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解説「菩薩の生き方」第三十二回(1)

2019年10月2日

解説「菩薩の生き方」第三十二回

 『菩薩の生き方』は『入菩提行論』の解説ですので、そのさらに詳しいね、解説っていうかな、復習みたいな感じになります。
 「正智の守護」のパートの続きですね。

【本文】

 不幸に陥った人、よるべのない人、梵行の友に、分け与えたあとに、程よき量を自ら食えよ。三衣以外は、捨離せよ。

【解説】

 梵行というのは、煩悩を捨てて解脱を目指す修行のことですね。そのような修行の友、あるいは不幸に陥った人、あるいはよるべのない人などに、まず自分が食べる前に、食事を与えなさい、と。そしてそのあとで初めて自分の食事をしなさい、ということですね。しかしもちろん現代では事情が違うので、これはケースバイケースですね。しかしこのような教えを知っておくのは重要なことです。
 そして食事の量も、あくまでも「程よき量」とありますね。現代的な常識である一日三食というのは食べすぎではないかと思います。もともと仏教の出家修行者は一日一食が原則ですが、一食か二食がいいでしょうね。そして本当に体が必要としているだけを食べるだけであって、「おいしそうだから」という理由で食べ過ぎたりしてはいけません。
 そして衣服に関しては、「三衣以外は捨離せよ」とありますが、三衣というのは、出家修行者に許された三種の衣のことですね。今でも南方仏教やチベット仏教の僧は、古代インドから伝統の三衣のみを用いるそうですね。
 まあこれは現代的に言えば、できるだけ必要最低限の衣服で満足せよということですね。

 はい。この「正智の守護」の章は、いわゆる念正智、つまり、特に心ですけども、実際は心だけじゃなくて、身口意、つまり我々の心、言葉、体の動きを常に自分でチェックすると。で、チェックして、「さあ、真理から外れてないだろうか?」ということを監視し、で、ちょっとでも外れたらそれを修正すると。これがこの念正智っていう働きですね。
 で、いつも言うように、この念正智さえできれば――というよりも、一切のダルマの中で最も重要なのは念正智と言えます。それは意味分かるよね? だってダルマっていう一つの項目だけあったとしても、念正智がもしできてなかったらそれは意味ないからね。いかにそれが身に付いてるか、あるいは外れてないかをチェックし続けるのが念正智ですから。それがあるかどうか。つまり、例えば百個ぐらいダルマを覚えたけど念正智はできてない人と、三つぐらいしか知らないけど念正智してる人では、当然後者の方が優れてる。――っていうか後者のみが意味がある生き方っていうことになるから、結局念正智が最高であると。
 はい。だから念正智っていう一つのシステムをわれわれは身に付けなきゃいけないんですけど、それと同時に、じゃあ修行者というのは、菩薩というのは、どのような日々のいろんなことに気を付けなきゃいけないのかということが細かくいろいろ説かれてるわけだね。それはまあ、よくいろんなところで出てくる、例えば荒々しい言葉や行ないをしてはならないとかね、細かいことまでいろいろ挙げられているのは面白い。ただその辺は、時代背景、あるいは国の問題もあるので、すべてが細かく現代日本に当てはまるとは言えないんですけども、そこで言ってる主旨を理解したらいいですね。

 はい。まずここでは食事のことが出てきて、

「不幸に陥った人、よるべのない人、梵行の友に分け与えたあとに、程よき量を自ら食えよ。」

 これは古来の仏教とかの出家修行者のいろんな教えにもよくあって、それは例えば――もちろん出家修行者は托鉢で食事を得るわけですけども。で、つまり家々を回って食事を得ましたと。それを、例えばね、実際昔からインドは貧富の差が激しいので、まず、食べられないような人たち、非常に貧しくて食べられないような人たちにまず何分の一かをあげると。それから、法友ね。梵行の友ってあるけど、法友にあげる。ただ法友も同じ修行してるからさ、それはまあ、いろんなケースですね。つまりちょっと病気がちとか、ちょっとなかなか足腰が弱いとか、いろいろあるかもしれない。だからそのような法友にあげると。それからね、面白いのは、動物にあげるっていうパターンもある。動物にもあげると。そして餓鬼にもあげるっていうんだね。餓鬼にあげるっていうのは、寂しい林とかに行って、つまり餓鬼が出そうな――餓鬼ってつまり低級霊だから。低級霊が出そうなところに行って置いておくと。だからすごく、その低級霊とか、つまり霊的なものがもっと今よりも身近だったんでしょうね。だから餓鬼にもあげると。で、残ったものを自分が食べる、みたいな教えがあって。だからここに書いてあるのはそういう感じですよね。不幸に陥った、あるいはよるべがないとか書いてるのは、つまり別に怠けてるわけじゃなくて、昔のインドですから、今もそうかもしれないけど、いろんな理由でなかなか食事にありつけないような人にまず分けなさいと。それから法友に分けなさいと。法友も、もう一回言うけども、事情があってどうしても食べられない法友もそうだし、あるいは場合によっては元気な法友でも、愛を持って与えたりする場合もあるかもしれない。
 これも何回か言ってるかもしれないけど、日本のお盆のもとになった話として、モッガッラーナの話があって。つまりモッガッラーナのお母さんだったかな? お母さんが亡くなったわけですね。で、亡くなって、モッガッラーナって神通力者だったから、その神通力で、死後どこに行ったかをちょっと見てみたら、餓鬼界だったかな? つまり低い世界に落ちてたんですね。低い世界にもう落ちてしまっていたと。で、そこでお釈迦様に相談したわけだね。「わたしのお母さんが低い世界に落ちてしまった。どうしたらいいでしょうか?」と。もちろん――これ、面白いのはさ、今から話すのはこれ大乗的な話なんだね。うん。でもこの話には実は、小乗的なオチ、大乗的なオチ、密教的なオチっていう三つがあるんです(笑)。なんか面白いね。
 じゃあ一個一個言うと、まず小乗的なオチ。それは、「どうしたらいいでしょうか?」って言われて、お釈迦様は、「それは執着である」と。「だっておまえのお母さんに限らず、悪業を積んだ者はみんな低い世界に落ちてる」と。「なんでおまえのお母さんにだけ目を向けるんだ」と。「それはただの執着である」と。執着は当然修行の邪魔になるし、モッガッラーナ自身がこの輪廻に結び付けられるものになるから、執着を絶て。――これが小乗的な話です。
 それから大乗的な話は、お釈迦様はそれを聞いて、「そうか」と。「それならおまえは、法友たちにたくさん布施をしなさい」と。で、布施といってもモッガッラーナは出家してるから、財産を持ってないから、どうしたかっていうと、一人で家々を回ってたくさん托鉢をもらってきて、で、その食事を、何百人か分からないけど、たくさんいる法友たちにバーッて布施したんですね。つまり自分の体を使ってひらすら集めてきて、それをお布施する。つまり徳を積んだわけだね。これも面白いよね。これ、いつも言っているように、親子関係っていうのは直接的な因果関係にあるから。つまり子供が徳積んだら親にも返るんですね。もちろんさ、それ以前に、モッガッラーナっていう偉大な人物を生んで、モッガラーナは修行して解脱してるから、その分でだいぶ親に返ってるはずなんだけど(笑)。でもそれでも餓鬼に落ちてるから、相当悪いカルマがあったんでしょうね。だからさらに徳を返すために、っていう意味でしょうね。つまりそれは、救う方法はただ一つ、「おまえが徳を積め」と。「おまえがもっともっと徳を積め」と。そういう発想ね。
 で、この話が、日本のお盆のもとになってるといわれている。だから全然違うんですね。日本でやってるような、夏になるとご先祖様が帰ってくるとか、そんな話は全くありません、もちろん。あれは日本の民間信仰とかとちょっと混ざっちゃったんでしょうね。だから本来のお盆っていうのはそういうものじゃなくて、このモッガッラーナの話をいうんだね。だからほんとにお盆とかで皆さんがご先祖様とか、死んだ親やおじいちゃんおばあちゃんを供養したいと思うんだったら、徳を積むと。これがほんとのお盆ですね。
 はい。で、三つ目に密教的な話。この密教的なオチでは、そのように言われたお釈迦様は、「よし、じゃあ行こう」って言って(笑)、モッガッラーナと一緒に神通力で餓鬼の世界に行くんです。で、直接的に教えを説くんです。「モッガッラーナのお母さん」と。「あなたはこういう生き方したから餓鬼に落ちたんだよ」と。「これからは、こうこうこういう生き方しなきゃいけないんだ」と。「このようにして心を変えなさい」って教えを説いて、そこでモッガッラーナのお母さんは改心して、心が変わって救われたっていう話がある。これは密教的な、つまり神通とかを使って救ったパターンだね。
 はい。で、ちょっと話を戻すけど、だからこの二番目の話のように、別に法友が元気だとしても、そういう感じで自分が徳を積みたいっていう感じで法友に供養する場合もあったと。はい。それで、残ったものを最後に自分が食べるんだと。
 はい。もちろんこれはここに書いてあるように、現代には当てはまらない話ですね。しかしまあ現代においても、そのような――これはだから、ここに書かれてることは、このあとの「三衣以外は捨離せよ」とかも全部そうですけど、別に食べ物に限らず、そのような心構えっていうかな。食べ物に限らずですよ。あらゆるものをまずはみんなのために。で、残ったものをわたしが頂きましょうと。そのような発想ね。それを常に持ちましょうというふうにとらえたらいいね、現代においてはね。
 はい。そしてまあここにもあるように、食事、「程よき量を自ら食えよ。」と。もちろん無理な断食とかを無理にする必要はない。もちろん断食とかはしたい人はしてもいいけどね。でも別に無理にする必要はないと。そして同時に、もちろん食べ過ぎてもいけない。肉体が必要としてる、あるいは修行とかいろんな奉仕とかに必要なだけのものをとればいいと。つまり貪りによって食い過ぎてしまうとか、あるいはおいしいものを求めて、グルメみたいに、味覚によって食べる物を貪るとか、そういうのはするなと。
 はい。そして衣服。これは「三衣以外は捨離せよ」と。三衣というのは、仏教のお坊さん、出家修行者のスタイルとして、まずスカートですね。腰巻ですね。腰巻を巻いて、それから上着っていうかこの上半身のための布と。ミラレーパとかは布一枚で体覆ってたんだろうけど、インドの伝統としてはまず腰巻を巻くと。で、上半身の布を巻くと。で、もう一つはこれは季節によってちょっと寒いときはもう一枚上に巻くと。これが三衣ですね。これが伝統的な、言ってみればユニフォームと。出家修行者のユニフォームと。
 で、伝統的には実際には、出家修行者はその三衣と、それから托鉢をするための鉢ですね。鉢。ボウルね。あと経行とかよくするので、そのための杖ね。この三つだけが所有を許されたといわれています。
 ただ後世、ちょっと教団が大きくなってきてからは、個人所有ではないんですけども、道場みたいなのができて、で、そこで一応その出家者用の、座布団みたいなの、座具ね。座布団みたいなものとか、あと寝るときの寝具――もちろん粗末なやつですけど、粗末な寝具とか、あと、怪我とか病気になったときのための薬箱みたいなものとか。あとは、もともとボロを縫って着てたので、そのための裁縫用具とか、だんだんそういう必要必需品は、まあ個人所有ではないんですけども、一応修行者のものとして認められるようになってったみたいだけど。もともとは修行者は、出家修行者は、今言った三つの衣と、杖と鉢しか持っちゃいけなかったと。
 はい。これもだから現代においては――つまり風習が違うからさ、全然違う風習ですので、それはこのまま当てはめられないし、あるいはこの三衣もおそらく着替えがあったかどうかとかよく分からない。多分ほとんどなかったでしょうね。インドだからさ、皆さんもインド行った人は分かるように、だいたい、洗ったら着てりゃ乾きます(笑)。だからあんまり着替えがいらないんだね。だからほんとに粗末な最低限な布のみを、一着か二着かぐらいにしとけと。うん。これも、繰り返すけど、現代にちょっと合わないけども――ただこれもさ、なんていうか、いつも言うように、こういう話っていうのはある意味極端な話なんだけど、逆にこの極端な話を頭に留めておくことによって、われわれの貪りを止めることができるね。さっきも言ったように、ここも別に服だけのことを言ってるんじゃなくて、現代ではいろんな物があふれてるので――もちろんそれは大義名分としては、執着しなきゃいい。どんな豪邸に住んでても、どんなにものすごい物が家にあふれてても、執着しなかったらなんの問題もありません。しかし、心っていうのは弱いからさ、まあ執着しやすくなっちゃうんだね、そういういろんな物があふれてると。だからできるだけ少なくしなさいと。
 たださ、現代で、なんだっけ、よく断捨離とかいうの流行ってて、全部家の物、部屋の物を捨てるとかね、ああいうのはなんか、ダルマなしにああいうのをやってもあんまり意味がないような気がするんだけど。だからあんまり極端に――もちろんやりたかったらやってもいいけども、全員が必ずしもそういうのをやる必要はないんですけども、心の問題として、「わたしは貪りがないかな?」と。「ほんとは必要でないものをあまりにも多く集め過ぎてたかもしれない」と思ったら、ちょっとそれをやめるとかね、あるいはちょっと新しいのを買いたいなと思ってもそれをストップするとか、そういうふうにここは考えたらいいでしょうね。現代においてはね。

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