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霊的修行について

霊的修行について

ツォクニー・リンポチェ

 われわれは、帰依、発菩提心、無限の慈愛、慈悲、喜、平等心の四無量心の開発から始める。
 しかし、このそれぞれは、相対と究極の様相を持つ。

 相対的帰依は、帰依の対象の中に完全なる信を置くという態度で、われわれの前の空間に帰依の対象を観想することが必要となる。
 究極的帰依は、われわれが帰依の対象と不可分である心の状態の中で安らぐことが必要となる。

 菩提心も同じく、相対と究極の二つの様相がある。
 功徳を差し出し、他者の苦しみを引き受けることが、相対的菩提心の基本である。
 究極的菩提心は、精神的構築物なく、心に形成された何ものもなく、ただとどまることである。

 その後、神の修行、たとえばヴァジュラサットヴァの瞑想が来る。
 その一番最初の修習の方法は、われわれそのものが、ヴァジュラサットヴァの形を持った神であると観想することであり、そして同時に、心の本性を認識することである。
 よって、生成と完成の段階は、同時に存在し、不可分である。
 これは、方便と智慧の合一である。
 マントラを唱えながら、われわれは、光の放射線の放射とその再吸収などの観想を用いて、すべての衆生の幸福を成就する。
 最後にわれわれは、神聖なる神としてすべての視覚を経験し、マントラとしてすべての音を経験し、原初の光り輝く覚醒としてすべての心の動きを経験する。
 しばらくの間、このようにサマーディにとどまりなさい。

 同様に、その見解の中で、しばらくマントラを唱え、寂静に安らぐということを、交互に修習しなさい。
 詠唱に疲れたら、寂静の中にただありのままにありなさい。
 寂静の中にありまのままにあることに疲れたら、マントラの詠唱を続けなさい。
 最後に、功徳を回向し、良き大志、良き願いを作り、そして無条件の献身として寂静の中に安らぎなさい。

 これは伝統的な方法であり、あなたがこの体系で一つのセッションを修習することができるならば、それは素晴らしい。
 一日に一回できれば、とても良い。
 もしそれに慣れたならば、30分より長くはかからないだろう。
 もしわれわれが速度を上げるならば、五分以内におこなうこともできるだろう!
 非常に丁寧に、ゆっくりと修習するならば、容易く二、三時間を費やすだろう。
 一般的に、二、三時間という時間は、一つのセッションに費やすのに良い時間である。
 もしわれわれが、一日に四回、二、三時間のセッションを行うならば、それは、リトリートに入っていると言われる。
 三年間の集中したリトリートの中で、二、三時間のセッションでは短すぎるならば、われわれは、三時間半、あるいは四時間、継続して一つのセッションを修習することができる。
 普通のリトリートの中では、三時間のセッションは十分に長い。

 始めにわれわれは、熱心になる必要がある。
 これについて疑うならば、過去に、他の修行者がいかにして行為したか、いかに修行したか、どれほどの困難なことに取り組んだかが記述された生涯の物語を読みなさい。
 われわれは、カギュー派やニンマ派のラマの生涯から学ぶことができる。

 霊的修行に取り組む二つの方法がある。

 もしあなたが、完全に自由になること、完全なる解脱、完全な悟りを得ることに興味があるなら、急いで、大いなる精進を持って修行しなさい。

 もう一つのアプローチは、ビタミンやダイエットのサプリメントのようなものとして霊的修行をみなすことである。
 あなたが、エネルギーが少ししかないと感じ、あるいは調子が悪いと感じるならば、座って、気分を良くするために、少し修行しなさい。
 われわれは、修行を通じてバランスをとるように試み、そして、その後、普段の活動に戻るのだ。

 これらの方法のうちのどちらに従うかは、われわれ次第である。

 わたしは個人的には、われわれが無力にも輪廻の三つの領域の中に転生する必要がなくなるように、無明をその根っこから排除した方が良いと思う。

 一方もし、過度に苦しむことなく人生を終えたいならば、もしビジネスをして豊かになること、あるいはキャリアにおいて成功することだけでは全く十分でないと感じるならば、われわれは、人生をもう少し美しくするために瞑想の持続が少しばかり必要である。それも結構なことだ。
 それはまるで、われわれの人生をダルマの磨き粉で磨くようなものである!
 ある人々は、この姿勢によって、指導者を信じる。
 彼らは、生活にいくらかの霊的なものが必要であり、完全には物質主義になれないと自分に言い聞かせるのだ。
 このように、ある人々は、われわれの平凡な人生に霊性という艶を与えるために、朝と晩に、少しばかり薬を自分に与えるのだ。
 信頼できる先生は――そう、「師(グル)」ではなく「先生」なのだ――このように教えるだろう。
 先生は、五分の瞑想のセッションで生徒に教えを説く。
 彼らは、より簡単に、より気をそそるように、より趣味にかなうように、霊的修行を行おうとし、人々の態度に合うようにダルマを曲げようとしている。
 それは、真のダルマではない。
 あなたはこの「好都合なダルマ」の類に出くわすかもしれない。
 真実の教えと、このタイプの修行を混同するという過ちを犯してはいけない。

 もちろん正しい方法で、五分間だけ修行することもできる。われわれは五分だけ修習し、われわれが誠実な態度を確立した生粋の、真の方法でそれを行い、真の集中で主要部分を修行し、その後に、真の方法で回向するのだ。
 この場合には、五分間の修行でさえも、正真正銘の真実のものとなる。

 われわれが人生を費やす他の物事はたくさんある。
 もしわれわれがダルマを修習しようとするが、本当には修習しないならば、われわれは、ブッダの教えに害を与えることになる。
 われわれは、ダルマに困惑し、人生をも無駄にすることになる。

 たとえあなたが少しだけ修行するとしても、真の方法、真の見解、真の瞑想、真の行為でそれを行うよう試みなさい。
 たとえ短い間であっても、それを真実に為しなさい。
 そうでなければ、それはやらない方が良い。なぜならばそれは、ただ意味なく自分自身を縛り付けるためにダルマを使っていることになるからだ。
 それは全くの誤った道であり、誤った姿勢である。
 霊的な人を装い、手に数珠をつけることは、無益である。
 それが自然に起こるならば、それは差し支えない。
 われわれが本当にそのようにあるならば、問題はない。
 しかしもし、われわれは瞑想し、霊的であるから、他者から尊敬されたい、もっと高く評価されたいと思っているとしたならば、それは偽りであり、誤った姿勢である。

 われわれが、新入りであろうと、上級の弟子であろうと、常に、決して思い違いをするべきではない。
 もし、他の誰かがわれわれを欺いてきたとしても、それに関しては、われわれにできることはあまりない。
 しかし、思い違いをすることは、非常に悪いことである。そうではないか?
 よって、そのようなことがないようにしなさい。

 真の修行を説く本を利用して、単なるダルマの磨き粉として使ってはならない。
 真の修行は、不明瞭さを切り開き、妄想を明らかにする。
 もう一つのタイプの修行は、困惑した状態に艶を出す。
 後者のタイプの霊的修行は、われわれの欺かれたの状態を、よりきれいに、より心地よく現す。
 ある者は、「これを三週間、一日に二回利用してください。お腹の肉が取れて、5キロ痩せると保障しますよ」と言ってエキサイティングマシーンを宣伝するように、霊的修行を宣伝する。
 同様に、「この日々の修習を、一日にたった五分だけ利用してください、そうすれば、あなたの不明瞭さが明らかになることは保障しますよ!」と言う。
 いい感じではないか。しかしそれは本当に効き目があるのだろうか?
 われわれは、これについて考える必要がある。
 思い違いをしてはいけないよ。

 われわれは、努力し、耐える必要がある。
 飽き飽きしたなら、飽き飽きすればいい。しかし、修行はし続けなさい。
 わたしは、飽き飽きすることは、非常に良いことだと感じる。
 飽きは、前進のためのより良い機会である。
 瞑想修行は、二十秒毎に、われわれの注目を集めるために、新しく、面白いものを映し出すテレビの宣伝のようになものではない。
 何か面白いものは、瞑想の中では、二十秒毎には起こらない!

 また、映画の中でもこの傾向を見ることができる。
 古い映画は、長く、長い会話を含み、そんなに出来事はない。
 昨今の場面は、数秒毎に変化し、非常に多くのアクションがある。
 人々の期待は、そのようになったのだ。
 映画のプロデューサーが、人々の欲していることに応じているのである。

 また、人々は、彼らが見る映画に欺かれているだろう。
 たくさんの若いネパール人は、男も女も、インドやアメリカの映画で描かれる役者に実に影響を受けている。
 彼らはそのように振舞おうとし、そのように着飾ろうなどとする。
 彼らは、模造品になってしまうだろう。
 このタイプの妄想は、相互の依存物であり、両サイドからの要因の一致である。

 われわれに必要なことは、自然な心を持つことだ。困惑されていず、誤解がなく、欺かれていないね。
 われわれは、不明瞭の流れを切り抜けるために、自然で、新鮮で、原初の覚醒の状態が必要だ。
 原初の覚醒は、妄想の経験をバラバラに切り刻む。それによって、それは実体がなくなる。
 また、あなたは、――全く実体のないものである――焼けたロープから作られた結び目として、不明瞭さを見ることもできる。

 悟りの基礎は、精進をそなえた幸福な心である。
 根本において不幸せであったり不安であったりするならば、もっと精進するように試みなさい。

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