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M――使徒にしてエヴァンジェリスト 第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(4)

第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(4)

 もう食事の時間だ。Mは食事のために、他の者たちとともに配膳室で座っている。
 皆はサルの葉に米を配膳され、米の上にはダル豆が載せてあり、スプーン一杯のギーがかかっているが、Mは米と牛乳しか口にしない。
 会話は多くの話題に移る。

M(食べながら微笑を浮かべ)「弟子は、『私にウパニシャッドを教えてください、先生』と頼んだ。リシは答えた。『おまえに向けて話したことはすべて、ウパニシャッドだ。』
 ウパニシャッドにより、人々はある不思議なことを理解する。ウパニシャッドとは神の語りにすぎず、言い換えれば、神の悟りに導くもの、俗心を破壊するものである。例えば、ギーターやシュリーマド・バーガヴァタ、コタムリト――これらはすべてウパニシャッドなのだよ。

 タクルがおっしゃったことはすべてヴェーダ、ウパニシャッドだ。タクルの教えは、東ベンガルの人々によりよく理解されてきた。この国のその地域には、男らしさがある。タクルは、パドマ川を一度見たいと思っていらした。彼は、『パドマ川を一度見てみたい』とおっしゃった。チャイタニヤデーヴァがこの地方に住んでいたのは知っての通りだ。タクルは、『ナディアのゴーランガ、キリスト、そして私は同一である。』とおっしゃった。彼が時折その地域のことを話されたのは、そういうわけだ。

 東ベンガルはチャイタニヤの地であり、西ベンガルはバーブたちの地だ。」

 食後に、Mは木製の寝椅子に腰掛けている。ムクンダは扉の近くにいて、一人のブラフマチャーリが手にバケツを持ち、水を汲みに出掛けるところだ。Mはそのブラフマチャーリを呼び戻す。マノランジャナ、シュクマール、パニは、台所の前に立っている。

M(皆に向かって)「あるとき、スワミ・シャンターナンダと私は、ともにカシの庭にいた。それはグアヴァの果樹園だった。われわれはグアヴァを腹いっぱいになるまで食べた。庭師の頼みで、われわれは所有者の許可を求めずにグアヴァを食べ続けた。ついに、シャンターナンダは言った。

『所有者に告げずにグアヴァを食べ、われわれは罪を犯してしまった。さあ、どうしよう。もうこれ以上食べないこととしよう。』

 よく考えたのちに、食べてしまったグアヴァの金額を計算し、その額を貧しい人々に寄付することに決めた。そしてその通りにした。」

 15、16歳の若者で、学生だったシュクマール・ムケルジーは、木製のピリ(低い木製の腰掛け)をこすり洗いしていた。あるバクタの教師が彼に注意した。

「釘で手を痛めないように気をつけなさい。」

 この言葉を聞くやいなや、Mは大声で怒鳴った。

M(そのバクタの教師に向かって)「釘が刺さってもよい、構うな。どうなるかって? 血が少し滴り落ちる、それだけだ。
 しかし、彼の将来を思うと、私は恐くなる。そして悲しくなるよ。釘の刺さる痛みは、結婚後に陥るひどい困難と比べれば何でもない。
 彼に男らしさを教えてやりなさい。釘が彼の手のひらに刺さろうが構うな。刺さるなら刺さらせておけ。しかし、彼は学ぶべきだ。子供たちは幼い時期から男らしさを教わるべきであり、未来の状況を常に目の前に据えておくべきだ。その場合のみ、心は反対の方向に進む可能性がある。人は少年時代から、自分の眼前に未来の目標を掲げるべきだ。食べるだけで、他に何もしない。彼らが結局何もできなくなってしまうのは、そういうわけだ。どうしたらよいかがわからないのだ。

 心は反抗的であるべきだ。タクルは、ある話をよくしてくださった。農夫たちが雄の子牛を買いに行く。買う前に彼らは手で尾を握る。優しい子牛は、心地よく目を閉じて寝転ぶ。一方、気の荒い子牛は、尾に手が触れるやいなや、びくりとして飛び跳ねる。その子牛には活力があるのだ。こうして、その子牛は75ルピーという値段で売れ、心地よくくつろいでいたもう一方は、たった5ルピーだ。人は、75ルピーの子牛のようであるべきだ。――妥協的であってはならないのだ。」

 Mは、カタ・ウパニシャッドを読誦するよう求めた。彼は、ヤマとナチケータの会話を声に出して読み、ベンガル語に翻訳した。本読みの終わりに、彼は言った。

「印を付けなさい、ナチケータがヤマに言ったことに。」

『あなたは私の目の前に立っていらっしゃる。私は何を求めることがありましょう? あなたがそこにいらっしゃらなければ、私は何かを求めたかもしれません。あなたはヤマであり、人からすべてを奪う死であられます。ゆえに、ただこの恩恵を――真我の叡智を、私にお与えください。』

M(あるバクタに向かって)「普通の人は、プレーヤ――世俗的なものにすがる。シュレーヤ――永久不変の幸福を望む人は、ほとんどいない。

『儲けです、我が主よ。』(シェイクスピア)

 心は感覚的な享楽を得ようとする。力づくで、それは永遠なるものへ向けられねばならない。75ルピーの価値の子牛のように、人は断固として、『いいえ、私はあなたに同行しません。私はしません』と言わねばならないのだ。世俗的な人は、プレーヤに束縛される。プレーヤとは享楽的なもの、シュレーヤとは不滅なるもののことだ。

 タクルとホーリーマザーは、お二人ともよくおっしゃった。

『おお! 俗世は、なんというすさまじいアグニ・クンド――燃えさかる炎なのだろうか! なんという地獄のような悲しみ! われわれの助言で、彼ら(幼い少年たち)をそこに落とすことなんてできないよ。彼らを飢えで死なせるか、もしくは乞食で生かしなさい。そのときでさえ、彼らに結婚するようには言えない。』

 人がこのゲームで達人にならない限り、そこから自身を救い出すことはできない。それには訓練が必要だ。しかし、その訓練ができる場所は、どこにもない。(シュクマール、パニ、他の者を指して)結婚するとは、なんと恐ろしいことか! どれほど厄介だろう! 彼のバクタの一人(スワミ・ヴィヴェーカーナンダ)が、結婚を親に提案されたということを聞いて、タクルは泣き、母(カーリー)の御足にすがり、こう嘆願された。

『母よ、彼をお守りください。彼をお救いください。この火の中で、彼自身を焼き尽くさせないでください。』

 タクルは、自ら実際に実演してこのようなことをすべて教えてくださった。

 あるとき、あるサーカス団がコルカタ・マイダンにやってきた。タクルはそこにサーカスを見に行き、われわれも同行した。われわれは8アナの切符を持っていた。冬のことだった。回廊で腰を掛けて、タクルは叫ばれた。

『ここから見ると素晴らしいぞ! ああ、本当に素晴らしい。』

 彼は歓喜で気持ちを抑えることがおできにならなかった――本当の子供のように! 
 一頭の馬が、すさまじい速さでサーカスの舞台を駆けていた。ヨーロッパ人が一人、ときどき舞台の中に入り、片足でバランスを取って、電光石火のごとく、駆ける馬にまたがった。
 舞台が終わって会場から出て来ると、タクルは馬車に乗りながらこうおっしゃった。

『ごらん。馬に乗るために非常にたくさん練習したから、彼女は馬の背中に立てるようになった! 同じように、世俗の輪も回っている。熟練した乗り手であれば、それに乗ることができる。さもなければ、 落ちて終わりだ。この世とはそれほど恐ろしいものだ!』

 グルの恩寵なしに、シュレーヤの道を歩くことはできない。タクルは今生でスワミジを初めとするバクタたちを救った。それは世間の流れに反して進んでいる、全く正反対の道だ。グルの恩寵なしで、流れに逆らって進む力を誰がもっているだろうか?

 この世の波は数え切れない。ひとつ去っても、代わりに別の波がやってくる。ブラフマープットラ河やパドマ河にはどんな波が押し寄せているだろうか。それに比べたら、海の波でさえ小さく見えるよ。それらの波は海の波より荒々しい! 波は次から次に押し寄せる! まず人は結婚を望むが、心は間違いなくプレーヤに魅了される。しかし少し経つと、人生を駄目にしてしまったことに気づく。

 私が12歳のとき、小舟で川を渡っていると、激しい流れが来て、大量の水が小船に入ってきた。あるブラーフミンが構うことなく座り、平然と煙草を吸っていた。彼は私に言った。

『おい。あと二つ来るぞ。』

 私は心の中で思った。

『聖なる父よ! 一つの波でこのような大惨事になるのならば、もう二つきたらどうなるのでしょう?』

 しかし、彼は水キセルをふかし続けた。人はこの世でそのような流れを多く被るものだ。この世とは、そのような面倒な道だ! ゆえに、タクルはバクタたちにおっしゃった。

『ときどき、ここを訪れなさい。そうすればその他のことをする必要はない。』

と。」

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