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覚醒の太陽(1)

「覚醒の太陽」

※この作品は、19世紀の聖者パトゥル・リンポチェが入菩提行論をもとに著した作品である「さやかに輝く太陽」をベースにしていますが、大幅に私の見解も入れつつ、新たにまとめなおしたものです。また、特に「自他転換」のパートについては、入菩提行論について私が解説した「菩薩の生き方」から大量に引用して挿入してあります。

 『もろもろのスガタと、仏子(菩薩)と、法身と、すべての敬うべき師主たちの前に、恭しくひれ伏して、仏子の律儀への趣入(すなわち菩薩行の実践)を、聖典にしたがって、私は簡単に説こう。』

 この入菩提行論には、四つのセクションがある。

1.菩薩行の実践を行なう修行者
2.実践する際の態度
3.実践そのもの
4.そのように実践されたことで生じる果報

1.修行者

 まず、(菩薩行の)実践を行なう者とは、一切の自由と徳を具え、信と慈悲を持つ者である。

2.実践する際の態度

 次に、菩提心には、二つの様相がある。――誓願と前進である。

(1)誓願

 一つ目の「誓願」については、次のように言われている。

『菩提心を生じさせることとは、”他者のために完全なる悟りに達しよう”と誓願することである。』

 言い換えれば、他者のために完全なる悟りに達しようと願う意志のことである。

(2)前進

 第二の「前進」の様相とは、菩薩行の実践に実際に身を投じることである。

◎菩薩の誓いを立てる

 この菩提心を心の連続体に刻み込むために、師から誓約を受けてもよい。その場合は、唯識派であろうと中観派であろうと、具体的な儀式の手順に従うべきである。

 だがここに、われわれが自分自身でこれを行なう方法を示そう。 

 これには三つの段階――(a)準備、(b)主要部分、(c)結果がある。

(a)準備

 これにも三つのパート――(Ⅰ)渇仰を生じさせること、(Ⅱ)七支の供養、(Ⅲ)心の訓練がある。

(Ⅰ)渇仰を生じさせること

 入菩提行論の冒頭の章で説明されているように、菩提心への渇仰の思いを生じさせるべし。

『この恵まれた人生は、きわめて得がたい。これを得て初めて人間の目的(すなわち解脱)は達成せられる。もし、ここで(真の幸福の因である)善福を認識しなかったら、どうして再び(このような幸福が)めぐり来よう。

 あたかも夜に、雲深き暗黒に、稲妻の閃光が一瞬、物を照らし出すように、ブッダの威力によって、世人の思いが、しばしの間、福善(幸福の因たる善行)に向かうことがある。

 だから浄き行ないは常に力が弱い。これに反し、悪の力は大きく恐ろしい。もし菩提心がなかったら、他のいかなる浄善によって悪を征しえよう。

 ムニの王者たちは、多カルパの間思惟にふけって、この善福(菩提心)をまさしく発見した。それが善福であるゆえんは、偉大なる安楽に、無量の人の群を安らかに救い上げるからである。

 あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。

 生存の牢獄に縛り付けられた哀れな人でも、彼に菩提心が生ずるや否や、直ちに「ブッダの子」と呼ばれ、人間と神々の世界においてあがめられるものとなった。
 この不浄の身体を、値のつけられぬほど尊い、ブッダの宝のような身体に変えてしまう――かように甚大な効験のある菩提心という霊薬を、はなはだ堅固に保て。

 無量の思慮があって、しかも世界一である隊商の長(すなわちもろもろのブッダや菩薩方)が、よく吟味し、価値多しと認めた菩提心という宝を、転生の巷にさすらいを習いとせる汝らは、はなはだ堅固に保て。

 他のすべての善は、芭蕉樹のように、実を与えて消滅してしまう。しかし、菩提心の樹は、常に実を結んで消滅しない。ただ豊かに実るだけである。

 極めて重い罪悪をなしても、もしこれ(菩提心)を頼りとすれば、たちまちそれを免れる。あたかも人が勇者に頼って、大危難を免れるように。そこで、どうして迷妄なる衆生によって、(菩提心が)頼りとせられないでよかろうか。

 それはこの宇宙を消滅させる火のように、大いなる罪悪をたちまちに焼き尽くす。これ(菩提心)に対し、無量の称賛を、聡慧のマイトレーヤが善財童子に説かれた。

 要約して言えば、二種類の菩提心を識別すべきである。
 それは、菩提を願う心と、菩提への前進とである。

 行こうと願う人と、行く人の間に区別が認められるように、知者はこの両者の区別を順次に知るべきである。

 菩提を願う心だけでも、輪廻界において大果をもたらす。しかしそれには、前進の心を持つ人のような、不断の福善は生じない。

 無辺の衆生界を救おうと、不退転の心でこの菩提心を受持すれば、そのときから、
 眠りを好み、たびたび放心の起こる人にすら、大空に等しい不断の福善の流れが生ずる。

 小乗を信解する衆生のために、如来自ら「善臂問経」に、これを、証拠を挙げて説かれた。

 「私は衆生の頭痛を治そう」と考えても、かような些細な福善の願いによってすら、人は無量の善福の寄るところとなった。

 まして、全ての衆生の限りなき苦痛を除こうと願い、全ての衆生に無量の功徳を具えさせようと願う者においておや。

 いかなる衆生の父に、また母に、あるいは神々に、リシに、あるいはブラーフマナに、かような善福の願いが生ずるであろうか(菩薩以外には不可能である)。

 これらの衆生には、自利のためにさえ、かような希望は、かつて夢の中にも生じなかった。どうして利他のために、それが起こりえよう。

 かような未曾有にしてかつ殊勝の宝なる衆生(菩薩)は、どうして生まれ出るか。

 世界の喜びの種子であり、また世界の苦しみの救薬であるところの、宝の心(菩提心)の福善は、どうしてはかりえようか。

 ただ善福の願求だけでも、仏陀の供養に勝る。まして、一切衆生のあらゆる安楽のために努力するに勝る善福はない。

 苦しみから逃れようと願いながら、(衆生はかえって)苦しみに突進する。
 楽を得ることを望みながら、惑いのために、まるで敵がなすように、自己の安楽を破る。

 かように楽を貪って、たびたび苦しみに悩む人々に対し、あらゆる楽によって満足を与え、またあらゆる悩みを断滅させ、かつ惑いをも滅ぼすところの善人(菩薩)??かような善人に等しい人は、どこにあろう。あるいはそれに類する友、あるいはそれに類する福善は、どこにあろうか。
 他から受けた恩に対して報いる人は、はなはだ称賛せられる。求めるところがなくて善行をなす菩薩は、いかにたたえられるべきであるか。

 少数の人にもてなしをなす人は、善をなす者として人々に敬われる。しかしそれは、ただしばらくの間、食を施して、半日の命を支えたためである。
 ましてや、衆生の数に限定を加えず、期間に限定を加えず、世界と衆生が完全に滅するまで、衆生にあらゆる満足を与える菩薩??彼になぜ尊敬が払われないか。
 かく勝者の子にして安楽の施与者である菩薩に対し、己の心の中で悪心を抱く者があれば、その人は悪心の発生した刹那の数と同じ数のカルパの間、地獄に住するであろうと、世尊は説かれた。

 しかしその人の心が(菩薩に対して)清らかとなるときは、前(の悪心の結果)に比べて遥かに多くの良い結果が彼に生じるであろう。なぜなら、勝者の子(菩薩)に対する悪しき行ないは大いなる努力によって行なわれ、清き行ないは自然になされるからである。

 そこに優れた宝の心(菩提心)が現われている彼ら(菩薩)の身に、私は帰命する。
 また、それに害を加えることさえも、安楽を得ることに関係のある、この安楽の蔵(菩薩)に、私は帰依を表する。』

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