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母なる神(6-8)

 聖なる母神は、まだ他にも、偉大なる相をそなえておられるのではあるが、それらを地上に引き下ろすことはいっそう難しく、それらがこの世の魂の進化を通して際立った姿をとって前面に出たことも、まだない。こうしたその他の相の内には、超精神が地上に顕現するのに不可欠な威風が存在しており――特に、至高者の愛から流れ出す、かの神秘的で強烈な至福(アーナンダ)という名の性格こそが、その一つである。
 そしてまた、超精神が支配する世界の至高の高みと、物質界の最低の深淵との間にまたがる亀裂を癒すことができるのも、この至福(アーナンダ)をおいて他にはなく、まさしくこの至福(アーナンダ)こそが、素晴らしくも、神のこの上もなく聖なる命に至る鍵を握り、今でもそれ自身の奥処から、この世のその他諸々の力の営みを支えているのである。
 しかし、自我にとらわれた、暗く不透明で、限界のある人間性には、そうした大いなる威風を受け入れたり、それらの力強い行いを受け止めたりするだけの資格はない。それどころか、母なる神の四つの偉大な相、つまり四大女神が、変容を遂げた精神と生命と身体のうちに、神々に相応しい調和と自由をたたえた働きを基礎づけた時に、その他の力たちも、地上の運動を通して姿を現すことができるようになって、超精神に基づく行為も可能になるのだ。
 言い換えるならば、母なる神の様々な相が、彼女を通して一つに集められてハッキリした姿をとり、それぞれのバラバラだった営みが調和のある統一に変じて、それらの相が彼女を通して超精神に基づく独自の神格たちにまで高まった時、母なる神ご自身も、超精神そのものたるマハーシャクティとしての姿を明らかにして、自らの光り輝く超越的性質たちを、その形容を絶する世界から、地上にそそぎもたらすのである。
 そしてそのとき、人間性もまた、神の聖なる力動的性質へと変貌することが可能になるのだ。それは、超精神に基づく「真理の意識」と「真理の力」を芯から支える弦が、欠けることなくすべて張り渡されて、生命のハープが「永遠なるもの」のあらゆるリズムを刻むに相応しいものとなるからである。

 もしもあなたがこのような変容を切に望むのならば、アラ探しをしたり抵抗したりするのはやめて、自分を母なる神の手と力にゆだね、彼女がその御わざをあなた自身の内部でのびのびとされるにまかせることだ。
 そのとき、あなたが心に止めておかねばならないことが三つある。それは、十分に意識していること、柔軟であること、そして一点の保留もない全面的な明け渡しとである。

◎十分に意識していること

 というのも、あなたは、自分の精神と、魂と、心と、生命と、まさに体の細胞そのものを通して、意識を十分に保ち、母なる神の存在と力と御わざに、いつも気づいていることが必要であるからだ。

◎柔軟であること

 あなたの本性は、彼女からの接触に対してはどこまでも柔軟であることが必要で、自らに自足して悦に入っている迷妄なる精神が、疑問と疑いと論争にふけって、己の開眼と変化を目の敵にしているときのように、いたずらに疑問を呈することがあってはならない。
 また、あなたの本性は、人間の内で働いている生命なるものが、神の聖なる威光のことごとくに対して、自らの手に負えない欲望や悪意をもって一貫して対峙しているときのように、それ自身に固有な運動に闇雲に固執することがあったりしてはならない。
 また、あなたの本性は、人間の物理的意識が自ら障害となって、狭い暗闇の歓楽にしがみついては、魂を欠いた決まり仕事や、緊張を欠いたものぐさや、無気力なまどろみなどをすべてかき乱してしまう神の聖なるひと触れに、いちいち反逆の叫びを上げているときのように、自らが障害となって、行為不能と、惰性と、タマスの中にむなしくはまり込んでいることがあったりいしてはならないのである。
 
◎全面的な明け渡し

 あなたの内面・外面を含めた存在全体をあげての一点の保留もない全面的明け渡しこそが、その柔軟性をあなたの本性のあらゆる部分にくまなく浸透させてくれるはずで、意識は、上から下る叡智と光とに向けて、力と調和と美と完全性とに向けて、常に開かれたままでいることを通して、あなたのいたるところで、自ら目覚めに至るはずである。身体でさえもが自ら目覚めて、ついには己自身の意識を超精神の支配する超意識的な力にまで結びつけては、かの力が自分の上からも下からも、そして周辺からも、様々な形で一斉に浸透してくるのを覚えて、至高の愛と至福に触れる喜びに打ち震えるはずである。
 
 しかし、超越的な事柄さえをも、自分の規範や基準に従わせたり、自分の狭い思索や誤った印象に従わせたり、自分の底なしの攻撃的な迷妄に従わせたり、自分のつまらない知識に得意になって従わせたりすることが大好きな、あなた自身のささやかな地上的精神によって、「聖なる母神」勝手に理解したり判断することがないよう、くれぐれも気をつけることだ。その半分にしか光の射していない薄暗い牢獄に幽閉された人間の精神には、神の聖なるシャクティの歩みがそなえている多面的な自由についていくことなど不可能である。彼女のヴィジョンと行為の、迅速で複雑な様々が、人間精神のよろよろとしたおぼつかない理解力をうわまっている上に、彼女の運動を支える尺度も、人間精神を支える尺度とは別のものであるからだ。
 彼女の多くの異なった人格が目にもとまらぬ速さで次々に入れ替わっていく様に当惑し、彼女が様々なリズムを刻む一方でそれらを乱していくさまに当惑し、彼女がスピードを次々に上げる一方でスピードを次々に遅らせていくさまに当惑し、彼女があれこれの問題を多様な仕方で次々に扱っては、今この方針を取り上げたかと思うと次にはまた別の方針を取り上げ、さらに気がつけば今度はそれらを一緒に取り上げているといった様子に当惑して、自分が迷妄の迷宮を抜けて天上の光の世界に向かってくるくると旋回しながら押し上げられているときにも、人間の精神は「超精神の力」のやり方を認識することがないのである。
 彼女に対しては、あなたの精神ではなくむしろあなたの魂を開いて、魂の本性によって彼女を感じ、魂のヴィジョンで彼女を眺めるべきである。ただそうした態度のみが、真理に対して素直に反応できるのだから。そうすれば、母なる神ご自身が、あなたの心と、あなたの生命と、意識を、すべて目覚めさせてくれ、それらに対しても、彼女自身のやり方と本性を顕わにして見せてくださるはずである。

 また、どんなときにも、神が全智・全能であることについてのお粗末な表面的疑念を持ってはいけない。
 私たちの迷妄なる精神は、およそ奇跡的な力や、簡単に得られる成功や、目もくらむような栄光などがないと、この場における神の存在が信じられない。しかし母なる神は、自ら迷妄の場に身を置いて、迷妄に対処するのであって、彼女は今もここにすでに降り来たっているのである。彼女は自らの叡智と力に一部ヴェールをかけたり外したりしながら、地上の自然の方法にあえて従うことで、逆にそれらを変容させようとするのである。
 私たちの人間的自然は、それを遙かに超えた領域にまでいきなり引き上げてもらうには、あまりにもか弱く、あまりにも自覚に欠けているのである。
 「神の聖なる意識」と「神の聖なる力」はすでにここにあり、今なすべきことをひたすら行い、定められたステップを常に踏んでは、不完全性のただなかにあって、完全性を形作っていくのである。
 しかし母なる神は、超精神があなたの内に降りたそのときに限って、自ら、超精神の支配する「聖なるシャクティ」ご自身として、様々な超精神的自然に直々に対処することができるのである。
 あなたがただ自分の精神に従うのならば、母なる神があなたの前にハッキリ姿をあらわしても、あなたの精神が彼女を見分けることはできないだろう。だから、あなたの精神にではなく、あなたの魂に従うのだ。表面的な見かけに飛びつく精神ではなく、真理に応える魂に従うのだ。あなたの内なる「神の聖なる力」を信頼するのだ。そうすれば、母なる神があなたの内なる神のごとき要素をことごとく解放して、それらすべてを「神の聖なる本性」の一つに仕立て上げてくれるはずだ。
 
 超精神に基づく進化こそが、我々に定められたことである。しかし、そうした進化がやっと始まって形をとり、さらに持続していくためには、いざ「光」がやってきたときに、それを拒むのではなく、かえってそれを「光」と認めて行こうとするような、下から呼び求める声が必要なのであり、そしてまた「超精神」による上からの認可が必要なのである。
 この認可と懇願を仲立ちする力こそが「聖なる母神」なのだ。母なる神の力のみが、蓋をもぎ取ったり、覆いを引き裂いたり、器を形作ったりすることで、曖昧と誤りと死と苦難からなるこの世に、神の聖なる真理と光と命と、不死の甘露の至福とを引き降ろすことができるのである。

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