解説「菩薩の生き方」第三回(3)
【本文】
あたかも夜に、雲深き暗黒に、稲妻の閃光が一瞬、物を照らし出すように、ブッダの威力によって、世人の思いが、しばしの間、福善(幸福の因たる善行)に向かうことがある。
だから浄(きよ)き行いは常に力が弱い。これに反し、悪の力は大きく恐ろしい。もし菩提心がなかったら、他のいかなる浄善によって悪を征しえよう。
【解説】
このたとえは書いてあるままなので、わかりやすいですね。
我々はほとんど暗闇の中にいるわけですが、ブッダの力によって、ほんのわずかな間だけ、我々は、「善を実践してみようかな」とか、「浄らかな生き方をしたいな」とか思うというわけですね。逆に言えば、ほとんどの時間は悪に心が向かっており、また、常に悪業をなしているんだと。
いや、私はそんなに悪業をなしていないよ、という人がいるかもしれませんが、仏教で言うところの悪の定義は非常に厳しい。心における執着とか、憎しみとか、嫉妬とか、嫌悪感とかも悪ですし、例えば日本人が普通に行なっている虫の殺生ももちろん悪ですし、不倫や嘘や悪口なども、もちろん戒律に引っかかることになります。
ここでいう悪とは、もちろん、倫理的な道徳観ではありません。実際に我々の心身をこの苦界に縛り付け、苦しみのカルマを生じさせる、心と言葉と体の行為ということですね。だから仮に誰かに迷惑をかけていなかったとしても、悪は悪なのです。
我々の日常を詳細に反省してみればわかるように、ほとんど、そういう意味では悪に満ちているわけです。しかしブッダの慈悲により、パワーにより、あるいはブッダと我々の縁により、ほんの瞬間的に、真理とか善に心が向かうことがある。実際にそのときに、真理や善の実践もするかもしれない。しかしそれは、全体から言ったら、ほとんど悪なわけだから、ほんの微々たるものだということですね。
このような、ほとんど負けばかりの、善と悪の戦い。ここにおいて、善の軍において、最も力となる救世主的アイテムが、「菩提心」なんですね。
菩提心はそれだけ、力が強い。
菩提心とは一応定義すると、「すべての衆生を救うために、私が覚醒を得ようと思う心」ですね。この菩提心を発露させ、まだ弱くても何度もそれを考え、誓い、心に植えつけていくならば、私たちは私たちの中の悪に打ち勝ち、悪を征することができるんだと。逆にいえば、この菩提心がなかったら、とても我々は悪に勝つことなどできないぞ、ということですね。
はい。これはまあ、書いてあるとおりなんですね。このさらに深い意味は、この次の方でより突っ込まれてるんですけども、ちょっと今日は時間がないので、次までいっちゃうと時間がなくなっちゃうので、ここだけでちょっと説明するとね、「稲妻の閃光が一瞬、物を照らし出すように、ブッダの威力によって、世人の思いが、しばしの間、福善に向かうことがある。」――これはね、まあ、いろんな意味があります。いろんな意味っていうのは、一つは、最も壮大な意味としては、われわれの輪廻転生も含めた意味ね。輪廻転生も含めた意味で言うと、これは仏教でよくいわれるのは、まあ、よくね、六道輪廻とかいうけどね。つまり地獄界、餓鬼界、動物界、ね。こういう苦しみの世界があって、まあ、ちょっとましな人間界があって、阿修羅界があって、六道の中では一番いい天界がありますと。この六つの、一番苦しい地獄から天に至る世界がありますと。で、これはよく三角形というかな、台形みたいな感じで表わされるんだね。つまり下ほど広い。広いっていうよりは、下ほど多いってことだね、そこにいる人がね。つまり、地獄に行く人が一番多い。つまりわれわれが死んだ場合地獄に落ちる確率が非常に高いですよと。あるいは動物や餓鬼といった苦しい世界に落ちる可能性が非常に高いですよと。なぜかというと、われわれの心自体が、ね、悪に向かいやすい、あるいは闇に向かいやすいんだね、もともとね。
で、その流れの中にいる中で、まさに、ゴロゴロ……ピカ!って一瞬だけ光るように、一瞬だけふっとわれわれの心が善に向かうときがあると。ね。で、逆に言うと、それ以外はほとんど悪であると。よってこの悪と善の戦いっていうのは、もうほとんど悪の勝利なんだね。普通はですよ。この輪廻の中ではね。これが壮大な意味。だからわれわれが、ねえ、この輪廻から救われる機会っていうかな――救われる機会っていうのはまさに、修行とかダルマに出合ったっていうことですけども。これは、だから逆の言い方をすると、今のわれわれはまさに今、その稲妻の中にいるんです(笑)。ね。ピカッて光ったこの中にいるんだよ。つまり千載一遇のチャンスなんです。これはこの前のところにも出てきましたけども、われわれは今すごいチャンスの中にいる。で、このチャンスのときにやらないでどうするんだっていう話なんだね。うん。
ちょっと変な言い方すればさ、イメージ的に言うとね、チャンスじゃないときは寝ててもいい。ね。うん。チャンスじゃないときは、ちょっと寝っ転がってね、テレビ見てたり、悪いことしてもいいかもしれない。でもチャンスが来たんですよ。ワッて起きなきゃいけない(笑)。ね(笑)。で、すべてを捨てて――これはイメージですよ。チャンスじゃないときは、なんか漫画読んだり、ね、テレビ見たり、寝っ転がったり、なんか食べててもいいですよ。――チャンス到来ですよ! ね。「ピー!」って聞こえて、「ブッダが来ました!」って(笑)。
(一同笑)
なんか寝っ転がってたら――つまりね、例えば、これはちょっと漫画的に言うけども、ね、われわれはブッダが現われない限り、ね、あるいは聖なる魂が現われない限り、この牢獄のような世界から救われないと。しかし、われわれの町にブッダがやって来るなんてことは、もう天文学的な確率であると。ね。まあ、よくいわれるように、砂漠の中から一粒のダイヤモンドを見つけるぐらいに難しいと。もう、あり得ないぐらいの――宝くじなんてもんじゃない。宝くじは普通に当たるからね、何人かはね(笑)。そんなもんじゃない。もうほとんどゼロに近いぐらいの確率だと。でもその確率でもしそれが来たら、それは大チャンスなんで、それは逃せないなと。「でも、来んのかなあ」みたいにこうボーっとしてたら、「ブッダが来ましたよ!」と。町にブッダがやって来たと。全部捨てるでしょ、普通はね。うん。すべてを捨てて、ね。それはもちろん、ねえ、遊びも捨てるだろうし、あるいは地位も名誉も捨てるだろうし、あるいはまあ、物理的なものもすべて捨てるだろうし。で、ブッダのもとに行かなきゃいけない。これくらいの確率で、今ね、皆さんはこのチャンスに出合ってるんだっていう考えが必要なんだね。
つまり、もう一回言うけども、ピカッと光ったということは、それはすぐに闇に変わる。ね。つまりこのチャンスっていうのは――ものにすれば別なんですよ。ものにすればもう問題ないんだけども、ものにしなかったらすぐに消えてしまう。流れ星みたいなもんだね。流れ星が流れたら、三回お願いすれば叶うとかいうけど、だいたいパッて行っちゃうよね(笑)。「あ! えっとえっと……」って言ってるうちに消えてしまうと。でもそれくらいのものなんだね。うん。でもわれわれは無智だから、ばかだから、「あ! 来た! 真理というものが。ダルマというものに出合った!」って魂はわかってるんだけど、頭ではちょっとまだそこまでの、なんていうか、貴重なものだっていう認識がないので、その貴重な時間を無駄にしてしまう。あるいはあまり全力になれないとかね。あまり全神経を傾けられないとかね、そういうふうになってしまうんだね。だからそれをしっかりと、まず第一段階で、この貴重さというのを考えなきゃいけない。
今は輪廻の話をしたけども、輪廻だけじゃなくてこのわれわれの人生の中でもそうだし、あるいは日々の日常においてもそうです。人生においても、日々の日常においても、やっぱりわれわれの心とかカルマっていうのは、低い方に低い方に流れてる。ね。で、この中で、逆転した、つまり高い方にわれわれを流してくれる光と出合うことっていうのは、ものすごく稀なことだと。本当にたまにしか来ない。で、それをどれだけものにできるかですね。
そして、修行者の人生としてもそうなんだね。修行者の人生、それは皆さんも自分を振り返るとそうだと思うけども、例えばさ、こういうヨーガとか、こういう教えを学び始めた人っていうのは、逆にね、よく話を聞くと、「いや、先生、わたしはあんまり悪いことはしてないし、普段もそんなに悪いこと考えたりしないんですよ」ってよく言うわけだけど、でもその人が本当に真剣に修行を進め始めると逆に、「二十四時間ほとんど悪じゃん!」っていうことに気付きだす。ね。前までは「別にわたしは大丈夫かな」って思ってたんだけど、二十四時間ほとんど邪悪で満ちてると気付く。つまり邪悪ベースだと。
前も言ったけどさ、同じ例えになるけど、例えばこういうね、白いホワイトボードにチョンと点を付けたらね、「あ、点が付いてるな」と思うよね。十個付いたらまた「点が十個あるな」と。百個付いたら「百個あるな」と。でも、一万個くらい付いたらどうなります? 真っ黒になるよね。うん。つまり、きれいな黒いボードに見えるんです。ね(笑)。それで堂々と自慢してるんだね。「わたしの心きれいです。どうですか、光ってるでしょ」と。黒光りしてると(笑)。
(一同笑)
ね(笑)。「それはちょっと違うんじゃない?」と。「え? そんなことありませんよ」と。「わたしは何も、けがれないです」と。でもその人が修行によってちょっとずつけがれを落としだすと、「あれ、なんかまだらになってきた」と。ここで勘違いする場合があるんですよ。「修行してたら心が汚くなってきた」と。「まだらになってきちゃったじゃないですか」みたいに(笑)。それは違うと。浄化が進むことによって、つまり汚いってことがやっとわかってきたんだね。つまり逆の発想ね。「あ、白の方が本当だったんですか!」と。「ということはほとんど駄目じゃないですか!」と。ね。これが修行者の気付きです。
で、これは、ここで落胆する人がいるわけだけど、落胆する必要はないよ。だって、もともとそうなんだから。ね(笑)。もともとそうだったんだから。気付いたってこと自体が素晴らしい。で、そこで、そのほとんど悪に満ちた自分を、塗り替える作業に入るんだね。これが本当の修行のスタートと言ってもいいわけだけど。
今いろんなケースというかな、いろんなスケールで話をしたけども、とにかくわれわれは放っておいたら、この悪の力というかな、下に落とす力、あるいは闇の力というのは非常に強いと。で、われわれを引き上げる、あるいは目覚めさせる力というのは、稀にしか来ないし、非常に弱いと。で、そこで、「菩提心がなかったら、いかに悪を征しえようか」っていう一文があるんだね。
つまり逆に言うと、菩提心の力はそれだけすごいってことです。つまりこの菩提心こそが救世主アイテム。ほとんど負けなんだけど、ほとんど負けなんだけど、この菩提心っていう武器をもしわれわれが持ってたとしたら、一発逆転っていうか、これ一つで勝てるぐらいの武器なんです。
で、もう一回言うけどね、これも漫画的に言うけども、悪魔との戦い――「うわー! 悪魔! ほとんど勝てるわけねえじゃん!」と(笑)。こんな、つまり、ねえ、昔の日本人みたいにね、竹槍で戦闘機に立ち向かってるようなもんだから。「勝てるわけないじゃん! 武器ないのか武器!」「いや、竹しかないです!」と(笑)。「斧じゃどうですか」と。「日本刀がありますよ!」と。「あほか!」と。「そんなもんで勝てるか」と言ってたら、最大の武器、誰も覆すことのできない神の武器みたいなのがコロコロコロって転がり込んできた(笑)。「え? 何これ!?」と。ね。「来た!」と。ね、これもすごいことなんだよ。すごいことっていうのは、今、みんなはもうこの教えを学んでるから、笑ってこういう話してるけども、もしかするとだよ、ね、ここのヨーガスクール・カイラスに、ね、いろんな基本的な教えはあったかもしれない。例えば戒律とかね、解脱しましょうとか、あるいはニルヴァーナとかあったかもしんないけど、菩提心っていう発想がなかったとするよ。あるいはこの日本に菩提心っていうのが伝わってなかったとするよ。それはもうね、われわれがもう全くそれが認識できないほどそれと縁遠かったら、まさにノーチャンスです。ノーチャンスっていうか、まあチャンスはちょっとはあるかもしれないけど……勝てるチャンスはね。でもほとんど勝てるチャンスはないと。そこに、コロコロコロっていうか、「あれ? なんか、ちょっと当たり前すぎて気付いてなかったけど、おれたち、菩提心の教え持ってるじゃん!」と(笑)。ね。これに気付いたときの喜びっていうかな。うん。でもそれくらいに、なんていうかな、貴重なもんだってことだね。この菩提心っていうのはね。
で、これは本当にそうなんです。これはわたしの長い修行経験からも言えます。何度も言ったけども、わたしは最初どっちかというと行法的なヨーガの修行ばっかりやってたわけだけど、途中でそういった菩提心的なこと、あるいはバクティもそうですけどね、バクティヨーガ的な発想ね。こういうものを身に着けっていうかな、学んで、その重要さに気付いたときに、「あれ? これじゃん!」っていう感じだった。「これこそがエッセンスじゃないか」と。ね。つまり呼吸法やってりゃいいってもんじゃない。アーサナやってりゃいいってもんじゃない。あるいは表面的な教えを学んでりゃいいってもんじゃない。あらゆるものの集約的なエッセンスがこの菩提心にあるじゃないかと。「これに出合えたって、すごくない!?」と。ね(笑)。それくらいのものなんだね、この菩提心っていうのはね。
だから何度も言うけど――ちょっとこれ話しづらいんだけど、なぜ話しづらいかというと、もうみなさんは出合っちゃってるから。出合っちゃってるから、「え? それがどうしたの」って感じなんだけど――仮に、ちょっとまだ出合ってないことにしといてください(笑)。
(一同笑)
皆さん出合ってないですよ。出合ってないけども、遠い遠いなんか伝説として、われわれの心を――例えばわれわれがね、例えばここで、「ああ、煩悩つらいな」と。「修行ってなんかつらくね?」と。「なんかこんなんでおれたち、心浄化できんの?」「でもなんか遠い遠い国に――伝説として、なんかあるみたいだよ」と。「われわれの心を一気に変える、そしてそれしか悪魔に勝てないぐらいの必勝アイテムがあるらしいよ」と。「なんかよくわからないけど、『ぼ』が付くみたいだ」と(笑)。
(一同笑)
「ぼ、なんとかって聞いたけど、ちょっとみんなうろ覚えでよくわかってないみたいだ」と。「ぼ、なんとかだ」と。
で、そこにパーッと、ね、神、あるいはブッダが登場して、ね、「さあ、その噂のアイテムを与えよう」と、バーンって来たら、もう皆さんは本当に心から「これか!」と。で、その菩提心の教えを学んでね、「こんなこと聞いたこともなかった!」と。「人のために生きる? 何それ!?」と。ね(笑)。だってわれわれはエゴこそが、ねえ、幸せだと思ってる。しかし、「人のために生きる。人の悟りのために、人の幸福のためにエゴを捨てる? 何それ!?」と。そこで縁のある人はその素晴らしさが心からわかり、それに涙するかもしれない。それだけのものに出合ってるんだよ。
もう一回言いますよ。出合えなかったことを想像してみてください。ね、皆さんは、はい、ヨーガに出合いました。ね、仏教にも出合いました。ね、一応ダルマといわれるものに出合いました。ね。でも菩提心に出合えてなかったっていう人生を考えてみてください。ちょっと味気ないよね。味気ないし、喜びが少ない。うん。あるいは、なんていうかな、出合えている今の立場から言うと、それがもしなかったらって考えたら、もうそれは、まあ、悲しいっていうかな。うん。悲惨だと思いますよね。だからそれをよく考えてください。
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