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供養の瞑想


 第二章 罪悪の懺悔

【本文】

 この宝の心(菩提心)を得るために、これなる私は、如来に対し、正しく供養をささげまつる。穢れ無き正法の宝と、功徳の海なるブッダの子(菩薩など)たちに対してもまた。

 あらゆる花と、果実と、種々の薬草と、世にある限りの宝と、清澄にして快適なる水と、宝の山と、孤独に快適な森の場所と、美しき花に飾られて輝く蔓と、見事な果実に枝もたわわなる樹木と、天界などにおける香りと、芳醇なる香りと、もろもろの如意樹と、宝樹と、蓮華に飾られ白鳥の声によって楽しき池と、野生の植物と、栽培による草木と、供養の対象を荘厳すべき他の物と--虚空界の広がる限りにあまねきこれら一切のもので、しかも個人に属しないもの--これらのものを、これなる私は、意識に捉えて、最上の聖者と、ブッダの子とにささげまつる。
 最善の供物を受けるにふさわしく、大悲の心ある彼らは、私を哀れんでこれを受けたまえ。

 私は福善なく、はなはだ貧しい。他に供養すべき何ものも私にはない。ゆえに、利他の心を持ち給うもろもろの世尊は、私の利益のために、これを自らの力によって受けたまえ。

 私は、私自身を、勝者とブッダの子とに残り無くささげる。衆生の最高者たちよ。私を受け入れたまえ。私は熱烈なバクティ(信愛)をもって、あなた方の召使となる。

 あなた方に受け入れられれば、それによって私は恐れるところ無く、輪廻界において衆生のためになることを行なう。
 そして以前作った悪に打ち勝ち、重ねて他の悪を行なわない。
 

【解説】

 帰依の対象である三宝とは、原始仏教では、ブッダと、ブッダの説く法と、ブッダの出家の弟子たちの教団(サンガ)を指しますが、大乗仏教では、サンガの意味がもう少し広がります。在家・出家問わず、あるいは人間界ではない他の世界に存在している聖なる存在も含めて、仏陀の道に沿い、菩薩の道を歩く者たちは、【ボーディサットヴァ・サンガ】といい、帰依や供養の対象となるのです。

 それら三宝に対して、まずここで言っているのは、心の中で、想像できるだけのすばらしいものを想像し、供養するイメージをするということですね。
 密教においてはこういった供養の瞑想というのはどんどん発展していきます。「私は福善なく、はなはだ貧しい。他に供養すべき何ものも私にはない。」となっていますが、そもそもこのシャーンティデーヴァがこの教えを唱えたときというのは、彼が僧院の出家修行者だったときですから、個人的な資産や持ち物がないのは当たり前なわけです。しかしここで表現されているのは、たとえばシャーンティデーヴァは、もし何か財産があって、しかも目の前にブッダがいたとしたら、たとえどんなものでも、惜しみなくささげるでしょうと。そういう強い供養の気持ちがもともとあるわけです。しかし自分は今何も持っていないので、自分の想像力を使って、あらゆるものを三宝にささげているわけですね。
 実際、本心から供養の気持ちがあり、そして心がこもっているならば、このような瞑想による供養でも、功徳となり、三宝との縁は強まります。何故でしょうか? 瞑想によるイメージの世界も、この現実世界と呼ばれる世界も、どちらも幻影に過ぎないからです。
 しかしたとえば瞑想では供養ができるけれど、現実では自分の持ち物を三宝に差し出すことができない人がいたとします。こういう人は、供養の瞑想をしたとしても、あまり効果はないでしょう。だから心をこめることが大事なんですね。繰り返しますが、もし自分が何かを持っていたら何でも惜しみなく供養することができるような供養の心を持っている人が、このような供養の瞑想を行ない、初めて大きな効果が生み出されるのです。
 これは悪業についてもいえます。たとえば嫌いな相手に対して、現実には行なわなかったとしても、相手を殴ったり殺したりするイメージをした場合、これは実際にそれらを行なったに近いくらいの悪業になります。なぜなら、心がこもっているからです。

 話を戻しますが、仮にまだ供養の気持ちが強くない人でも、この瞑想は行なうべきです。最初は瞑想だけでも、このような供養の瞑想を行なうことで、徐々に執着は弱まり、徐々に徳が増え、三宝との縁も徐々に強まってくるとはいえるでしょう。しかし本当に供養の気持ちが強まったときこそ、この瞑想は最大の効果を発揮するということですね。

 「大悲の心ある彼らは、私を哀れんでこれを受けたまえ」という表現は、そもそもブッダや菩薩というのは、何をほしがっているわけでもありません。ですからこういう供養とか布施というのは、供養する側が、徳を積み、執着を落とし、三宝との縁を強めたいがために行なうわけですね。なぜなら、徳が無く、執着強く、三宝との縁がない状態では、その人は苦しみ多く、幸福は少なく、輪廻の苦界から脱却できるすべがないからです。だから、ブッダや菩薩方はそのような供物は必要としていないでしょうが、どうか悲惨な私のことを哀れんで、これらの供養を受けてください、と懇願しているわけです。
 これに関連するエピソードとして、マルパとナーローパの話がありますね。チベットの有名な行者だったミラレーパの師匠のマルパは、自らの師であるナーローパに会いに、インドに行くわけです。そしてチベットで何年もかけて集めた貴重な黄金を、ナーローパに布施しようとするんですが、ナーローパは、私はそんなものはいらない、と言って断るんですね。でもマルパは、「あなたには必要ないでしょうが、私の功徳の修行のために、どうかお受け取りください」と言って、懇願します。するとナーローパは、「よしわかった、それならば受け取ろう」と言って黄金を受け取るんですが、マルパが喜んだのもつかの間、ナーローパは、受け取った黄金を、森の中に投げ捨ててしまいます。マルパが悲しい気持ちになっていると、ナーローパは、「私には黄金は必要ない。私にとっては大地全体が黄金なのだ」と言い、足で大地を叩くと、本当に大地が黄金に変わってしまった、というエピソードがあります。
 だから繰り返しますが、三宝は我々の供養を必要としていないのですが、我々自身にとっては、三宝への供養は必要なのです。だから我々は三宝に懇願し、私を哀れんで、供養を受けてください、という姿勢が必要なのです。

 そして後半では、よりバクティ・ヨーガ的な話になっていきますね。精神集中の瞑想を中心とした古典的なラージャ・ヨーガから、神や社会とのかかわりを重視したバクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガなどにヨーガが展開していったように、大乗仏教も同様の展開をしていったのだと思いますね。
 そしてここでは、「私自身のすべてを、ブッダと菩薩にささげます。あなた方の召使になります。」という話になってきます。私自身のすべてをブッダや菩薩にささげ、召使になるとはどういうことでしょうか? その答えが、その後に書いてありますね。輪廻界において衆生のためになることを行い、そして以前の悪を断ち、今後も悪を行なわない、という表現になっています。
 つまりブッダや菩薩の願いは、すべての衆生が悪を断ち、善を行ない、修行し、解脱し、輪廻から解放されることです。そのような彼らに自らをささげ、召使になるということは、自分がしっかりと悪を断ち、修行するのはもちろんのこと、すべての衆生が救われるためのお手伝いをするために、全力を尽くすということですね。
 インド三大聖者の一人・ラーマクリシュナの後継者であるヴィヴェーカーナンダは、バクティ・ヨーガには二段階あるといっています。その第一段階のガウニという段階では、修行者は自己の師や神に対して一心に信愛を持ちますが、他の人は関係がない、という段階です。それがパラーと呼ばれる至高のバクティに昇華されると、その人は神の子供たちであるすべての衆生に対して強烈な慈愛と哀れみを持ち、すべての衆生を救うために生きるようになります。
 それと同じ発想が、ここにはあるわけですね。ブッダや菩薩への最大の奉仕、それは自己の修行を進めると同時に、他者の幸福のために、すべての衆生を救うために生きるということなのです。

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