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ラームチャンドラ・ダッタの生涯(12)

 淀んで汚染されたカルカッタの大気は、シュリー・ラーマクリシュナの病気を悪化させた。医師の助言に従って、信者達は、カルカッタの北郊外に位置するコシポルのガーデンハウスへ師を転居させた。ラームは例によって管理業務を果たし、自身の財力に従って、師の生活費用のために布施をした。

 一八八六年一月一日、シュリーラーマクリシュナは桁外れな霊的状態にあられた、そして多くの信者に恩寵を与えられて、「輝いてあれ」と仰った。ラームはその機会に恩寵を与えられた一人であった。のちに彼はその日を「カルパタルの日(願望成就の日)」として、自身のガーデンハウスで毎年祭典を執り行なった。

 シュリー・ラーマクリシュナは一八八六年八月一六日、コシポルのガーデンハウスで逝去なさった。彼の火葬後、師の遺骨の多くの部分は、のちに僧となった若い弟子達によって礼拝された。(師の遺骨の)残りは、師の逝去の一週間後にあたるシュリー・クリシュナの生誕記念祭・ジャンマーシュタミーに、カンクルガチのヨゴディヤーナに安置された。ラームは率先して直ちに師の遺骨を規則的に礼拝する手筈を整えた。それ以降毎年、ジャンマーシュタミーは、ヨゴディヤーナでの中心的な祝祭の日として祝われるようになった。

 ラームはシュリー・ラーマクリシュナの伝記を出版した初めての人物であり、師の遺骨の礼拝のための寺院を最初に建立し、そしてシュリー・ラーマクリシュナがアヴァターラ(神の化身)であると初めて公然に説いたということは注目に値することである。彼の燃えるような信仰、献身、放棄、博学、そして人々を説得する能力は、彼を理想的な伝道者にした。そしてさらに重要なこととして、彼はグル、シュリー・ラーマクリシュナの恩寵を得たのである。
 一八九三年から一八九七年にかけて、彼はシュリー・ラーマクリシュナの生涯と教えについて、スター劇場、シティー劇場、ミネルヴァ劇場で一八回、講義を行なった。これらの講義はカルカッタにセンセーションを引き起こした。初め、シュリー・ラーマクリシュナの弟子でこの講義に異議を唱える者もいたが、ラームはそれには耳を貸さなかった。
 一八九三年の聖金曜日に彼は一連の講演を開始し、その第一番目の題目は「ラーマクリシュナ・パラマハンサはアヴァターラなのか?」というものだった。ラームは聖典からの引用、論法、経験による証言、自身の個人的な経験による出来事を通じて、自身の見解を立証した。
 ラームは、自分自身が性欲と貪欲を放棄しない限り、人々が放棄と純粋性の権化であったシュリー・ラーマクリシュナに関する彼の講義に耳を貸すことはないということを悟った。

 シュリー・ラーマクリシュナによれば、真の宗教とは、心と言葉を一致させることであり、ラームは誠実に、自分の人生を師の教えの通りに変えようと努めた。彼は会社で良い地位を占めていたが、それを誇ることは決してしなかったし、より高い地位や世間的な対象を切望することを自分に許さなかった。衣食については、質素を旨とした。職場と家庭に関して多くの義務を抱えていたにもかかわらず、心はいつも、師とカンクルガチ・ヨゴディヤーナに注いでいた。彼は妻と子供たちに囲まれてシムラーの家で暮らしていたが、毎日カンクルガチを訪れていた。のちに彼はヨゴディヤーナに移り住み、礼拝による奉仕、ガーデニング、そして清掃を自ら引き受けた。

 神はさまざまな方法で帰依者をお試しになる。神を真に愛する者とは、すべての誘惑を乗り越えることのできる者である。あるとき、カルカッタの商人が船四隻分の灯油をイギリスから輸入した。しかしながら、灯油を販売する前に、化学分析用のサンプルをラームに提示しなければならなかった。ラームは三度検査したが、それは3ポイント足りなかったので、灯油の販売を認可することはできなかった。商人は深く悲しんだ。それは数百万ルピーの損失を意味したからである。彼は商品の売買を認可してもらうため、四万ルピーを賄賂として送ろうと申し出たが、ラームはお金の受け入れを拒否し、商人に虚偽の証明書を書くことは決してできないと言った。ラームはそうした多くの誘惑を受けたが、真理から逸脱することは決してなかった。

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