解説「菩薩の生き方」第三十回(5)

【本文】
人間が企てるすべてのことは、満足を目的としている。しかしそれは財産によっても得がたい。ゆえに私は、他人の努力で作られた徳によって生じる満足の楽しみを味わおう。
かくして、この世で私になんらの損失も生ぜず、またかの世で大楽が得られる。しかし他人を憎むならば、この世で不満の苦を生じ、かの世で大苦を受ける。
【解説】
ここは前節の称賛の話から続いているわけですが、これはまず簡単にいえば、他者の徳を称賛することで、大いに喜び、心から喜び、満足しましょう、と言っているわけです。
それによって、自分自身になんらのデメリットも生じることはないし、また来世は高い世界に生まれて大楽を受けるでしょう、と。
逆に他者を非難したり憎んでばかりいるならば、そもそもその非難や憎しみを発する自分自身が不満な人生を送るし、来世も地獄で大きな苦しみを受けるでしょう、ということですね。
はい、これも読んだとおりですね。まず、「人間が企てるすべてのことは、満足を目的としている」って書いてあるけど、つまりこれは原則っていうか、あるいは哲学的なことでもあるけどね。つまり人間はみんなもちろん満足を求めていると。当たり前といえば当たり前だね。でもわれわれは、概念によって、「これが幸福だ」っていう変な概念を持っていて。で、それは例えばお金持ちになることであるとか、あるいはなんらかの自分の夢を叶えることであるとか、あるいはいい結婚をすることであるとか、まあいろいろあるわけですね。でも実際には、世を見ると、そのような状況においても、満足してる人は非常に少ないと。あるいは一時的に満足したとしても、無常だからすぐに壊れ去る。あるいは壊れ去る前にまた心が変わってしまって、ね、悲惨な状態になると。
まあ、これは皆さんもいろんな情報、いろんな経験によって分かると思いますが、つまり環境が――当たり前だけどさ、環境がわれわれを幸せにするわけではない。お金持ちだから幸せなわけではない。あるいはきれいな、あるいはかっこいい人と結婚ができたから幸せなわけではない。ぶっちゃけて言ってしまうと、それがヨーガとか仏教の求めているもので、結局、心、すべては心であると。つまり心が完全に浄化され、あるいは他者への愛や神への愛でいっぱいになったとき、それのみが、全く壊れない完全な幸福であって。
まあ、今言っているのは、もちろん分かると思うけど、難しいことを言っているわけじゃなくてさ、結局、幸不幸を感じるのは心だってことだね。当たり前の話であって。だから環境を整えるのはばかばかしいっていうか、ばかばかしいっていうと変だけど、それは二次的なものであって、心をいかに整えるかだけの問題であると。
それはそうですよね。心がもしすさんでいたら、どんないい条件の中で生きていても苦しいと。逆に心が非常に豊かだったら、どんな状況でも豊かですよね。もちろん普通はその中間状態であると。つまりいい部分も悪い部分もあると。だからそれは環境に左右されがちになるわけだけど、でもそれは本質ではない。本質的には当然、繰り返すけど、幸不幸を感じるのは心であると。これは当たり前の話です。当たり前だけどみんなそれが分かっていない。この状況だから、このセッティングだから幸福だとか、このセッティングだから不幸だってことはないんだね。感じているのは心ですから。だからすべては心の持ち方とも言えるんだけど、持ち方というよりも実際には、まあつまり心の、なんていうかな、状態がどのような状態になっているのか。
つまり、ずーっとここでシャーンティデーヴァが言っているのは、端的に言ってしまえば、エゴが多ければ多いほどその人は不幸だと。慈愛、つまり他者への愛が、他者の幸福を願う気持ちが多ければ多いほどその人は幸福であると。これは分かると思うけど、理想論や道徳論を言っているんじゃないですよ。あくまでもこれは、そうですね、ある意味での科学です、科学。心のシステムを言っているんです。心のシステムとして実は、利他心、他者の幸福を願う心が大きい人ほど幸福ですよと。エゴが強い人ほど不幸ですよと。
もちろんこれは菩薩道的な発想だからそう言っているんだけど、バクティヨーガにおいてはそれは神への愛と言ってもいいかもしれないね。神を愛する気持ち、神に捧げる気持ちの量が多い人ほど幸福は多いと。自分のことを考えるスペースが多い人ほど不幸、苦しみは多いと。原則なんだね。
繰り返すけどこれは、道徳でもなければ宗教でもなければ理想論でもなく、科学です。ね。心はそうなってますよっていうことなんだね。
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