yoga school kailas

解説「菩薩の生き方」第三十二回(4)

【本文】

 恭敬をあらわさない者、頑健な者、頭に布を巻いている者に、法を説くなかれ。傘、杖、刀を持っている者に、頭部を布で覆っている者にも説くなかれ。

【解説】

 ここはまず教えを説く場合の規律のようなものが述べられていますね。
 ところで、私たちはまだ、衆生に教えを説くような者ではありません。ということはこの部分は、自分が将来、教えを説く立場になったときの教えとして受け取ると同時に、逆に自分が誰かに教えを受けるときに、どのような態度で臨まなければいけないかという観点で読むべきでしょうね。

 まず、恭敬をあらわさない者に法を説くな、とあります。これは、「私に恭敬をあらわさないとは、なんてやつだ」という傲慢な意味ではなくて、もちろん、教えに対する恭敬が、教えを受ける者には必要だということでしょう。教えを敬わず、軽視する者に対して気軽に深遠な法を与えていたら、法の価値が理解されなくなります。
 しかしこの部分もケースバイケースでしょうね。たとえばミラレーパの一番弟子のガンポパは、ミラレーパに初めて会いに行った時、自分が偉大な弟子だという傲慢さがあったために、ミラレーパはあえて数日間、ガンポパに会わず、ガンポパのプライドをつぶし、ガンポパが謙虚になってから受け入れたという逸話があります。このような話は過去の聖者の逸話にはいろいろありますね。しかし逆に、あらゆるタイプの人に積極的に教えを与えまくった聖者もいます。だからそれは、自分の使命と、社会の状況と、相手のカルマを見切った上で、ケースバイケースで教えは説かれるべきでしょう。しかし基本的概念として、「恭敬をあらわさない者に教えを説くなかれ」という教えは知っておくべきですね。これは自分が教えを説く側のときも、教えを受ける側のときも、覚えておくべきことです。

 頑健な者というものはどういう意味でしょうか? 普通、頑健というと肉体的に頑丈な者をイメージしますが、ここでは傲慢な者という意味でしょうかね。この意味はよくわからないので、保留しておきます。

 そのあとも、あくまでもこの当時のインドの時代背景にあわせた教えなので、ストレートに受け取ることはできないでしょう。今の日本で頭に布を巻いている者や、刀を持っている者はいませんからね。
だから現代的にいいますと、まず教えを受けるときは、帽子は取るべきでしょうね。そして、武器となりうるようなものを手に持たないことです。もちろん、傘を持っていたからといって、それを武器にしようと思っている人は少ないでしょうが、これは礼儀の問題でしょうね。

 はい。まあ、これはここに書いてあるとおりですけども、ちょっと時代と国の問題もあるので、あまりストレートには受け取れない教えではあるけども、言ってることは分かりますよね。これはだからここに書いてあるように、二つの点で考えたらいい。一つは、皆さんが将来教えを説く場合にね、教えを説くような存在になったときの話。で、もう一つは今皆さんが教えを受けるにあたっての心構えの話。
 これはもちろんいろんな逸話――ここでガンポパの話が出てるけども、例えばたしかケツン・サンポの伝記とかでも、ケツン・サンポがある聖者に教えを請いに行ったときに、もう全然その聖者がね、出てきてくれないと。で、何日間も通っても全然出てきてくれない(笑)。で、その聖者の写真見てもさ、ちょっと何考えてるか分からない(笑)、「んー?」みたいな顔だから。行っても何も言ってくれないと。どうしたらいいんだと。で、そのようなことが何日も何日も続いて、で、最後に、そのような心構えが大事なんだよって言って受け入れてくれたっていう話があるけども、そういった逸話って結構昔の話ではよくある。
 現代ではそうじゃなくて、さっきも言ったように、なんていうかな、ビジネスと的とまでは言わないけども、ちょっと西洋的な、習い事じゃないけども、そんな感じでチベット仏教とかもヨーガとかもバーッて広まっちゃってるからさ、あんまりそういう謙虚な姿勢が見受けられなくなってる。でも原則としてはやっぱりそれが必要なんだね。うん。つまり教えは請うものであって、与えていただくものであって。
 その意味では、当たり前だけど普通のスクールとか――ヨーガスクールっていってるけど(笑)、普通のスクールみたいなものじゃないよ。「はい、どうですか? どうですか? はい、何円でこれ与えますよ」――こんなんじゃない。ほんとに――これは原則はですよ、原則は、ほんとに法を求める者が、「どうかお与えください」と。その経緯、あるいは懇願、渇仰の気持ちを見せて、それでやっと、「そうか」と言って与えられるっていうのが原則ですよね。だからそれは忘れてはいけない。
 だからまずわれわれは、その請う者としては、もちろんグルに対してもそうだし、あるいは根本である神とかブッダへの心構えとしてもね、「どうか教えをお与えください」と。あるいは「どうか修行させてください」と。これは全部、人生全部含めてですよ。今われわれは、修行できる有暇と幸運を得てるけども、どうかわれわれにこれからも修行させてくださいと。つまりわれわれはそんな、本来は自由な存在ではない。カルマに支配されて、ちょっとでもカルマがずれれば、もしかすると、死んで低い世界に落ちるかもしれないし、修行できない人生になるかもしれない。だから、わたしは修行や法を求めてると。どうかそれをお与えくださいと。
 だから、いつも皆さんもやってる、例えば加行でさ、初期のころから与えられる一連のものがあるよね。――あれは実際には「七つの供養」といって、礼拝から始まって、礼拝、帰依、供養ね、マンダラ供養とか含めた供養、懺悔、賛嘆、そして、教えをどうかお与えくださいという懇願ね。それからグルとか聖者に対して、あるいはブッダに対して、どうかこの世に長くおとどまりくださいっていう祈願ね。そして一切の徳やメリットを衆生に捧げたいという回向。この七つの供養をひたすら、菩薩もそうだし修行者はやらなきゃいけないっていわれてるわけだけど、その心持ちを常に持てるかどうかと。持たなきゃいけないと。
 だから皆さんは、徳があるから、ある意味、飽和状態にありますよね。どんどんどんどん教えを与えられて。もちろんそれは皆さん徳があるからだけど。最初は別に求めてなかったのに与えられたでしょ。つまり、なんとなくヨーガやりに来たら、「え、『入菩提行論』?」「『バガヴァッド・ギーター』?」「『安らぎを見つける』――何これ?」とか言って(笑)。「おお、これは!」ってなって(笑)。で、そこから入ってもっともっと、それをね、自分のものにしたいってなっていくわけだけど。で、そしてどんどんどんどん教えとか修行法がいっぱい与えられると。よって飽和状態にあると。でもいつも随喜とかで言うように、その一個一個を、ほんとに貴重なものだと考えて、大切なものだと考えて、「ありがたい」と。「ほんとにありがたい」と。ほんとだったら、ね、よくインドの逸話でいわれることですけどね、ほんとは――現実にどうかは別にして、ほんとは、インド中を探しまくって、偉大なグルを見つけて、そのグルに何年間もお願いし続けて、やっと一つの教えが与えられると。これくらいのものなんだね、ほんとはね。で、そのようなものをわれわれは今たくさん受けてると。その一つ一つがほんとに貴重なものであって。それは修行法にしろ教えにしろね。「ほんとにこれはありがたいんだ」という思いを常に持てるかどうかですよね。そのような思いを持って――いつも言うけど、冗談みたいにいつも言ってるけどさ、勉強会とかもそうですよ。勉強会とかも、普通に、当たり前のように週二回開かれるのに義務的に行くんじゃなくて、「ほんとに今週も教えを授けてもらいたいんです」と。「どうかお願いします」と。だって何があるか分からないからね。わたしも最近――最近っていうかここ数年、ちょっと体壊すことも多くなったけどさ、「今日は休みです」ってなるかもしれない。あるいは「しばらく休みです」ってなるかもしれない。だから一回一回をほんとに求めて、で、ありがたいものだと考えて、まあ勉強会にしろ、あるいは日々の教学にしろ、受けると。この発想がベースには大事ですよね。
 加行とかももちろんそうだよ。加行とかももちろん、まあ実際にはいろんな考え方があっていいんですけども、理想的な考えとしては、もちろんそれは与えていただくものであって。つまり逆転しちゃ駄目だからね、いつも言うけど。逆転っていうのは、つまり先生側から「どうかやってくださいよ」と(笑)。

(一同笑)

 「まあ、考えてやらないこともないけど」とか(笑)。そういうのは駄目ですよ。逆に弟子側から「どうか教えてください」と。「ほんとにおまえやるのか?」と。「どうか教えてください!」と。「ほんとにやるなら、真剣ならいいよ」と。「ほんとです!」――こういう感じですよね。でも実際はそうじゃないよ。実際はもちろんわたしにしろバンバン加行も与えるし、高度な教えもバンバン出すと。実際はそうなんだけど、気持ちとしては、逆転しないようにね。だから心構えが大事だっていうことだね。
 はい。あと細かいことはもちろん時代とか国にもよるので、だからここでいってる根幹的なことをくみ取ったらいいね。帽子とか武器とかは当然それぞれの国とか時代によるので。
 まあ、だから日本人は、いつも言うように、とても礼儀っていうのがまずありますから。つまり礼儀をちゃんと持ちなさいと。つまり教えを受けるんだから、それは礼儀を持たなきゃいけないと。それは当たり前の話ですよね。例えばちょっと体が悪いとかさ、そういう状況があったら別ですけども、なんかこうだらーっとした格好で教えを受けるとかね。あるいはなんかペチャクチャおしゃべりしながら教えを受けるとかね。それはちょっと、まず礼儀がないよね。だから、教えを受ける者としての礼儀、心構え、態度をまず気を付けましょうと。で、まあもし仮に、将来、皆さんが教えを授けるような立場になったら、これはつまり、自分へのプライドとかじゃなくて、教えとか聖なるものへの敬意として、その敬意を満たした者だけに教えなさいという一つの発想だね。でもここにも書いてあるけど、もちろんいろんな聖者によっては、バンバン与える人もいます。それはまあ、それぞれの使命とかいろいろあるから。でもこういうことは原則は原則としてまずは学んでおきましょうということですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする