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勉強会講話「聖者の生涯 ナーロー」⑤(7)

◎しらみ

【本文】

 再びナーローが旅を続けていると、ある庵にたどり着きました。そこに住んでいる隠者の一人が、彼をあの有名なナーランダー大学のアバヤキールティ僧院長だと気づき、こうたずねました。
「どうしてここへおいでになられたんですか? 私達に会いに来られたんですか?」
「私は単なるクスリーパ(食事・睡眠・排便以外は瞑想に没頭するヨーギー)ですから、接待はご無用です。」
とナーローは言いましたが、隠者達は、礼を尽くしてナーローを歓迎しました。そして隠者達が改めて来訪の理由をナーローに尋ねたところ、ナーローは言いました。
「私はティローを探しているのです。見かけませんでしたか?」
 すると隠者は言いました。
「あなたの探索も終わりに来ましたね。ティローと名乗るこじきが、庵の中にいますよ。」
 ナーローが庵の中をのぞくと、一人のこじきが、生きた魚を油で炒めていました。その様子を見るや、隠者達は、怒ってこじきを殴りはじめました。こじきは言いました。
「わしのしていることが気に食わないのか?」
「庵の中で悪事が行なわれているのに、どうして気に入ろというのだ!」
 こじきが指をパチンと鳴らし、マントラを唱えると、魚は湖に帰っていきました。

 ナーローは、このこじきこそがグル・ティローであると悟り、こじきの手を握り締めて教えを乞いました。こじきは一掴みのしらみをナーローに手渡して、こう言いました。

「お前がもし、
 習慣を作り出す思考と、
 すべての生き物の究極の本性に至る
 無限の道に深く浸透した偏った性質の
 苦しみを滅し殺そうとするならば、
 まず(これらのしらみを)殺さねばならぬ。」

 しかしナーローはできませんでした。するとこじきはこう言いました。

「習慣を作り出す思考と
 自己を生み出すものと、自己を破壊するものという
 しらみを殺すことなく、
 グルを見出すのは難しい。
 明日は奇人ショーを見に行くこととしよう。」

 そう言うと、こじきは姿を消しました。

 はい、だいぶティローに近づいてきましたね。これまでは本当にその幻影がティローだっていうことは全く分からなかったわけだけど、ここはちょっと「あっ、ティローだ!」っていうところまでは近づいた。ね。最初は分からなかったわけだけど、乞食がいて、で、その乞食が仏教徒にはあるまじき――つまり仏教は、さっきも言ったように殺生をしてはいけないので、生きたまま魚を調理するなんてのはもっての他なわけだね。でも生きたまま魚を調理してると。でもその乞食がパチンと指をならすとパッとその魚が甦って湖に帰っていくと。この奇跡を見て、「あっ、この人こそがティローに違いない!」とナーローは気づくわけですね。ここまでは良かった。で、ここでティローが手にいっぱいのしらみを出して言うわけだね。

「お前がもし、
 習慣を作り出す思考と、
 すべての生き物の究極の本性に至る
 無限の道に深く浸透した偏った性質の
 苦しみを滅し殺そうとするならば、
 まず(これらのしらみを)殺さねばならぬ。」と。

 しかしナーローは、もちろん不殺生という観念が根づいているから。当然その人が自分のグルだとは気づいていたんだけども、グルの命令、「このしらみを殺せ」っていう命令が遂行できなかった。そしたらティローが消えてしまったっていうことですね。
 このエピソードっていうのはとてもティローとナーローの話では有名なエピソードで、だからよくティローパが――チベットではティローパっていわれるわけですが――ティローパが曼荼羅とかタンカで描かれるときは、よく魚を掴んだかたちで描かれるんだね。
 ただ難しいのはさ、もう一人魚を持つ人がいて(笑)、これも前、八十四人の密教行者とかで出てきたけど「ルーイーパ」って人がいてね。このルーイーパっていう人は、もともといいとこの生まれだったので、すごく自分の清らかさとか不浄とかいうことにすごく観念があったので、それを打ち砕くために、漁師が捨てた魚のはらわたを食って修行してたっていうんですね。普通は特にインドとかではそういう不浄物って嫌うから、「これは不浄だ」っていって悪いものだっていうのがあるわけだね。「こんな物はもう食べるもんではない」と。そういうのをあえて食べてたと。で、その象徴としてこのルーイーパも魚を持った姿で描かれる。だからもしタンカとかで、大体密教行者的なちょっとエキセントリックな雰囲気で魚を持ってたら、ティローパかルーイーパかどっちかだと思ってください。で、大体ティローパってナーローパと一緒に対で描かれることが多いんで、そういう二人組で一人が魚を持ってたら、「あ、これはナーローとティローだ」って思ったらいいね。
 はい、で、このティローが、もう一回言うけども、魚を生きたまま殺すと。それからナーローにしらみを殺すことを要求すると。これもけがれの表現としては、さっきからずっと続いている無智の一つの表現ね。つまり一般の人が普通にやっているようなことだね。もちろんわれわれは例えば環境にもよるけども、人間にしろね、他の動物にしろ、他の生命を殺めないと生きていけないという一つの矛盾の中にいるわけだけどね。菜食主義をするにしても、当然植物だって生命だから。生命っていうか、仏教的には植物に魂は宿らないけど、でも生命には変わりないよね。生長するわけだから。それは何か他の生命を取り込まないと生きていけないという一つの大いなる矛盾の中にいる。まあそれ自体が大いなる無智っていうか迷妄なんだけど。だからといって、わたしはいつも言うように、みんなに菜食主義になれとはいわない。あのさ、もうジャイナ教みたいにね――ジャイナ教っていうのは、すごくそういうところを徹底して極端に守るわけだけど。もしそういう感じで、もし徹底的に極端に守ろうとしたらね、われわれは――そうですね、栄養剤だけ食べて過ごさなきゃいけない。もしくはそうですね、精製された一つの商品だけを食べてね、暮らしていかなきゃいけなくなるね。まあそれはそれでいいけどね。それがいいっていう人がいたらね。でもそこまではする必要はない。そこまではする必要はなくて、まあ野菜はもちろん食べてもいいと思うし、肉や魚っていうのはあんまり食べ過ぎない方がいいけども、菜食中心の方がいいとは思うけども、たまにスーパーとか肉屋とか魚屋さんで売っている死んだものを買ってきて食べるのは、そんなに問題ではない。
 はい、それはそれでいいんだけども、この大いなる他の魂の苦しみを考えずに生きたまま調理して食べるという一つのけがれの現われね、無智の現われですね。

◎混乱の道に

 で、そうじゃなくてこれを肯定的なメッセージとして捉える場合、これはもうまさにティローの言葉なわけだけども、

「お前がもし、
 習慣を作り出す思考と、
 すべての生き物の究極の本性に至る
 無限の道に深く浸透した偏った性質の
 苦しみを滅し殺そうとするならば」

 これがとても素晴らしい一つのメッセージです。つまり、やらなきゃいけないことは、一つはさっきから言っている「習慣を作り出す思考」をいかに滅するか。それから、

「すべての生き物の究極の本性に至る
 無限の道に深く浸透した偏った性質の
 苦しみを滅し殺す」

 まあ、ちょっと長いけどね(笑)。つまり「すべての生き物の究極の本性」――これはダルマターといってもいいし、ヨーガ的にいうと真我といってもいいわけだけど、究極の本性にたどり着くことが修行の達成でもあるし、われわれの真の幸福の道でもあるんだけども。その道には「深く浸透した偏った性質」、つまり偏った性質っていうものが深く浸透しているんだと。それを滅さなければいけない。
 それから、後のほうで出てくるのは、「習慣を作り出す思考と 自己を生み出すものと、自己を破壊するものというしらみ」ということが出てくる。「習慣を作り出す思考」はずっと出てきている言葉ですが、「自己を生み出すものと、自己を破壊するもの」。これはつまり、われわれのこの二元性の世界において「わたし」っていう感覚を生じさせるもの。そして「滅させるもの」。つまり「生じては滅するっていうこの二元の無常の流れの中に、自分を結びつけているもの」です。これがつまり、かなり本質的な問題に迫ってるんだね。
 「わたし」っていうものを作り出している大もとの大もとの条件みたいなもの。あるいは、真の本性に到達することを邪魔している偏った性質。これも習慣によってできているわけだけど、習慣によってできてる偏った性質。これをしっかりと滅尽しなきゃいけない。
 で、ここでしらみが出てきているのは、これもいろんな説があるけども、本質的には実はあまり意味はない。本質的には実はあまり意味はないっていうのは、この一連の出来事っていうのは、完全に第一の狙いは「ナーローの心の混乱」を狙ってるんだね、最初から。つまり、しらみにはそんなには実は深い意味はない。いかにナーローを混乱させるかなんです。徹底的にナーローを混乱の道に迷いこませているんですね。
 ナーローっていうのはもともと、何度も言うけども、天才的な仏教学者。だからおそらくこのグル探しの道に出会うまでは、このナーローみたいな人っていうのは、迷ったことや混乱なんかなかったでしょう。これはナーガールジュナとかも、あとシャンカラーチャーリヤとかね、いろんなそういう天才的修行者っていうのは大体そうなんだけど。例えばちょっと一回経典を見たら、理解すると。「ああ、なるほど。こういうことですか」と。一回教えを聞けば、その意味をズバズバっと理解する。何の問題もないと。「はいじゃあ次、はいじゃあ次、はいじゃあ次」ってこういくわけですね。でも、最終段階において本当にナーローが完全な叡智に到達するには、まずそのある意味優れた心の仕組みっていうかな、優れた心の観念みたいなものをぶっ壊さなきゃいけないわけですね。それには大いなる混乱に巻き込ませなきゃいけないんだね。
 だからこのしらみの話だけではなくて、いろんなヴィジョンが、もう非常にスムーズじゃないわけですね、つまりね。バーッてこうナーローに問題を出して、「はい、じゃあこうなんですよ」って答えを与えるんじゃなくて、すべて混乱の中でナーローを置いてけぼりにするわけだね。ナーローが気絶して目覚めたら、後悔してまた次の旅をすると。もう徹底的に混乱に巻き込むことで、心の崩壊のプロセスをいってるって考えたらいいね。
 ただ、何度も言うけども、とはいえ、今一応説明したけども、とはいえ、ここで起きていることは、今のわれわれのもう本当に想像すらできないレベルの話だと考えたらいいです。今のは一応の説明です。一応の説明だけども、だからそれがもうちょっとレベルの低い段階の話としてはわれわれも理解できるかもしれない。あるいはそれを当てはめることができるかもしれない。だからわれわれのレベルにちょっと落として言うと、われわれも当然、さっきからの話と通じるけどね、修行を進めてくってことは、ある段階まではね、自分を作る道でいいんです。自分の知性をどんどん向上させて、自分の中で「教えとはこうで、教えとはこうで」っていうのをしっかりと固めていくと。これはこれで必要なんだね。必要なんだけども、ある段階から逆にそれが邪魔になるんです。逆に大いなる知性と理解があるがゆえに、本当のことに気づけないっていう段階があるんだね。そうなったら、ぶっ壊される段階にきます。
 だからここで重要なのはですよ、ちょっと誤解を恐れずに言いますよ。誤解を恐れずに言うと、だから特に密教において重要なのは、「教えよりも自分の師匠」っていうものがあればこの道はいける。これは意味分かるよね? つまり今言った、教えを作る段階っていうのは必要なんだけども、自分が理解した教え、これが真の悟りの邪魔になる場合があるんです。で、それを壊してくれるのが神でありグルなんです。で、これはいつも言っていることだけど、本当はやってくれてるのは神なんです。至高なる神がやってくれてるんです。でも、この至高なる神っていうのは見えないので、エゴが逃げたがるから、逃げさせないためにグルが登場するんです(笑)。グルは生身だから(笑)、言い訳がきかなくなるんだね。
 つまり教えよりもグルっていうのは、教えがある段階から言い訳に使われるようになる。本当の意味で自分を成長させるものというよりも、エゴがあまりにも苦しいから、教えを言い訳に逃げようとしだす。これは実際に皆さんのレベルっていうか、修行を始めたばかりでもよくあることです。教えを理由にエゴを肯定したりとかね。あるいは教えを理由に、自分のことを棚において人を攻撃すると。批判すると。これはよくあるパターンだよね。あるいは教えを理由に、さっき言ったみたいに、教えを捻じ曲げて自分の煩悩を肯定したりとかね。こういう罠によくはまるわけだけど。まあこんなのはレベルの低い話で、ここで言っているのは、もうかなり自分は教えが身についてね、教え通り生きれるようになりましたと。でも究極の悟りにはまだヴェールがありますと。で、このときに、その自分が作り上げた素晴しい教え自体が邪魔になっている場合があるんだね。それはぶっ壊されなきゃいけない。それがこのナーローの物語にあるように、まあある意味それは自然に起きるんです。それは神によってなされているといってもいいんだけど。
 これは中沢新一さんとかも言っているけども、中沢新一さんは、あの人は皆さんも知っているように『虹の階梯』とかを出した人ですけども、日本で初めてね、ゾクチェンの本格的な修行をやった人といわれていますが、その中沢さんが言うには、「ゾクチェンの修行をやると、ちゃんと本格的にやった人っていうのは必ず社会的にボロボロになる」っていうね(笑)、例えば歴史を見てもね、ゾクチェンの偉大な大聖者とかいうのは、大体その、国外追放になったりとか(笑)、いろんなもう社会的にボロボロにされるんですね。まあその後には偉大な人としてに認められたりするんだけど、必ず一度はすべてをぐちゃぐちゃにされてしまうと。
 でもそれはとても分かる気がするんだね。ある段階からそういうことが必ず起きるんです。ぐわーってぐちゃぐちゃにされる状況があって。で、それによってせっかく作ったもの――壊されるっていうよりも、そこから引っぺがされてくっていうかな。で、何度も言うけども、そのときに自分の師とか、あるいは神でもいいんだけど、さっき言ったように誠実さがないと神も利用されてしまうので、全く言い訳ができない生きた師にしっかりつかまってると。それによってバラバラと他のものが全部崩れていくと。で、それが必要な道なんだね。こういった密教的な道っていうのはね。
 はい、もちろんこのしらみっていう話には、実際はもっと他の意味も含まれているかもしれない。でもそれはちょっとここでは置いといて、ちょっと大まかな今説明をしましたけどね。
 はい、で、これも、ナーローはティローをそこで捕まえることができず消えてしまったと。というよりも、それは捕まえることができなかったというよりも、もうそれもまたプログラムだと思ったらいいね。ここで捕まえることはどうにしろ多分不可能であった。つまり、ここでナーローは混乱に巻き込まれなきゃいけなかったんです。この多くの混乱を経験して、自分の構築してきたものを崩されなきゃいけなかったっていうことですね。
 はい、じゃあもうすぐティローに会いますが、一応今日はここで終わりにして、はい、じゃあ質問があったら最後に聞いて終わりにしましょう。何か質問等ありますか? 特にないかな? 
 よく大乗仏教とか、特にあと密教とかの世界になってくると、よく戒めとしてね、例えば他宗派の人とか学者とかと議論してはならないという戒めがあるんですね。それは今日の話とか聞いてたらよく分かるかもしれない。つまり議論が意味をなさないっていうか、成り立たない世界になってくるんだね。っていうのは、やっていることや考えていることが、まあレベルというよりも深さが全然違う世界に入ってくるっていうか。本当の修行をしている人っていうのはね。単純に教えっていうものを頭で理論的にとらえ、で、それをやっている人と、その教えが示している観念の崩壊の世界に一歩でも二歩でも足を踏み入れている人っていうのは、全く教えに対する見方が土台から違ってきてしまうんですね。だから議論ができないし、逆に議論なんかしちゃうと引き戻されます。その言葉の世界に引き戻されます。だからそれはマイナスであるし、何の意味もなくなってしまう。だからそういう実質的な道っていうのは、そういう深さがあるんだね。

 はい、何か特に質問ないかな?

(H)ちょっと質問していいですか? さっきちょっと質問があったんですが、この勉強会と関係ないんですけど、指の気功についてなんですが……

 指の気功? 全然関係ないね(笑)。

(一同笑)

 いいですよ。

(H)指の気功のときも、易筋経とかと同じような呼吸をするんでしょうか?

 そうですね、したらいいと思います。

(H)あと、その一つずつ指のポーズをとっていくんですけど、それが一回終わったらそれを何度も繰り返して、で、これ、どれくらいやったらいいとかっていうのはありますか?

 いや、あの、やり方は、一つは健康法としてやるときは、一個一個こう連続してやっていくやり方もありますけども、じゃなくて何か実際に特定の病気を治したいって場合は、やるやつだけを――例えばこの病気の時は中指だけとかいろいろあると思うから、それを長めにやってもいいと思います。で、これは立禅とかと同じで、特に下限も上限もないんですね。平均的には例えば一分とか二分とかですけども、やりたかったら別に二十分でも三十分でもやっても構わないっていうか。

(H)はい、わかりました。あと、リウマチの人に何かいい修行法とかあったら教えて頂けますか?

 特にっていうのはないけども、リウマチも恐らく現代医学では実際にはあまり解明――っていうか、現代医学ってほとんどの病気を解明できてないと思うんだけど(笑)、リウマチも解明できていないと思うけども、当然ヨーガ的にいったら気の詰まりには違いないので、今言った気功もそうだし、アーサナ、呼吸法あたりを全体的に進めていったらいいと思いますね。あと一般的にもリウマチっていうのは冷えは禁物っていわれると思うので、当然その環境にね、あまり――あ、でも札幌だよね(笑)? 札幌は家は暖かいんだよね――あまり冷やさないようにして、かつしっかり呼吸法とかアーサナ、気功をすることで内側からしっかり温めてやれば、まあ即効性はないかもしれないけども、リウマチの原因となっているような気の詰まりとかを緩和していくことにはなると思います。

(H)あとあれですか? やっぱり慈悲の瞑想とかそういうのも日々やっていったらいいんでしょうか

 それはもちろんそうだね。それはだからより根本的な問題になるよね。技法というよりは、痛みの原因が――人によってその原因が何パーセントどこにあるかっていうのは分からないけども、憎しみとか嫌悪とかも原因の要因の一つではあるだろうから、そっちの面から攻める方法もある。あるいは、しっかりと慈悲の瞑想とかが根づくことによって、当然痛みは痛みとしてあったとしても、その痛みに対する耐性っていうかな、その痛みにかなり強くなります。慈悲の瞑想とかやってるとね。だからそれはそれでいいと思いますね。

(H)はい、ありがとうございました。

 他は特にないですか? じゃあ特になかったら終わりましょう。

(一同)ありがとうございました。

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