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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(6)

【本文】

 悪魔たちは、ミラレーパを嘲笑いました。
「そのようなとりとめのない言葉にはだまされないぞ。魔法をやめて、お前を自由になどするものか。」

 彼らは、神秘的な力によって生み出した兵器を増大させ、悪魔の軍隊の力を強化して、ミラレーパを悩まそうとしました。彼はしばらく熟考し、言いました。

「お前たち、悪魔の軍勢よ! わたしの言葉をよく聞きなさい。
 わがグルの祝福によって、わたしは究極の真理を完全に悟ったヨーギーとなった。わたしにとっては、悪魔たちによる苦難や障害は、ヨーギーの心にとっての名誉である。そのような苦難が大きいほど、ボーディの道での収穫は多い。
 わたしの『七つの飾りの歌』を聞きなさい。」

 はい。このミラレーパの、なんていうかな、堂々とした言葉、これはもちろんミラレーパだから言えることなわけだけど、でもわれわれも、われわれのレベルにおいて、覚悟というか、このような強い気持ちを持つべきなんだね。つまり苦難が大きければ大きいほど、この菩薩の道における収穫は大きいと。このような、なんていうかな、勇気を持って、修行に励むといいね。
 つまり人生において、特に修行してると、いろんな苦難がやってくる。それは実際に物理的苦難の場合もあるし、あるいは修行における苦難ね。あるいは、そうですね、自分の煩悩を揺らされるとか、いろんな意味での障害がやってくる。で、そこで「うわー!」って小さくなったり逃げたりするんじゃなくて、「苦難よ、来い!」と。それが大きければ大きいほど、そのあとの収穫も大きいと。それを乗り越えたときのそのメリットは大変大きいんだと。それくらい、なんていうかな、勇気を持ってぶち当たるといいんだね。
 で、ミラレーパに関してはもう完全に悟ってるので、どんな悪魔が来ても全く問題ない。で、悪魔がやってきて、それを乗り越えて、まあ、例えばチベットという地を非常に清浄な地にしていく。あるいは、そのような悪魔との戦いの勝利っていうものを例えばグルに捧げる。あるいは、そこで得た――この物語に表わされるようなものが人々に伝わってね、人々のためになる。いろんなかたちで、ミラレーパにとっては、それはまあ、一つの名誉であり、一つの使命であり、一つの飾りに過ぎない。だからもう超越してるわけだね。
 でもわれわれはそこまでは行っていない。だから、この悪魔にしろそうだけど、いろんな一般的な障害にしろそうだけど、あまり自分の領域を踏みだして戦っちゃ駄目だよ。これは仏教のお釈迦様の教えにもあるんだけど、自分の領域で戦えっていう教えがある。これはある例え話があってね。それは何かっていうと、スズメだったかウズラだったかちょっと忘れたけど(笑)、とにかく小鳥がね、鷹に捕まった。ね。鷹に捕まって、もう連れ去られようとしてるときに、その小鳥が言うわけですね。「ああ、ほんとにわたしはバカだった」と。「わたしは自分の領域を出てしまった」と。「自分の領域さえ出なければ、わたしはこんな鷹になんか捕まらないのに」と言ったんだね。そしたらそのプライドの高い鷹は、「何言ってるんだ」と。「おれはおまえがどこにいようと捕まえる」と。「おまえの領域っていうのはどこだ」と。「それはあの畑の中だ」と。で、プライドの高い鷹は、「そこまで言うならやってみろ」って言って、放しちゃうんだね。で、その畑に逃げていった小鳥を再び追っかける。で、捕まえようとするんだけども、畑の領域においてはもう慣れてて、小鳥は自由に逃げ回って、その鷹は捕まえることができなかった。その畑のね、デコボコしたところに顔を打っちゃったりとかして。もう小鳥はほんとに自由に逃げ回ったんだね。つまりこの例え話っていうのは、この小鳥はまさに畑においては全く敵なし。鷹だろうと捕まえられない。しかしちょっと遊び心を出して畑から出ちゃったがために捕まってしまったと。
 これと似たような話はいろいろあって――ある亀がいてね、その亀っていうのは、海底の奥深くに住んでる亀の集団がいるんだけど、ある長老の亀がいて、「絶対にあの領域からは出るな」って言ってた。でもある若い亀が、ちょっと好奇心を出して、その駄目だって言われてる領域から出たんだね。そしたら人間がやってきて、銛を打って亀を捕らえようとした。で、その若い亀はなんとか逃げて戻ってきたと。で、その長老の亀に言ったわけだね。「いやあ、わたしはあの出ちゃいけないっていう領域から出てきたけども、でも全く大丈夫でした」と。「簡単に逃げてきましたよ」と。でもその長老の亀がよーくその若い亀を調べたら、銛がもう甲羅に突き刺さってたんだね。で、ロープが、人間の方まで伸びていた。で、そこでその老いた亀は、「おまえはバカなことをした」と。「おまえはもう自由ではない」と。「おまえはもう人間のものになってしまった」と。「わたしの言うことを聞かずにね、この領域から出たからだ」と。つまり一見自由に見えるんだけど、もう完全に人間のものになっている。
 で、ここでいう人間っていうのは悪魔のことだね。つまり自分の戦える範囲以上のとこに出てしまうと――例えばこの悪魔もそうだけど、われわれはミラレーパの境地までは行ってないから……もちろん、「どんな悪魔も来い!」っていう心意気は大事だよ。心意気は大事だけど――例えばだけどね。これはちょっと一つの例として、すごい魔的な空間があるとして、例えばね、「おれはミラレーパだ!」とか言って(笑)、その魔的な空間に行って「うわあー」ってやられて(笑)、駄目になっちゃうような(笑)、バカなことをやってはいけないと。これはまあ、一つの例だけども。
 あるいは例えば、そうだな、現象的に魔的な、「あ、今なんか魔が迫ってるかもしれない」というような状況になってきてね、で、このままこの物事を進めるといろいろグジャグジャになるかもしれない。――そのときに、それをあえて進める必要はない。つまり自分の対処できる範囲内で魔と戦えばいい。これは魔だけじゃないけどね。いろんな、普段の修行とか、あるいは普段の欲望との戦いとかもそうだよ。自分の、なんていうか――もちろん、何度も言うけど、心意気は大事なんだけど、でも現実的に例えばそこで自分が結果的にそこで魔にやられてしまうとか、結果的に煩悩にやられてしまうんだったら、それはただの無智というか――になってしまう。だから日々その自分の領域を広げていくことは大事なんだけど、必ずその領域内で戦わなきゃいけないっていうのは、われわれにとっては大事なことだね。しかしミラレーパに関しては、もう完全に、なんていうかな、何の領域もないっていうか。もう完全に悟ってるから、こういう激しいことが言えるわけだね。
 はい。で、話をもう一回戻すけども、一般的な苦難に関しては、ここに書いてあるような心構えを持つべきです。つまり苦難が大きければ大きいほど、悟りの道におけるね、あるいは菩薩の道における収穫は大きいと。だから自分で、なんていうかな、自分をわざわざ苦しめる必要はないんだけど、自然にやって来る苦しみっていろいろあるよね。修行してるといろんな苦しみがやってくる。それをこういう気持ちで喜んでください。「ああ、来たか」と。
 例えば人間ってさ、逆に苦難を嫌がるから、例えば一カ月前よりも二倍くらい大きな苦難が来たとするよ。そうすると、当然落胆するわけです、普通はね。「はあ、先月よりもこんなに今月は苦しい」と。「うわー、なんでこんなに苦しまなきゃいけないんだろう」――じゃなくて、「おっ! 二倍の苦難が来た!」と。「――っていうことは、収穫も二倍だ」と。ね(笑)。つまり、「これを乗り越えたときに得られるものは、一体、どれだけわたしの修行を進めてくれるんだろう」と。そういうような気持ちを持って、苦難をしっかり受け止めるっていうかな。そういうことは大事だね。

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