「偉大なる善行者のしるし」
◎偉大なる善行者のしるし
【本文】
④偉大なる善行者のしるし――言葉と行為を一貫して、大乗の教えに従うこと。
これも書いてあるとおりですが、つまり善行者っていうのは、言葉でいいことをすらすらと言うのが善行者ではない。言葉と行為が一貫しなきゃいけないってことだね。これはあたりまえのことだけどね。
逆に言うとこれは、われわれは気をつけなければいけないことなんだね。つまり、われわれは言葉ではぺらぺらといろんないいことを言う。「わたしこう思ってるんです、こう生きたいです」と。「いや、こうですよね」と、いいことを言うと。で、日常のいろんなことにぶつかると、すぐにエゴが出る。あるいは煩悩が出る。全然教えどおり生きていないと。これでは駄目だと。
だからまず大乗の教え、菩薩の教えっていうのをしっかり学び、で、もちろんそれを、言葉に発するときは発するでいいんだけど。それと一致した行動を取る。常に有言実行というかな、現行一致というか、それを心がけなきゃいけないということですね。
◎偉大なるヨーギーのしるし
【本文】
⑤偉大なるヨーギーのしるし――菩提心を起こすためのヨーガに取り組むこと。
心が散乱したときも、訓練された心によって、おのずから制御できるようにせよ。
はい、五番目が、「偉大なるヨーギーのしるし」。
あの、ここでいうヨーギーっていうのは、別にアーサナとかやることじゃなくて、もともとね、ヨーガっていうのは瞑想のことなんですね。だからヨーギーっていうのは、瞑想の修行者ってことです。
つまり、菩提心を起こすための瞑想修行、もしくは、さまざまな修行に日々取り組んでると。日々励んでると。この人は、偉大なるヨーギーといえますよと。これはそれをやるしかないね。
で、実際にその人の人生の中で、菩提心っていうのが一つの目的となって、で、日々それが自分の日課になっていると。日々自分で心を変える、菩提心を培うような瞑想を日々行なっていると。これは一つの偉大なるヨーギーのしるしですよと。
◎訓練された心によって
はい、そしてまとめとして、「心が散乱したときも、訓練された心によって、おのずから制御できるようにせよ」と。
つまりまずわれわれは、日々自分の心を訓練しなきゃいけない。まあ、それイコールヨーガっていうんだけど。つまり、自分の心を甘やかしちゃいけないよ。ね。日々人間っていうのは、自分の心を甘やかす修習が多い。自分で自分の心を甘やかさずに、しっかりと調御する。
調御して――「心が散乱したときも」っていうのは、つまり調子がいいときは、この五つのこととか、あるいはその前に書かれたこともできるけども――例えば潜在意識がバーッて出てきましたとか。あるいは、何かいろんなことがあってちょっと心が乱れました――こういうときに、すべてができなくなるんじゃしょうがない。
もちろんそれは条件が悪いとはいえる。つまり、いろんなことがあって心が乱れました。条件が悪くなりました。条件が悪くても、調御できなきゃいけない。
もともとヨーガっていうのは、「馬を操る」みたいな意味が語源としてあるんだけど――つまり、馬を操ってて、馬にこう乗ってて、天気がよくて、道もなめらかなときはいい。嵐が来ました。あるいは道がどろどろですと。普段から馬の訓練をしてない人でも、天気がよくて道がなめらかだったらスーッと行ける。でも、そのような悪い条件が来たときに、普段から訓練してたかどうかの差が出るわけだね。普段から訓練してれば、全く難無くその道を乗り越えられる。普段からしっかり馬の訓練をしてなかったら、ちょっと雨が降っただけで、ちょっと泥道なだけで、落馬してしまったり、あるいは馬が進まなくなってしまう。
だからそれも、心の訓練も同じだと。普段からしっかりと自分の心をコントロールし、教え通りに生きる訓練をしていれば、何かがあって――例えば深い意識のけがれが出てきましたとか。あるいは予想してなかったことが起きて心が乱されましたっていうときも、なんとかグーッて取り戻せるんだね。それは辛いかもしれないけどね。辛いかもしれないけど、グーッて教えどおりの心に自分を引き戻せるんだね。だから、そういう訓練を日々意識してやらなきゃいけない。これがまとめのところだね。
はい、じゃあこの後は「十八の誓約」がまた長くなっちゃうんで、それは次回にして、今日はこれで終わりにしましょう。お疲れ様でした。
(一同)ありがとうございました。
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