど、でもこの条件だとこれはやらなくていいとかやらない方がいいっていうのがあるかもしれない。でもその前に、できるのかっていう問題がまずあるんだね。
 つまり、言ってる意味通じてるか分からないけど、つまり、ベーシックには、菩薩の心意気として、あらゆる状況を想定して、どんな状況でもオッケーですよと。うん。もしここで、パッとわたしが命を捨てることが衆生のためになるならば、喜んで捨てられますよと。で、それが観念的にね、自分の観念と違って、――つまり、もう一回言うけども、仮に誰のためにもならないよう見える状況だったとしても、それが今のわたしがやらなきゃいけないことだったら、喜んでできますよと。
 例えばさ、そういうのっていろいろあるよね。例えば、誰かが自分のことをさ、すごく攻撃してきたとしてね。そこでさ、一応大義名分上、「これはわたしは耐えられるけど、でもこんなことを言わせてたら彼の悪業だ」と。「彼のためにならない! ここは言い返さないと!」「いや、ちょっと待て」と(笑)。「ほんとに耐えられるんですか?」と。ね(笑)。これ、言い訳の場合があるんだね。うん。だからこれも同じで、ベースで耐えられる自分をつくらなきゃいけない。もしそこで耐えるべきだったら、いくら言われても大丈夫。もう耐えるっていうよりも、いくら言われても反応しないぐらいの、相手への慈愛によって、全く大丈夫ですよと。
 わたしよく昔、そういう質問受けたけどさ。特に親が子供を叱る問題ね。親が子供を叱るのはいいのかと。それでよく答えてたのは、もちろん相手のためを思ってたらオッケーです。で、その場合、条件としては、怒りゼロ。怒りゼロならオッケー。怒り――つまり、これもだからよく言い訳としてあるわけだね。わたしはもちろん子供のころからそういう経験あるけどさ、もう親とか親戚の人がカッとしてね。もう子供から見て分かるじゃないですか。カッとしてるわけですよ。もうその場の怒りでガーッて言って、言ったあとに、「あなたのためを思ってるんだからね」とか言って(笑)。

(一同笑)

 嘘だろと(笑)。今、カッとしたでしょと(笑)。だからそれは駄目だと。うん。つまりほんとは自分は全く冷静で、なんの引っ掛かりもないと。ただ愛しかないと。愛しかなくて、逆に言えば、怒りたくないと。怒りたくないけども、どうしてもこれは言ってあげないと駄目だと思って心を鬼にして怒ると。これはいいことですよね。でも多くの場合はそうじゃなくて、全然自分の心をコントロールできてなくて、で、怒りに任せて感情に任せてバーッて言って、相手のためだとか言ってる。これは駄目だっていうことだね。
 で、すべてがこれは当てはまる。繰り返すけど、菩薩の、つまり智慧を持った働きとして、必ずこのときは――今の例で言ったらね、普通だったら言い返さない方がいいんだけど、相手のためを思ったら、言い返した方がいい場合もある。言ってあげた方がいい場合もある。でも繰り返すけど、そのベースに、それにもともと耐えられるだけの忍辱とか心の広さあるんですかと。だからそっちの方は普段から、まあつまり、つくらなきゃいけないんだね。そのような状態ね。何にもとらわれない、あるいは必要があるならば命でも捨てられるような。
 だからそういうことをよく考えるのはいいことですよ。わたしは、まあ例えばグルのために、衆生のために、命を捨てられるだろうかと。それが仮に、なんていうかな、一見無意味な状況に思えても――あのさ、かっこよかったら捨てられるじゃん。すごくかっこいい状況でね。あ、今グルが――昔のキリストみたいにさ、例えば偉大なる聖者が、キリストが、十字架にかけられようとしてると。「おれが身代わりになります!」――まあ、それも苦しいかもしれないけど、かっこいいですよね(笑)。あるいは弟子冥利に尽きるというか、そういうところあるよね。菩薩道もそうだけど、かっこいい場面はいいけども、でもかっこよくなかったとしても、あるいは誰も気付かなかったとしても(笑)、ね。あるいは自分の観念と違ってたとしても、あっさりとって言うと変ですけども――つまり繰り返すけど、仮に相手の小さな利益のためだったとしてもですよ。つまりおまえが死んでくれれば――まあ変な話ね、じゃあ保険金の話でもいいけどさ、「おまえ死んでくれないかな。おまえ死んでくれれば三百万入るんだ」と。「え? 三百万? 安いだろう」と。ね(笑)。仮の話としてね。「三百万! おまえの三百万のためにおれ命捨てるの?」みたいな。うん。でも繰り返すけど、それが是か非かは置いといて、ベースには、いいですか、「あ、おまえ三百万、今手に入れば幸せなのか」と。「そうなんだ!」「いいよ、捨てるよ」――こういう発想ね。三百万じゃなくてもいいよ。もうほんとにくだらないことでもかまわない。くだらないことでも、それが彼の今の幸せなんだったら、捨てますよと。このような、広い意味での愛ね。
 もう一回、ちょっと今日は丁寧に言ってるけど、菩薩には、まず広い愛が必要なんです。広い意味での愛っていうのは、いつも言うように、例えば無智な愛は駄目ですよってよく言うよね。つまり、よくその例として、下手な泥棒が「おれは泥棒なのに全然盗めない。くそー!」とか言ってる人がかわいそうだから手伝ってあげるとかね。それ駄目だよと、よく言いますよね。それはそうなんですけど、でも逆に言うと、それくらいの、もう見境なく相手のためになってあげたいと思うような、ベーシックな愛は必要なんです、まずは。仮に聖者から見て、それ誰のためにもならないよとか思われたとしても、救ってあげたいと。それがほんとに小さな利益だったとしても与えてあげたい。で、それを心から喜ぶ。
 あるいはさ、よくこういう教えあるよね。例えば、相手の現世的な幸福を喜んでもしょうがないと。だってそれは苦につながるわけだから――っていうのはあるけども、それはそうなんだけど、ベーシックには喜んであげる気持ちが必要なんです。ベーシックにはっていうのは例えば、誰かが、そうだな、なんか会社がうまくいって、たくさん儲かったと。でもそれは修行者の目から見たら、いや、儲かったらそれでまた――彼が布施とかするなら別だけど、儲かってまた執着の対象が増えてね、貪りの道に進むと。それは良くないことだとなるよね。でもそれはそうなんだが、ベーシックには「あ、よかったね!」と。「あ、儲かったんだ! すごいじゃん」と。もう全部そうですよ。例えば学校に合格した――「ああ、よかったね!」と。「素晴らしいね!」と。あるいは結婚した。まあ結婚なんかまさにそうですよね。あ、結婚した――修行者目線で言うとさ、「ああ、ばかだなあ」と(笑)。「苦の対象が増えたな」と。まあ、それで苦を味わって勉強になるからいいけども、でもまあ苦の対象増えてしまったな、ってなるわけだけど、でもそれは一つの理論であって。心の問題としては、例えば現世的な話だとして「あ、結婚したの? あ、よかったね」と。その人がそれで、その時点におけるなんらかの心の喜びが生じるんだったら、それは無条件で喜ぶと。で、そのような無条件の、どんなレベルであっても、相手の幸せを喜ぶと。この発想がまず必要なんだね。
 つまり阿修羅があるとそれできないから。これもだから大義名分とぶつかるっていうか。例えば現世的になんか成功してる人がいたとしてね、「いやあ、あんなのは……」とか、「修行者としては全然いいとは思わない」と。でも実はその人、心の中ですごくいいと思ってて(笑)、嫉妬とか悔しさによってそう言ってるだけかもしれない。それは駄目なんだね。
 繰り返すけど、ベースではどんな小さな喜びでも、相手の、人の喜びを喜べる心が必要で。で、その上で教えが入ることによって――だから変な話、ほんとは喜びたい気持ちもあるんだけど、でも正確に教えで見ると、「いやいや、これは長い目で見たら、彼の苦しみが増えるだけである」と考えたりとかね、するんだね。だからそれも、繰り返すけど、もともと慈悲がない、もともと相手への愛がない人がかっこつけて、表面的にだけ、「いやあ、修行者ですからこういう見方をするんです」とかやっても、ちょっとスカスカの修行者になるね。それはつまり、言い方を換えると応用できなくなります。いろんな場面において、心からあふれるような愛がないと、まあ応用できないんだね。こういうときどう考えたらいいの?――いろんなエゴがバーッて出てきたりする。
 はい。だからこの辺は、ここで言ってる話よりも今はちょっと深い話をしたわけだけど、この命を捨てるっていう点においてもそうだし、あるいは衆生への愛っていう点においてもそうだし、ほかのものすべてもそうだね。すべていろんなケースによってやることは変わってくるが、ベーシックには、今言ったような、つまり、どんな状況でも相手のために命を捨てられる状態、あるいはどんな状況においても人の幸せを喜べる状態をつくっておいて、その上で、教えに基づいて、今はじゃあどう考えたらいいのかって考えなきゃいけないわけだね。そうしないと、まあ偽物になるっていうか。本物の修行者にわれわれはならなきゃいけない。

 はい。じゃあ、ちょっと話を戻すけども、この死については、繰り返すけど、ベーシックにはそのような、いつでも誰のためにも命を捨てられる発想がなきゃいけないんだけど、しかしここではもちろん、そうじゃなくて、実際の問題として、そのような――つまり、そこでその人のために死んでも別に誰のためにもならないような状況だったら、むざむざ――これはだから、その前の話につながってるわけですね。つまりこの人生は正法のために捧げられてるわけだから。だから死ぬっていうことも含めて、勝手は許されない。ね。いや、それ、駄目ですよと。「なんか虎が飢えてるから死にたいんですけど」――いや、駄目ですよと。それはもちろん実践としては素晴らしいけども、あなたは正法に捧げる道に入ったんだから、それは駄目ですと。そうじゃなくて――これは現代ではそういうケースがあるかは別として、ほんとに慈愛にあふれてる人、あるいは真の救済者、あるいは聖者とかグルのために命を捨てる場面があったら、喜んで捨てろと。
 繰り返すけど、現代でそういう場面があるか分からないけども、でも心構えは普段から持っておいた方がいい。さっきのベースの話も含めてね。つまり、実際にそうなるかどうかは別にして、そうなったらわたしは捨てられるだろうかと。繰り返し考えるんだね。ほかのこともそうだよ。さっき例に出したこともそうだけど、例えば「いきなりわたしは誰かから毎日攻撃されるようになったら、それでもその相手を愛せるような心の広さがあるだろうか」とかね、普段から考える。で、死についても、いきなりわたしが今から我が身を犠牲にして、グルや聖者や、まああるいは一般の衆生でもいいけども――を救わなきゃいけない場面になったら、喜んでパッと潔く捨てられるだろうか、ということを日々考えるんだね。これはとても素晴らしい修行になる。
 つまり逆に言うと、それを考えるといろいろ自分の弱さが見えてくる。あるいは無駄なっていうか悪いものが見えてくる。「ああ、こういう心を持ってるうちは駄目だな」と。「だからこれを捨てなきゃいけないな」とかね。そういうことを考えることはとても素晴らしい修行になりますね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする