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「熱意」

【本文】

 自他のために、私は無量の過ちを滅ぼさねばならない。しかも、その個々の過失を滅ぼすためにすら、カルパの海(無限の年数)を要する。

 ところで、この過失を滅ぼす試みのわずかすらも、私に認められない。無量の苦難を受くべきに、何ゆえに私の胸は破裂しないか。

 また自他のために、私は無量の徳を獲得しなければならない。ところで、その個々の徳を反復修習することさえ、カルパの海をもってして、なお達成できるかどうかである。

 徳のごくわずかな一部分についてすら、それを反復修習することは、私において実現しなかった。かろうじて得られたこの稀有なる人生を、私はむなしく過ごした。

 すなわち、世尊を供養する大祭典の楽しみを、私は経験しない。また、教えに対して礼拝せず、貧者の要望を満たさなかった。

 恐怖しているものに安らぎを施さず、悩める者を楽しめる者となさなかった。私は、ただ苦しめるために、母胎に賊として入っただけである。

 永い間、真理の法を求める熱意がなかったので、現在かような不幸の状態に生まれた。(これを知れば)誰が真理の法を求める熱意を捨て去るべきであるか。

【解説】

 自他のために--つまり自分と他者をこの輪廻から救い出し、完全な至福にいたらせるためには、自分は、無量の過ち、すなわち過去の悪業や、悪しき心を打ち滅ぼさなければなりません。そして同時に無量の徳を積まなければなりません。ここでいう徳とは、もちろん善のカルマ、そして良い心の状態など、我々を幸福にし、解脱に向かわせる因すべてですね。
 我々が解脱しようとするなら、このような膨大な悪業の滅尽と、徳の獲得が必要なのです。ましてや自分は、自分ひとりではなく、他の全ての衆生を解脱させようとしているわけですから、そのためにはものすごい悪業の滅尽と、功徳の獲得が必要です。
 そのような努力をせずに、ただ言葉で「解脱だ、菩薩だ、救済だ」と言っても、それは戯言に過ぎません。物理的に、実際に、徳が必要なのです。菩薩の光が必要なのです。悪業の滅が必要なのです。

 しかし、悪の一つをやめるのも、あるいは徳の一つを反復修習とするにも、「カルパの海を要する」といいます。これはどういうことでしょうか?

 カルパとは膨大な時間の単位で、それにはいろいろな計算方法がありますが、「カルパの海」というのは、とにかく計算できないほどの永い時間ということですね。

 そのような膨大な時間をかけても、我々の中の「悪しき要素」は、一つ消えるか、消えないか、だというのです。
 そして善の要素も、そのような膨大な時間をかけて、やっと一つに身につくか、身につかないか、だというのです。

 つまり普通、人間は、なかなか性質が変わらないということですね。
 たとえば怒りっぽい人がここにいたとします。この人は意識的あるいは無意識に、周りに怒りを振りまきます。そうするとそのカルマにより、周りからも怒られたり、嫌な気持ちにさせられます。するとまたそこで怒りを増大させることになります。
 このように、その悪しき性質が、終わらないんですね。どんどん増大していくだけで、終わらないのです。
 あるいは良い性質も同じで、たとえば「心からの慈愛」とい性質を持っていない人が、それを身につけようとしても、普通は、何度も生まれ変わっても、なかなか難しいということです。

 ただし実際は、前にも書いたように、「正しい教え」「正しい修行法」「自らの心を訓練するための日常の環境」、そしてこれプラスして、自己を改善していこうという「熱意」、これらがそろえば、自己改革、悪の滅尽、徳の増大は、そんなに難しいことではありません。それは私自身、あるいは私が見てきた多くの修行者の例から言って、間違いのないことです。
 しかし言い方を換えれば、これらの条件がそろうということがまた大変なことであって、それにはものすごい年数がかかるということはいえるのかもしれません。だからもし今、これらの条件をそろえているならば、そのチャンスを逃さずに、懸命に悪業の滅尽と徳の増大に励まなければなりません。
 
 そしてここでは特に、真理の法を求める「熱意」を持つことが、主要テーマとなっています。つまり、一つの悪を滅するにも、徳を増大させるにも、一筋縄ではいかないのですから、あやふやな心構えではなく、強烈な熱意がないとだめだということですね。

 ここまでをまとめますと、以下のような内容になるでしょう。

①自己の解脱を果たすためには、膨大な悪の滅尽と、膨大な徳の増大が必要である。

②私は、自己のみならず、全ての衆生の解脱を願っている。そのために生きようとしている(菩提心)。

③よって私は、徹底的に悪を滅し、ものすごく膨大な徳を積まなければならない。

④しかしその一つの悪を滅したり、一つの徳を増大させることですら、大変なことだ。

⑤実際、過去の私は、熱意が足りなかったので、ほとんど悪は滅せず、善も増大させることができなかった。

⑥そのために今私は、自分自身不幸であり、また他にも不幸を与える存在となってしまっている。

⑦よって今から私は、悪を滅し、善を増大させるために、強い熱意をもとう!

【本文】

 また、「真理の法を求める熱意」は一切の善の根であると、聖者は唱えたもうた。そしてそれは、カルマの報いを繰り返し観ずることを根本としている。 

 悪をなす人々には、いろいろな苦しみ、激しい憂い、恐れ、失望が生ずる。

 浄善を行なう人の希望は、何に向けられても、それぞれにおいて、その功徳の力によって、よき結果のもてなしによって供養される。

 然るに、罪悪を行なう人の望みは、それが何に向けられても、それぞれにおいて、その罪悪のために苦しみの刃で滅ぼされる。

 善行によって、広大な、薫り高い、涼しい蓮華の胎に入り、勝者の優しい音声に養われて、その輝きをいや増す。そして、聖者の光線によって蓮華が開くときに、正しい相を備えて現われ、スガタの前に、スガタの子として生まれる。 

 不善行によって、その全ての皮膚をヤマの従者に剥ぎ取られ、苦悩に叫びながら、その身体には熱火に溶けた赤銅を注がれ、燃える刀と矛の百の障害によって肉は細切れに刻まれ、灼熱の鉄の床に、幾たびも落ちる。

 それゆえ、善への熱意を起こすべきである。それを恭しく修習した後に、「ヴァジュラドヴァジャ」の儀軌にしたがって、「誇り」に着手して修習すべきである。

【解説】

 ここは仏教においても、ヒンドゥー教のヨーガにおいても、基本とされる「カルマの法則」の認識ですね。それをしっかりと持たなければなりません。
 最近のスピリチュアリティの一部、あるいは最近では仏教徒を自認する者の中ですら、カルマの法則を否定する人、あるいは捻じ曲げた形で捉える人がいるようですね。まさに末法の時代だと思います。
 お釈迦様や、仏教・ヨーガの聖者方が「発見」し、繰り返し説いてきた「カルマの法則」とは、とてもシンプルでわかりやすいものです。善によって幸福になり、悪によって苦しみを受ける。この法則性と、その報いの例を繰り返し繰り返しイメージすることで、悪を避け、善を行なわなければいけない、という強い熱意を育てるべきです。
 「善が積めたらいいね、悪も滅せたらいいね」とか、「全てはなるようになるから、このままでいいよ」なんていう、似非精神主義、似非バクティ・ヨーガでは駄目なのです。仏教にしろバクティ・ヨーガにしろ、その思想は実際はもっと厳しいものです。懸命に、全精力をかけて熱心に善に向かい、熱心に悪を断たなければならないのです。

 そして次にシャーンティデーヴァは、修行者としての「誇り」を持つことの重要性の話に入っていきます。

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