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M――使徒にしてエヴァンジェリスト 第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(3)

第七章「真理の化身であるタクルにすがれば、もはや恐れはない」(3)

 サンタル人の少年三人が、アシュラムの中庭に立っている。もう日差しが暑くなっている。彼らはそれぞれ1パイスをもらうように言われた。このように数人の子供らがしょっちゅうここに来て、お金や甘い物をもらっている。Mは彼らのことが大好きだ。毎週水曜日にはいつも、硬貨や他の贈り物が彼らに配られる。
 その間にムカンダがやって来て、寺院の扉のところに立っている。そしてマノランジャナがあとから来る。Mはブラフマチャーリに授けたたばかりの教えのいくつかを彼らに繰り返す。

M「タクルは、『私を瞑想しなさい。それでもう十分だ』とおっしゃった。今では、彼がなぜそう言ったのかが少しわかってきた。その当時、わたしはなぜ彼はそう言うのかと考えていたものだ。彼はおっしゃった。

『わたしを瞑想する者は誰でも、わたしの財産を受け継ぐ。息子が父親の財産を受け継ぐのとまさに同じようにね。』

 彼は近しい弟子にだけにそうおっしゃり、他の者には言わなかった。他の者には、『いかようにも食べなさい。甘いパンは甘い味がするものだ』とおっしゃった。
 彼を瞑想することにより、邪悪なサンスカーラは撃退され、真理と清らかさがそれに取って代わるのだ。

 時折、彼はバクタにおっしゃった。

『私が話すのか? すべてを話すのは母だよ。私の言葉などはない。』

 時折、ことによると、帰依者がご自分の足をマッサージするのを許すことがあったようだ。その時、(自分の体を指さして)彼はおっしゃった。

『この中に何かあるのなら、このマッサージは効がある。』

 バクタたちが議論好きだったので、彼はさらにおっしゃった。

『わたしは「わたし」を突き止めようとしたが、それはどこにも見つからなかった。なるほど、あらゆるところに満ちているのは母なのだ。つまり、それは私の足をさすることではなく、母に奉仕することだ。母と私は同一なのだよ。ラーム・プラサードは「わたし」を突き止めることができなかった――彼が見つけたのは、母のみだ。』

 他にも非常に多くのことを彼は語られた。そのとき、私は何も理解できなかった。今はひとり静かに瞑想すると、その意味が幾分かわかる。

 さらに、彼はときに後悔してこうおっしゃることがあった。

『私は誰に語ろう? 誰が耳を傾ける?』

 誰に彼の言葉を理解する力があっただろう?――純粋で、罪に悪影響を受けていない彼の言葉を。彼が話すことはすべて、絶対の真理なのだ。」

 石炭の話を思い出し、Mは続けた。

「その責任は、サンスカーラの深部にある。それに加え、生まれも、行ないも、教育も、良いものはひとつもなかった。この偽りと誤った行ないは、それが原因だ。良いサンスカーラを持つ者だけが、タクルを愛し、彼の教え通りに行動し、真実の小道に足を踏み入れることができるのだ。
 タクルは私におっしゃった。

『ところで、非常に多くの者があなたの近所に住んでいるのに、ここへは来ない。おまえしか来ない。なぜそのようなことに?』

 つまり、(そのような)サンスカーラがある場合に限り、ここに来ることができると言える。彼がおっしゃったことはどんなことでも、あらゆる者に尊ばれねばならない。――世人たちは、大騒ぎしている。かかる人が素晴らしい演説をし、かかる人が非常に裕福で、誰それの偉い人もいるが、そのうちの誰に対しても耳を傾ける者はいない。どうしてタクルの言葉だけを受け入れるのか? あらゆる階級の人が彼を受け入れ、尊敬する。彼らは、はっきりとは言わないかもしれないが、彼らの本能、彼らのサンスカーラのせいで、彼らはどうしても受け入れてしまうのだ。ああ! 彼はなんて素晴らしいお方だったのか! なんという高尚な理想を私たちに示してくださったのか! 世人は驚異の念に打たれるのだ。

 神は、富によって懐柔することはできない。ある者は、50の料理を捧げても受け入れてもらえない。米と野菜だけを捧げて受け入れられる者もいる。ホーリーマザーがかつて、カーリー・ガートの貧しい帰依者の家に向かわれた。彼女はそこで食事を取るよう招待されたのだ。たった二つのタイル貼りの部屋からなる小さな戸建ての家だった。私も彼女に同行した。料理されていたのは米と豆類のみであったが、マザーがあまりに食欲旺盛だったので、われわれはみな唖然とした。彼女はもっともっととお求めになった。一緒に付き添った女性たちは、その日のマザーの食べ方はそれまでの彼女の人生で一度も見たことのなかったものだったと家の中から報告してきた。その日、彼女はそれほどたくさん食べたのだ。

 ヴィドラは偉大な王ドゥルヨーダナに仕えていたが、ほとんど彼の世話をしなかった! 彼は宮廷の食べ物を食べようとしなかった。托鉢のほうを好んだ。その理由は、彼が真理の崇拝者だったからだ。そしてシュリー・クリシュナは、皇帝ドゥルヨーダナに強要されても、彼と食事を取ることを徹底的に拒んだ。その一方で、彼自身はヴィドラの家に行き、ヴィドラがいる場所を彼の夫人に問うた。彼が托鉢に出かけていると聞き、彼は食べ物を求め、わずかな精米を食した。

 謙虚さがなければ、神は奉仕を受け入れない。ほら、サードゥたちは自分の衛生のために洗うのに使うのと同じカマンダル(水差し)で、シヴァの額に水を注ぐだろう。すると、シヴァはかなりご満足だ! どうしてだかわかるか? サードゥは神のために世俗を棄てた。彼は自分では何も保有せず、自分のものをすべて神に捧げている。彼は清らかな施しの食物だけを食べて生きている。神への愛、タクルへの愛が得られれば、もう不安はない。神ご自身がすべてをもたらしてくださる。

 かつて、タクルはシュリー・ラーダーカンタ寺院にモトゥル・バーブと共に向かわれたのだが、そのとき神々の飾りが盗まれてしまっていた。モトゥル・バーブは、ラーダーカンタの神像を指さして言った。

『どうしてですか、タクル。あなたはご自分の宝飾品も守ることができないのですか? バンスべリアのハンセーシュワリーは、少なくとも盗人らを捕えましたよ。』

 するとすぐに、タクルは怒鳴り返した。

『おまえは何を言っているのだ? 神が財宝を必要としていると? 万一そうなら、富の女神そのものであるラクシュミーがお仕えしている彼が、財宝を見張らきゃいけないだって? おまえはあまり智慧のないことを言った。主にとって、それは土塊ほどの価値もない。おまえにとっては財宝だろうがね。』

 神は財宝によっては支配されない。外的な華やかさや見せびらかし、富や煌びやかさがいくらあっても、神を満足させることはできない。真理、清浄、帰依のみが、神の心を捕らえることができるのだよ。主を愛する者は、息子が父親の財産を相続するのと同じように、神の財産を受け継ぐ。タクルを崇拝する者は、タクルの財産を受け継ぐだろう。完全にではないにしろ、ある程度まで、息子は父親の形質を受け取り、馬は兵士の特性を受け取っている。

 タクルがあなたの帰依処となって、初めてあなたは神を見ることができる。『真理のみが勝利し、勝利するのは偽りではない』とは、ヴェーダにある格言だ。タクルのあらゆる言葉が真理だ。ゆえに、タクルがおっしゃることは実行されねばならず、少なくともそうするよう努めるべきだ。自分自身では何もしない、グルがすべて為してくださる、神が為してくださると言うのは、道理をわきまえていない。まず努力せねばならない。そうすれば、そのように言ってもよかろう。キリストがこう言ったのは、そういうわけだ。

『あなたがたは、なぜわたしを「主よ、主よ」と呼んでいながら、わたしの言うことを行なわないのか?』(ルカによる福音書6章46節)

とね。

 人の性質というのは、壊れた真鍮の鍋みたいなものだ。鍋に一つでも穴があれば、どうしようもない。水は留まっていられず、全部この穴から流れ出てしまう。もし人が真理において堅固でなければ、どうしようもない。その一つの穴のために完全に転落してしまう。ミルトンの失楽園では、サタンが、『加えて、最も深い深淵の先にさらに深い深淵が』と、自ら地獄のことを美しく語っている。

 神がわたしにするようにおっしゃることをわたしが為そうとせず、ただ『どうしたら抜け出せますか、神よ』と繰り返す――これは役に立たないどころか有害である。ワインをひと瓶飲み、なぜ自分が酔っているのかと考える。そのような疑問は、不合理以外の何物でもない。妥協策はないのだ。人々は利便性と快適さを探し求める。『私は耳を傾けるつもりはない』――これが問題なのだ。『私は真実の小道をたどるつもりだ。何が起ころうとも』――人の意志はそれほど堅固であるべきで、決意も同様であるべきだ。抵抗しなければならない。無気力ではいけない。勇敢、非常に勇敢でなければ。

(微笑んで)タクルは四輪馬車でコルカタに向かっていらした。馬は三等級で、少しだけ走っては立ち止まった。

『どうしたんだい?』

とタクルがお聞きになった。

『何でもありません、先生。少しひと息ついているだけです。』

というのがその答えさ。(みな笑う)彼はユーモアに富んだ方だった。そういうわけで、そのような話をして楽しんでいらした。
 それとともに、彼はまた教えも授けてくださったものだ。その馬は動きの悪い遅い馬だったから、むち打っても馬車を引くことができなかった。もしあなたがそれほど弱ければ、神を見ることはできないよ、と。

 内側が清浄であるべきで、そのとき初めてあなたの力は増幅する。さもなければ、1年が18ヶ月あるがごとく、それはすっかり先の話になってしまう。『弱い者は到達できない』とヴェーダに記されている。キリストもまた同じ理由で、弱い者らを叱った。

『あなた方は白く塗った墓に似ている。(外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。)』(マタイによる福音書23章27節)

 不浄な心を持つ者とは、そのようなものだ。

 真理のために、人は自らの命をかけねばならない。ポンティアスの海賊はローマの司令官であった。彼はイエスに『なぜあなたはそうしたのか?』と尋ねた。イエスは答えた。

『真理のためだ。』

と。ユダヤ人らはイエスをはりつけにすることを決めた。彼(ポンティアスの海賊)は、キリストが無実だとわかっていたが、弱腰になり、不安に心を奪われてしまった。ユダヤ教の僧侶らを恐れ、彼は自らの道義心に反して、その磔刑の命令を承認したのだ。

 キリストは真理を語ったため、はりつけにされた。しかし、彼の名は永久に消えない。彼の言葉に嘘の烙印を押し、彼を殺した者たちについて、人は何も知らない。真理が勝利すると言われてきたのは、そういうわけだ。ジーヴァは、真理の隠れ家を求めることにより、シヴァとなる――ジーヴァ、つまり感覚の奴隷は人間であり、シヴァ、つまり感覚を超える者が神である。」

 Mは沐浴をするために立ち去った。ブラフマチャーリは、タクルの礼拝の支度に取りかかった。

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