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2011年インド修行旅行記(14)「M」

 「M」ことマヘンドラナート・グプタは、ラーマクリシュナの代表的な在家信者の一人で、「ラーマクリシュナの福音」の著者として有名です。
 「ラーマクリシュナの福音」は、Mがつけていた克明な日記を元にまとめられたものなので、この作品において彼は極力自分の色を消そうとしています。自分のことを「M」と称して、作者というよりは多くの登場人物の一人として登場させているのもそうですが、自分の日記なので、当然、Mの登場回数が多くなってしまうので、彼は「M」以外にも多くのニックネームを自分に対して使い、まるでそれらが複数の人物であるかのように装い、自分の色を消そうとしています。

 このMの謙虚な姿勢の故に、「ラーマクリシュナの福音」を読むと、Mは、控えめで、ラーマクリシュナによく注意される、まだ現世に執着のある信者の一人、という印象を与えますが、実際にMに会ったことがあるM以外の他者が書いたMの評伝(たとえばパラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」、イギリスのジャーナリストが書いた「秘められたインド」、Mの弟子が書いた伝記など)を読むと、近代まれに見る大聖者の一人としてのMの姿が、浮かび上がってきます。

 こういうMの姿勢は、私は好きです。非常に有名な本であり、M自身がまとめた「ラーマクリシュナの福音」ではMは低く表現され、しかし他の人々が書いた、それほど有名ではない本ではMは大聖者として評価されているのです。普通は逆のパターンが多いと思うのですが笑。
 たとえばヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」や、ヨガナンダの弟が書いた著者などを読むと、Mは常に神の至福に浸っていただけではなく、自由に「母なる神」とコンタクトを取り、また他者にもそのヴィジョン恩寵を与えたり、他者の心をコントロールして深い瞑想に入れたりする力もあったようです。また、何よりもそういう神秘的なことだけではなく、「秘められたインド」の中で、懐疑主義的な性格を持つイギリス人の著者が、インドでの様々な修行者との出会いの果てにMと出会い、「もし私を懐疑主義から解放して、素朴な信仰の生活に入れてくれる人がいるとしたら、それは間違いなくこのマスターマハーシャヤ(M)であると思う」と述懐しています。それだけの聖なる印象を強く与える存在だったのでしょう。

 その才能によってラーマクリシュナのすばらしさを余すところなく伝えたM。しかし残念なことに、M自身にはMはいなかった笑。また、Mはラーマクリシュナの近い直弟子たちの中では一番長生きした人なので、Mが聖者として円熟期を迎えた頃には、かつての法友たちはすでにこの世にいなかったので、正しくMを評価し喧伝してくれる人もいなかったのかもしれません。
 しかしそれでMは本望だったのでしょう。私の好きな「ラーマクリシュナの福音」の一節に、こういうものがあります。Mは自分のつとめていた学校の生徒をどんどんラーマクリシュナのもとへ連れてきていたのですが、ラーマクリシュナはその少年達の素質を高く評価します。「彼はもともと完成された魂だ」とか、べた褒めするわけです。そこである信者が、「では、そのような彼らを連れてきたMは何なのですか?」と聞くと、ラーマクリシュナはそっけなく、「ただの道具だ」とだけ答えるのです。
 プライドが高い人だったら、こんなことを言われたら怒ってしまうかも知れません笑。しかしMがあえてこのやりとりをこのまま載せているのは、おそらくMは、「ただの道具」と言われて、うれしかったのでしょう笑。なぜなら「ただの道具」であることこそは、バクティ・ヨーガの最高の理想だからです。彼はおそらくただひたすら、自分は目立つことなく、ラーマクリシュナのすばらしさとその教えが広まるためのただの道具になろうと考えていたのだと思います。
 
 このようなMの姿勢の特徴を、ヴィヴェーカーナンダの弟であるマヘンドラナート・ダッタは、端的にこう表現しています。

「彼は、グルと神は一つであると考えていた。グルは神であり、神はグルであり、両者に違いはない、と。
 タクル(師ラーマクリシュナ)と話をする中で、タクルのことを考え、タクルの言葉を理解するうちに、彼は外見上はマヘンドラナート・グプタであったが、内面的には全く聖ラーマクリシュナそのものであった。
 彼は自分の個性や自我を放棄して、ラーマクリシュナの作った鋳型にすべてを溶かし込むように努めた。彼にはその他に何の思想も、個人の独自な考えと呼べるようなものも持たなかった。彼にはタクルの教え以外のものは全くなく、また、独自の主張もなかった。彼の心は、常にラーマクリシュナで満たされていた。あたかも、人生の目的はラーマクリシュナの影となって働くことであるというふうであった。
 したがって私は、彼ほど、個性や自己主張を捨て去って自分の人生を師に捧げた人はいない、と断言することができる。タクルの教え、タクルの言葉、タクルに関する会話こそが、神に思いを集中するための、すべてのすべてだった。
 彼は外見は実はマヘンドラナート・グプタであったが、実は中身はラーマクリシュナそのものであったといえよう。」

 さて、前置きが長くなってしまいましたが・・・・・・いよいよこのMの家への訪問です。

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