「バクティ」第一回(3)
「そして至高者以外の何ものにも庇護を求めることはない」と。ね。
これはさ、みなさんがそれぞれ考えてもらえばいいんだけど――あの、分かりやすいように極端な例を挙げるとね――極端な例っていうか、いつも言ってる話だけど――例えば、わたしの好きな話で、ラーマクリシュナのある弟子が重病にかかったときに、重病にかかってどんどん体が弱っていったときに、周りの人はお医者さんに行くことを薦めたわけですね。「早く医者に行った方ががいいですよ」と。でも彼は、「いや、そんなの全く必要ありません」と。「わたしの主治医はただ一人、主――あのお方だけです」と言って、病院にさえ行かなかった、という話がある。
で、もちろんこれは一つの極端な例なので、みなさんに真似しろとは言わない。つまりかたち上ね、みんなに病院行くなって言ってるわけじゃないんだけど――考え方としてね、考え方として、わたしには主だけが頼りであって、ほかには――例えばほかの人間もほかの神々も、ほかのさまざまないろんなその拠りどころ、こんなものは要らないと。わたしのただ一つの拠りどころは主だけなんだと。
あのさ、これはもちろん、自分の考えとかも同じです。前も何回か言っている話ですけどね――あのヴィシュヌ神と、信者のこういう話がありますね。ヴィシュヌ神が、ヴィシュヌ神のヴァイクンタという浄土で安らいでいたら、いきなりヴィシュヌ神が立ち上がって出て行こうとしたと。で、そこにいたヴィシュヌ神の妃のラクシュミー女神が驚いて尋ねたわけですね。「一体どうしたんですか?」と。「何があったんですか?」と。そしたらヴィシュヌ神が言うには、「わたしにすべてを捧げている、わたしにすべてをお任せしている信者が、今強盗に出遭って、たいへんな暴力を受けようとしている」と。「だから、彼はわたしにすべてを捧げ、わたしだけを頼りとしているから、わたしは助けに行かなきゃいけない」って言って出て行ったんですね。でも出て行ったと思ったらすぐに戻ってきちゃった(笑)。ヴィシュヌ神がすぐに戻ってきちゃって、で、ラクシュミー女神が「あれ? もう帰ってきたんですか?」と。「どうしたんですか?」と聞いたら、「いや、彼は暴漢にやられそうになって、助けに行こうとしたら、彼自身が石を取り出して反撃し出した」と。「だからわたしは帰って来た」っていう話があってね(笑)。
つまり至高者にお任せではなくて、その状況を自分で何とかするもんだと思い、そして自分の観念、あるいは自分の力というものによってその状況を変えると考え、その人が、その信者が石を手に持った瞬間、至高者は帰って行っちゃったという話だね(笑)。
これはまあちょっと象徴的な話ですけどね。
ただ、もちろんみなさんは分かると思うけど、前も言ったように、われわれはね、自分の意志、つまり正しい教えに乗っ取った意志を磨く修行ももちろんしなきゃいけないんですよ。つまり自分でこの現象を意志で変えるんだと。でもこれはちょっと、なんていうかな、微妙な話なんで、みなさんしっかり心でつかんでほしいと思うけども――この、修行者が自分の意志で何をするかっていうと、まさにバクティの道から外れている自分を、自分の意志でぐっと戻そうとするんです。つまり、「わたしは煩悩いっぱいで神への愛もない」と。「だからこの煩悩をどうにかしてくれるのも神にお任せ」――じゃ駄目なんです。
本当はこれでもいいんですよ。本当はこれでもいいって言っているのは、例えば例をあげるとラーマクリシュナの弟子のギリシュとかはそういう感じだったんですね。でも、これはね、実際にはみんなは真似できない。何でかっていうと、つまりギリシュってのは本当はすごい信者だったんです。つまり、心から本当に完全なる信愛があったんだね。だから逆に言うとあれができた。でもわれわれは、実際にはまだ疑り深い。疑ぐり深く、あるいはまだエゴが強過ぎるんだね。だからこの方法も――まあ、この方向性も、心の中にある程度あってもいいけども、これだけじゃ駄目。
そうじゃなくて、自分は全然駄目だと。自分はまだまだ神に投げ出せていないと。で、それは、自分の中にいろんなこういう要素があると。だからそれを自分の意志の力で打ち砕いていく。打ち砕いて、その神のみに心が向かうように、自分を自分の意志で頑張って修正しなきゃいけない。この気持ちは同時に持たなきゃいけないんだね。で、そのもとに一切のことを神にお任せすると。
だから逆に言うと、自分が神に本当に心を向けられるか、本当に神を愛せるかということ以外のことは、ほとんどどうでもいい。ね(笑)。どうでもいいって言うのは、例えばここで――今の例えで言ったらね――悪者に自分が殴られそうになって、そこでその信者がね、「いや、わたしは神にお任せしてるから」ってやり返さなくて――やり返さなかったらヴィシュヌ神の力で――例えばだけどね、なんかピカーッとなって(笑)、その悪者たちが改心するかもしれない。あるいはなんか奇跡的なことが起こって、奇跡的に助かるかもしれない。でもね、助からないかもしれないんだよ。もしかするとそのまま殴られるかもしれない。でも、どうでもいいんです、別にそれは。つまり、ここがさっき言った、初歩的な宗教とは違うって話で――わたしは、ヴィシュヌ神にお願いすれば悪者が来ても殴られないからヴィシュヌ神に帰依してるわけじゃない。じゃあ、もし殴られたらもう帰依はなくなるのかって問題があるよね。こんなんじゃもちろん駄目なわけですね。だから逆に言うと――もう一回言うよ――これくらいのもし帰依心があれば、つまり「神よ、あなたにすべてを捧げてますから、わたしは今、悪者はやって来ましたが、安全であるとわたしは確信しております」と。「お任せします!」ってやったらボコボコにされたと(笑)。ね(笑)。ボコボコにされたんだけども、そこで喜んで、「ああ、神よ」と。「これがあなたの今回の愛でした」と、そこに何の自分の概念も入れないっていうか。こうだったら良かったとか、こうだったら信じられたけど、こうだったから信じられないとかね、そんなの一切ないと。もう完全に一方的な愛です。
前にも言ったけど、完全な、客観的に見ると片思いのような、何の見返りも求めない愛なんだね。もう、なんていうかな、理由なき愛っていうか。もしそこで神が――まあちょっと変な話だけど――神が何か言ってきたとしても――例えば「いやお前、わたしに帰依したって何も与えないよ。別にいいことないよ」とか、あるいは「わたしに帰依したっておまえの苦しみ終わらないよ」とかね、何を言われたとしても関係ないんだね。「いや、わたしは別に何かを求めて帰依しているわけじゃない。ただあなたを愛したいだけだ」と。あるいは「ただこのわたしの中に、燃えるようなあなたへの愛が燃え上がっているから、ただこれをまっとうしたいだけだ」と。ただこれだけなんだね。
これがあれば、なんていうかな、さっきの――これが完全にあれば、さっき言ったギリシュのようなことも実はできるんだね。つまり、わたし今煩悩いっぱいありますが、これをどうするか全部あなたの責任ですと。ね(笑)。何とかしてくださいと(笑)。で、なんでこれができるかっていうと、このような誓いというかな、お願いをした者には、ギリシュの例がそうだったように、自動的にその信者のカルマを浄化し、そして神への愛でいっぱいになるような現象がいっぱい起きるわけですね。でも、そこでその人は本当は口先だけで心の中に疑いがあったり、神への愛が弱かったりすると、すぐに文句を言い出すわけだね。いろんな悪いことが起き出したら、「何するんですか」と(笑)。「もうわたしはあなたを信じません」となってしまう。だからこのようなことっていうのは最初はできないんですね。
はい、だから話をちょっと戻しますが――だから実際的には、われわれは修行においてはね、修行においては自分の意志っていうのを強く持って、自分の心を志っていうのを強く自分で壊れないようにして、で、自分の意志の力によって自分のけがれを打ち砕いていく。こういう姿勢は絶対に必要なわけですけど――しかしその結果として起きること、あるいは現象的な意味で起きること等に関しては、ただすべてを神にお任せすると。神だけがわたしの拠りどころであり、あるいは主治医であって、あるいはわたしの人生を動かせる、お任せしている唯一のお方である、ということですね。ただ至高者だけに、至高者以外の何者にも庇護を求めることはない、っていうのはね。
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