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「ミラレーパの生涯」第三回(14)

 「現象の認知はダルマカーヤであると瞑想したので、すべての心の作り出した瞑想を忘れてしまいました。」

 はい。まあつまりこれも簡単に言うと、結局ダルマカーヤ――ダルマカーヤってさっきの三身の一つですけども、仏陀の悟りの境地ですね。この悟りの境地っていうのは、結局すべてに行き渡っていると。この現象、われわれのこのいろんなものを見たり聞いたりしている、この現象の本性自体もダルマカーヤなんだと。で、それを瞑想したというか、完全にそれをもう悟ってしまっているので、そうじゃない、その前段階の心がつくりだす瞑想――まあつまり瞑想っていうのは――ちょっと簡単に言いますよ――生起の瞑想と究竟の瞑想がある。で、これは一般的にちょっと勘違いされてるところあるんですけど、簡単に定義をしますよ。究竟の瞑想っていうのは、この究竟っていう言葉は完成っていう言い換えてもいいんだけど、完成の瞑想っていうのは、リアルにこの宇宙の本性、心の本性に飛び込む、これが完成の瞑想だと考えてください。で、逆に生起の瞑想っていうのは、まだそんなに心の本性や宇宙の本性を知らないと。よって擬似的にそれをイメージする、これが生起だと考えてください。で、これはどっちも必要なんだね。で、最初はこの生起の瞑想――だからさっきの話も同じだけどね。例えば、ほんとは見えないんだけど空に神々をイメージするとか、あるいはいろんなことを変容するとか、これは生起ですよね。でも生起をやってるうちに、さっき言ったように究竟に近づくんです。ね。最初は思い込みでもいいんで、すべてを神の現われとして見てるうちに、だんだん自分の中のその本性に対する目みたいなものが、智慧の目みたいなものが、だんだんこう目が開いてくるんだね。で、完全にそれに一致したときっていうのは、もうそういったことをつくりだす必要がないと。完全にありのままに真理を見られる状態になってると。で、その状態になったらもう、つくりだす瞑想はいらないっていうことですね。
 ただまあ、われわれの段階っていうか、それまではいるわけですよね(笑)。だからここに書いていることは、何々は忘れてしまったって書いてあるのは、全部いらないっていう意味じゃなくて(笑)、段階においてはもちろんいりますよ。心がつくりだす瞑想っていうのはもちろんある段階まではいりますと。でも最終的にはそれがいらなくなるぐらいに、つまりありのままに、つくられざる境地、真の境地に到達しなきゃいけないってことだね。はい。

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