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「プライド」

【本文】

 まずはじめに、全ての条件を考察して、事に着手し、あるいは着手しないようにせよ。着手して事を中止するよりも、(最初から)着手しない方が勝っている。

 来生においても、それが反復される。そして、悪のために苦しみが増大する。のみならず、他のことは無に帰し、なすべきことの時間は失われる。そしてそのことは完成せられない。

【解説】

 何か事をなす前に、全ての条件を考察して、なすべきかなさざるべきかを吟味すべきです。
 「全ての条件を考察して」というところが重要ですね。というのは、ある一つの条件だけだと、「なすべきである」と思えるものが、全ての条件を加味してトータル的に考察すると、「なしてはいけない」という結論に至ることもあるからです。そして煩悩のエゴというのはずるがしこいので、自分に都合のいい条件だけを思い浮かべ、煩悩肯定に走る危険性も多々あります。
 だから最初から、智慧を駆使して、多角的に条件を考察し、なすべき事となすべからざる事を吟味するのです。

 あいまいな、あるいはエゴを優先した考察により、悪をなしてしまい、それを後にやめる--それはやめることはすばらしいですが、それだったら、最初にしっかり吟味して、最初からやらない方がいいのです。
 なぜなら、悪をなして、それをやめたとしても、そのなした悪の行為の習性は、心の奥に残ってしまうからです。もちろん、後の修行でそれを浄化することも可能ですが、時間のロスになりますね。
 また、どうせやめる悪をなしている時間というのは、とても無駄であるともいえますね。我々には時間はないのです。善の完成にも、多くの時間がかかるわけですから、最初にしっかりと考察吟味して、なすべき善と、なすべきではない悪をしっかりと確定させ、なすべきことのみに全力であたるべきです。

 
【本文】

 誇り(プライド)は、行為と小煩悩と能力の三事に適用せらるべきである。
 「ただ私一人のみが、それをなすべきである」と考えるのが、行為におけるプライドである。

 この世界は煩悩に支配せられ、(人々は)自己の(真の)利益を成就する力がない。そこで私は彼らのために、それをなさねばならぬ。私は人々のように無能力ではない。

 私がそこにあるとき、どうして他の人が、卑しい行為をなすであろうか。もしもプライドのために私がそれをなさないなら、私のプライドは、むしろ滅びた方がよい。

 死せるドゥンドゥバ(トカゲの一種)に対しては、カラスでさえその上に舞い降りて、金翅鳥のように振舞う。私の心が無力であれば、些細な過失でも、私を圧しひしぐ。

 落胆して無活動となった者は、過失に陥りやすいではないか。しかし、常に心が奮い立ち、(菩薩の)プライドを持つ者は、大きな(誘惑)にも負かされない。

 だから、堅固な心で過失を不運に陥れよう(すなわち、過失の侵入を防ごう)。もしも私が過失に打ち負かさるれば、三界を征服しようとの私の願いは、笑いの種となろう。

 私は全てに勝たねばならない。何物にも負けてはならない。これが私の保つべきプライドである。なぜなら、私は獅子のごとき勝者(仏陀)の子であるから。

 プライドに征服せられた衆生は、哀れむべきである。彼らはプライドを保つ者ではない。プライドを保つ者は、敵の支配に屈しない。然るに彼らは、プライドという敵に支配せられている。

 プライドによって悪趣に導かれるばかりでなく、人に生を受けては、喜びなき者、他人の食を食う者、召使、愚者、醜い者、やせこけた者となる。

 そして全てから軽蔑せられ、プライドに硬直して、哀れな者となる。もし彼らをプライドを保つ者の中に数えるとすれば、いかにそれが哀れなものであるか、それを言え。

 プライドの敵に打ち勝つために、プライドを動かし、わななくプライドの敵を滅ぼして、思うままに人々に勝利の結果を明示する--かかる人々が、プライドを保つ人、勝利者であって、まさしく勇士である。

【解説】

 「プライド(誇り)」という一つの言葉で、相反する二つの意味があります。
 一つは煩悩としてのプライド、すなわち慢心と呼ばれる心の状態ですね。
 もう一つは、菩薩や修行者が持つべき、菩薩としての、あるいは修行者としての誇り、プライドです。これは良いプライド(誇り)ですね。
 
 密教においてはこれを発展させて、「常に仏陀(神)としてのプライドを持て」と言います。これはまたもう少し深い意味があるのでここで説明は省略しますが、大乗仏教においても、「修行者・菩薩のプライドを持て」という発想はすでに登場するわけですね。

 というより、原始仏教の時代から、お釈迦様の仏教というのは、誇りを持ち、正しいプライドを持ち、決して魔に負けずにすべてを打ち砕いて進んでいくような、強烈にパワフルな印象がありますね--私が原始仏典を読んだ印象としては。日本の仏教者の中には、仏教、特にお釈迦様のイメージを、もっとやわらかいものに設定したい人も多いようですが、実際のお釈迦様はもっと激しい、かっこいい修行者だったような気がします。
 
 とにかく修行者は、プライドを持ち、決して負けてはいけません。
 「謙虚」という言葉のもとに自分を飾り、自分の弱さを肯定し、また自分が負けたときの保険をかける人がいますね。そういう姿勢では駄目だということです。
 「私は修行者なのだから、魔の誘惑などに負けるものか!」
 「私は菩薩なのだから、どんな汚れにでも打ち勝ってみせる!」
 このようなプライド、誇りが必要なのです。
 もちろん、その途中段階においては、実際心の中では、泣きたいときもあるでしょう。実際は魔に負けそうで、不安でしょうがないときもあるでしょう。しかしその弱さの中に没入してはいけないのです。良い意味で「カッコをつける」のです。たとえ負けそうでも、笑って、智慧と菩提心の剣を抜いて、悪魔の敵を撃ち殺すために突っ込んでいかなければなりません。
 もちろん、実際、何度も負けることでしょう。しかし何度負けても、何度も立ち上がればいいだけのことです。何度倒されても屈しない、そのようなプライドを持ちましょう。「悪いプライド」を持つ人は、一度負けると、プライドが「卑屈さ」に姿を変え、もう動けなくなってしまいます。そうではなくて、何度負けても負けを認めず、自己の汚れに、煩悩に、悪魔に、戦いを挑み続けるのです。

 「悪いプライド」と「良いプライド」の大きな違いは、前者は、今の自分の状態に慢心を持ち、もうそこで進歩が止まってしまうのです。そしてプライドで硬直し、見解が狭くなります。
 ナーガールジュナは多くの種類の「悪しきプライド」をあげていますが、その中でも代表的なのは、「自分は優れている」と思う慢心と、「自分は劣っている」と思う卑屈さですね。この二つは表裏であって、どちらも、自己の進歩を止めてしまいます。
 「良いプライド」とは、言い方を換えれば、「自分は菩薩である」「自分は修行者である」という、アイデンティティの設定ですね。ぶっちゃけていうと、まだ自分は本当は、完璧な菩薩などではないし、完璧な修行者でもありません。しかしそれはわかっていながら、「自分は偉大な菩薩である」「自分は偉大な修行者である」という、少々高めの自我設定をするのです。しかもそれは言葉だけで実態が伴わないものではなく、実際に実態を伴わせるように努力するのです。自分の中で、完璧な菩薩・修行者としての認識を忘れないようにし、その理想に常に自分を合わせようとし続けるのです。

 そしてこの本文に書かれてある「良いプライド」の表現は、よく考えるとものすごいことですね。私になりにもう少し噛み砕いて表現してみますと、こういうようなことでしょう。

 「多くの衆生は、真理を理解したり、実践したり、悟ったりするような徳や理解力を持っていない。
 しかし、私こそはそれを持っている! だから、私がやらずに、誰がやると言うんだ! 私が世界を救わずに、誰が救うというんだ! 私がやるならば、どんな不可能もあるはずがない! さあ、世界中の魔よ、来い! 全て打ち砕いて、私が世界を救おう!」

 --このような言葉をただ吹聴し、実際は何もしないとしたら、ただの大ぼら吹きの大魔境になってしまいますが、こういうことを、人に言うのではなく、心の中で自分への決意として何度も繰り返し、実際に、その理想に常に近づくように努力するのです。何度負けても、プライドを捨てずに何度も立ち上がり、努力し続けるのです。
 このように、高い理想を持ち、それを常に実現しようと努力し、何度負けても決して屈しない--これこそが、菩薩・修行者の持つべき「良いプライド」ということができるでしょう。

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