解説「菩薩の生き方」第三十回(6)

はい。で、ちょっと話を戻すけど、そのような究極的なところまではここは言っていないんだけども、まず原則として、結局、心の満足そのものが目的であると。で、ここで言っているのは、さっきからの「人を称賛しましょう」っていう話の流れで、「他人の努力で作られた徳によって生じる満足の楽しみを味わおう」って書いてあるけども、つまりこれはさっきから言っている、素直な、人を称賛できる気持ちね――これは皆さんの中にももちろん、一〇〇%じゃなくても当然何割かはそういう気持ちはありますよね。例えば当然、近い人ほどそれは出やすいよね。つまり家族であるとか、好きな人であるとか、そういう人が何か素晴らしいことをしたと。あるいは素晴らしい魂の進歩があったと。そうすると心から喜ぶと。「うわー、素晴らしい!」と。「やったね!」と。この気持ちね。これを、なんていうかな、まあ極限まで行かなくても、そういう気持ちがものすごくある人がいたら、その人幸せでしょ? いろんな人のそういう部分を見て、「おまえもこんなに修行進んだのか」と。「あなたは前に比べてこういうところが進んだんですね!」と。あるいは「こういう奉仕ができたんですか!」「こういう修行ができたんですか!」「いや、なんて素晴らしいんだ!」と。「いやあ、本当に素晴らしい!」と。
で、これはつまりそのような方向に、言ってみれば人の幸福を願う気持ち、人の進歩を願う気持ち、これがある人の場合、つまり人の進歩を見ては幸せな気持ちになる、満足した気持ちになる、この状態ができている人にとっては、さっきから言っているように、それがある意味で、なんていうかな、条件設定になるわけですね。で、このような人こそ、大変幸福っていうかな。
もちろんこの人には別の意味での苦しみはあるよ。別の意味での苦しみっていうのは、それは慈悲っていう苦しみですね。慈悲。つまり逆に他者の、まだ、なんていうかな、苦しんでいる部分とか、なかなか乗り越えられない部分とかを見て、とても悲しくなると。苦しくなると。自分のことのようにね。でもこれは、さっきからの流れで言うと、それは決して、本質的にわれわれを苦悩の世界に落とすものではなくて、逆にそれこそまたわれわれの、本質的な喜びというか心の幸福度を増す思いですね。
だから実際には、ここでは称賛のことしか書かれていないけども、喜びのことしか書かれていないけども、常に――だからまあ、言ってみれば皆さんが今まで学んでいる言葉で言うと四無量心だね。四無量心。つまり他者の幸福を願い、他者の苦しみとか悲しみを哀れみ、そして他者の進歩を喜ぶと。そして自分のことはどうでもいいと。うん。この発想ね。これを持ちましょうと。
はい、そしてまあ、ここにおいては、さっきからの流れでこの称賛だけがまずクローズアップされているので、称賛だけクローズアップするならば、人のいいところを見て、あるいは進歩を見て、喜んで幸せになると。「これ、幸せじゃないですか?」と。そのような人は、この世で生きていて、まあ特に皆さんみたいに修行している場合、法友がいっぱいいるわけですから、その法友のいいところを見て、「ああ、本当に素晴らしい」と。
あのさ、さっきから言っているように、微細な幸せ、微細な進歩、微細な真理の実践も素晴らしいという観点から言ったら、もう素晴らしいことだらけだよ。例えば皆さん勉強会に来て、「今日もおまえ来たの!?」(笑)。「今日も四十人くらいいる!」と。「ええ! そんなことある?」(笑)。ね。「『入菩提行論』っていうこんなコアな教えを学ぶために、四十人も来たよ!」と。「すごい! なんと素晴らしいんだ!」と。心からですよ。なんというかな、演技っぽくじゃ駄目ですよ。心からね、本当に――表現しなくてもいいよ。心の中でね。「ああ、本当に素晴らしい」と。で、ちらっと見ると、ねえ、「ああ、彼は真剣に教えを聞いている」と。「本当に素晴らしいな」と。だって、ねえ、現世で、社会でいろんな悩みもあるだろうと。そういうことで頭がいっぱいになっちゃって集中できないことがあってもおかしくないのに、彼は本当に真剣にダルマに耳を傾けていると。こんなに素晴らしいことがあるだろうかと。で、パッと別の人を見ると――なんかよくそういうのを見るけどさ、例えばY君とか、ちょっと質問とか多くて勉強会が長くなると、よく蓮華座に耐えてると。「お、蓮華座頑張ってる!」と(笑)。例えば新しい人とかでもたまにいるんだけどさ、なんか新しくてまだ蓮華座に慣れてないのに、ああ、頑張って組もうとしていると。グーッと組もうとしていると。「ああ、本当に素晴らしいな」と。自分の苦手な、あるいはできないことをそうやってチャレンジしようとしていると。
そういうかたちで、まあつまり、さっきから言ってるね、本当に微細な小さなことでも、そこに真理の実践やダルマの実践があるならば、それは最高に素晴らしいと。その観点から言うならば、皆さんの周りは喜びに満ちていると。
はい、そのような気持ちで生きると。で、もちろんそのような他者のいいところを称賛するような素直な発想で二十四時間生きられる人っていうのは、当然、まあ、それだけじゃないんだけど、それをベースとして――まずその人はこの世で幸福であると。だから逆の言い方するとさ、称賛の逆っていうのは、ここでは憎しみとか書いてあるけど、実際には阿修羅的要素が強いね。阿修羅的な、つまり他者と闘争すると。他者と自分を比較すると。他者の悪いところを見つけ出すと。あら探しをすると。批判をすると。この人は、つまり今この話の流れで言うとね、はっきり言って不幸でしょ? だっていつも文句言っているんだよ(笑)。あるいはいつも不満でいっぱいなんだよ。人がいいことしてても、「いやー、あいつは」みたいな感じで、人の悪いところばっかり見えると。あらばっかり見えると。当然その人は暗くなるよね。暗いし、なんかグチグチしてくるし、なんかイライラしてくるし。その人本人が一番不幸でしょ? 逆に、さっきから言っているように人のいいところを見て褒められる人っていうのは、その人自身がハッピーですから。「本当にあの人もこんないいところがあった」と。「あの人も今日もこんないいことをしている」と。もうウキウキワクワク(笑)、本人がすごく幸せであると。
で、そのベクトルで生きている人は、当然神の祝福を受け、まあ解脱するかどうかは別にして、解脱しなかったとしても、来世もそのような幸せのベクトルのもとに生まれると。逆に、もうさっきのプレーマーナンダの言葉じゃないけども、ね、「われわれはあら探しをするために生まれてきたんじゃない」――はずなのに、人のあら探しばっかりして、あるいは批判ばっかりして、いいところがあってもそれを見ることができずに生きている人は、本人がまず不幸で、不幸せで、そのようなベクトルで生きている人は当然来世も、そのようなグチグチした、暗い、低い世界に落ちていくということだね。
はい、ではまた少しだけこれについて瞑想しましょう。
(瞑想)
