解説「菩薩の生き方」第三十三回(1)

2019年11月2日
解説「菩薩の生き方」第三十三回
今日は『菩薩の生き方』ですね。これはいつも言うように、シャーンティデーヴァの『入菩提行論』の解説本なので、その勉強会ですので、解説のさらにまあ深い解説って感じになりますね。この本は、書き下ろしって感じでわたしがね、解説してるので、まあ実際にはさまざまなね、深めるポイントがいろいろ出てくると思います。
はい。で、その第五章の「正智の守護」。いわゆる念正智の章ですね。
【本文】
深遠にして広大な法を、劣小な者に、男子を伴わない女人に説くなかれ。小乗と大乗の法とに、等しく恭敬をなせよ。
【解説】
教えには段階があります。小乗の教えしか理解できない人に大乗の教えを説いた場合、理解できないだけではなく、大乗をけなしたり、修行自体に疑念を抱いてしまう場合もあります。顕教しか理解できない者に密教を説く場合も同様です。ですから、まあ、そういう大きなカテゴリー分けの話だけではなくて、あらゆる意味で、まだ準備ができていないものには、より深遠な教えは説くべきではないということです。
そして女性にも深遠で広大な法を説くなというのは、完全に男尊女卑ですね(笑)。しかしもともと原始仏教や大乗仏教においては、というよりも本来インドにおいては、完全に男尊女卑です。女性は男性に比べ無智で徳が少ないとされます。
しかし密教においては、女性はダーキニーの性質を持つと見られ、「女性を劣ったものだと見てはならない」という戒律さえあります。また男とか女というのもその時代の条件に応じて意味が変わってきますから、現代の女性が、必ずしも劣っているかどうかはわかりません。実際、私のヨーガ教室でも、真剣に教えを求めて修行に励む優秀な女性修行者が多くいます。だから私は、現代では、「男子を伴わない女人に説くなかれ」という部分は除外されるべきではないかと思いますね。
しかし、男性が女性を、女性というだけで「劣っている」と批判するべきではないですが、女性の側は、お釈迦様やナーガールジュナやシャーンティデーヴァが女性をそのように表現していたのは事実なので、自分の中に悪い意味での女性的な部分(依存心、無智、執着、嫉妬、etc.)がないかと観察し、あるなら捨断していこうとする謙虚さも必要でしょうね。
結局、自分はまだまだだと思い(慙愧)、それを乗り越えようと努力する(不放逸)者こそが利益を得るのです。だから経典に「女性は劣っている」と書かれていたら、それを逆利用して、女性の方は、男性以上に謙虚になり、努力し、より速やかに解脱しよう、くらいの気持ちを持ったほうがいいかもしれませんね。
「小乗と大乗の法とに、等しく恭敬をなせよ。」というのはどういうことでしょうか。
この辺は複雑なのですが、実は「小乗」という表現には、いくつかの違う意味があります。
一つは、大乗の土台という意味での小乗です。この場合は、衆生救済の実践の土台として、まず自分の解脱のために様々な汚れを放棄していく道を指します。
二つ目の小乗という意味は、大乗に対立するものとして説かれる場合があります。つまり衆生のために修行する大乗に対して、自分の解脱を最終地点とする利己的な修行を小乗(劣った乗り物)と表現する場合があるのです。
そしてこの一文においては当然、前者の意味での「小乗」ととるべきでしょう。つまり大乗の土台としての、現世放棄の法と、それを土台として展開される慈悲と空の大乗の法の、両方に恭敬をなしなさいということです。なぜなら、本当の意味で現世放棄が達成されていないと、真に慈悲や空に至ることはできないからです。
ちなみに、大乗仏教が言う「小乗」=「原始仏教」ではないと私は考えています。原始仏教には後に展開する仏教のすべてのエッセンスが含まれていると、私は考えています。しかし原始仏典をよりどころとする後世の部派仏教の人たちの中に、利己的な修行に偏った僧が多くいたために、大乗仏教は彼らを「小乗」と非難したのではないかと思います。
はい。まあ、ちょっとパーッと見ていくと、まず「深遠にして広大な法を、劣小な者に、男子を伴わない女人に説くなかれ」と。はい。このうちのまず「劣小な者に説くなかれ」っていうのは、この最初の方に書いてある、つまり教えには段階がありますよと。ですから、ここに書いてあるとおり、例えば「小乗の教えしか理解できない人に大乗の教えを説いた場合、理解できないだけではなく、大乗をけなしたり、修行自体に疑念を抱いてしまう場合もある」と。あるいは、「顕教しか理解できない者に密教を説く場合も同様だ」と。つまりより進んだっていうかな、より高度な教えを、まだそれを理解できない人に説いた場合、そうだな、それに対して疑念を抱いたり、それをけなしたりするかもしれない。で、これはその本人にとって大変な悪業になっちゃうね。つまり大乗とか密教とかが理解できないからといって、批判したり疑念を持ったりすると、その疑念を持った本人にとって大変なマイナスになってしまう。
はい、そして、まあ、あるいはある場合は恐怖したり――これも何度か出てるけどね、お釈迦様が弟子に、空の教え、つまり「実は一切は存在しないんだよ」みたいな教えを説いたら、恐怖して、「いや、お釈迦様、そんなこと説くのはやめてください」って言った弟子がいたと。ね。段階によってはまだ理解できない教えがある。
これは例えばラーマクリシュナの一番弟子のヴィヴェーカーナンダの話でもありましたよね。ラーマクリシュナはざっくばらんに適当に言ってるようで、実際はもちろん、弟子に合わせていろんな教えを説いてるわけだけど。ヴィヴェーカーナンダは最も優れた弟子だったから、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダに不二一元論を説いたと。不二一元論といっても、ここでいう不二一元論は、いわゆるバクティヨーガを土台とした不二一元論ですから、言ってみれば「全部神だ」っていう教えです。皆さんはここで何段階ものいろんな教えを聞いてるよね。例えば一般的なジュニャーナヨーガ、あるいはヴェーダーンタの教えっていうのは、いわゆるマーヤー論です。マーヤー論っていうのは、一切はマーヤー、つまり幻影ですよと。つまり、皆さんが見てる世界は全部、実体がないですよと。幻ですよと。で、それを超えたところに、唯一の真実、ブラフマンがありますよ、という感じだね。じゃなくてラーマクリシュナの不二一元論は、「いや、これ、幻じゃないですよ」と。「皆さんが見てるものも全部神です」と。「というか、神しかいません」と。この幻を超えて神に到達するんじゃなくて、そもそも神しかいませんと。
こういう話、いつもしてるよね。仏教的にいうと、まず小乗の教えっていうのは、「この世は苦だ」って説く。この世は幻でもなければ、真実でもなく、とんでもない、とてつもない苦しみの世界だと。牢獄だと。だから出なきゃいけない。これが小乗の発想ですね。それは普通に人生を見れば分かる。苦しみばっかりだと。ごまかして生きてるけども、ね、人生は苦しみの巣窟であると。まあ、そもそもこの土台の肉体自体から――よく仏教では、この肉体を含めた自分という存在を五蘊――五つの集まり、五蘊っていうんですけども、「五蘊は苦蘊である」っていうわけだね。われわれを構成してる一切は苦しみの集まりであると。肉体自体がもう苦しみの巣窟ですよね。だって、変な話、小指一本切られただけで苦しいんですよ。こんな使いものにならないものないよね(笑)。小指一本切られて、うわー! ガーッてのたうち回ると。「人生終わったー!」と。
(一同笑)
こんな使いものにならない道具ないですよね。目玉一本刺されただけで苦しいんですよ。うん。ちょっといろんなかたちで体が不調になっただけで、まあ、いろんなところに障害が起きると。で、「ああ、苦しい、苦しい」と。で、もちろん心の問題もいったら、精神的な苦悩、悩み、そういうものは尽きないと。だからそういうのをストレートに見ると、この世は苦じゃないかと。だからこの世のシステムっていうかな、輪廻のシステムから解脱しないと、どうしようもないよと。これが小乗ね。
はい。そして大乗の教えになると、空、あるいは幻影っていう話になるね。いや、皆さん、この世は苦だって思ってるけども、それはそうなんだけど、でもその世界自体が実はないよと。つまり現代的に言うとバーチャルリアリティみたいな感じで、あるいは脳の錯覚みたいな感じで、この世界って全部錯覚ですよと。でもまだ基本的な教えも入ってない人に、いきなり「ないよ」とか言っちゃうと、わけが分からないし、あるいは怖くなっちゃう。あるいはもちろん理解できる能力もないかもしれない。そうするとその人は修行ができない。
一番最初に苦しみの教えが来るのは――ここでもさ、もちろんみんな、バクティとか、あるいは菩薩道とか、そういうカルマの人が多いから、そういう人にとって、あんまりちょっとこの苦の教えは嫌だって感じるかもしれないね。だいたい勉強会でもバクティの勉強会とか菩薩道の勉強会は盛り上がるわけだけど、原始仏教とかの(笑)、「無常だ」とか「苦だ」とか言うと、シーンとなって(笑)。でもそれは必要なんだね。必要っていうのは、つまりスタートとして。つまりこの世が楽しい――欲望的な意味でね、煩悩的な意味で楽しいって思ってる人は修行しないから。修行しなくても別に幸せならいいんですけども、でも実際はその裏側には多くの苦しみが隠れていて、いつの間にかもう逃れられない苦しみに沈んでしまうと。だからまず、あなたが今いるところは危険ですよと。なんかのほほんと生きてるけども、この人生ってかなり危険ですよと。苦しみがいろんなところに潜んでますよと。だからこの人生そのものから――人生っていうか輪廻そのものから解脱しないと幸せはないですよっていうところから説くしかないんだね。で、やっとそれを理解した人は一生懸命修行を始めると。で、修行して少し智性が高まってきたら、やっと空がだんだん理解できるようになってくるんだね。
はい。で、そしてさらに空の教えの上にあるのが、まあ、さっき言ったバクティとか、あるいは密教でも言う、変な話、実は全部神でしたと。言い方を換えれば、実はこの世は苦しみでもなければ、実体のない幻でもなく、神の楽園でしたと。でもこれも、理解できないとか恐怖するとは別の意味での落とし穴もあるね。つまり全然そんなのを悟る境地にないのに、「この世は神の楽園だー」とか言って、全肯定で生きてしまったら、自分の煩悩とかけがれも肯定しちゃって、全然先に進めなくなってしまう。だからこの辺は非常に難しいところがある。いろんな意味で、まだ準備ができてない人に先の教えを――これは例えばゾクチェンとかでよくいわれますよね。ゾクチェンとかマハームドラーとかでも、心の本質を解き明かす時期を間違ってはいけないと。これはミラレーパの話でも何度か出してるけども、まだその段階ではないのに答えだけ言っちゃうと、弟子は、悟ってないのに悟ったって勘違いしちゃって、なんかそんな気分になっちゃって、で、それで全然修行が進まないと。
これは一般的な本とかにもそういうのよくある。その本人が悟ってるかどうかは別にしてね。そのような、なんていうか、耳に心地いい、なんか超越的なものをいろいろ聞いてると、なんか自分はすべてを超えたような感じになってくるんだけど、実際にはそうじゃない、乗り越えなきゃいけないいろんなカルマが自分にはいっぱいあると。だからそれを直視しなきゃいけない。
だからそれは、実際にはもちろん師匠がいる場合は、段階に応じて、弟子にいろいろ解き明かしていくわけだね。さっきのヴィヴェーカーナンダとラーマクリシュナの場合は、ヴィヴェーカーナンダは実はその時点でラーマクリシュナの教えを理解できなかったんです。理解できなかったけど、当然一番弟子ですから、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダの素質を見込んで、もうひたすらその教えを説き続けたんだね。「一切は神だよ」と。でもヴィヴェーカーナンダは理解できなかった。理解できずに、いろいろばかにしたりしてたんだね。で、皆さんも読んだことあると思うけど、ヴィヴェーカーナンダと、悪友みたいな人でハズラーっていう人がいて(笑)。ね。よく出てくるよね。ラーマクリシュナの弟子で、まあ面白い人ですよね。面白いっていうのは、ラーマクリシュナの弟子はみんな純粋で謙虚な人が多かったわけだけど、このハズラーっていう人は、ちょっと傲慢な感じで。面白いのは例えばラーマクリシュナが冗談でね、――ラーマクリシュナの弟子なのにちょっと偉そうにしてるから、冗談でちょっとハズラーを立てるような感じでね、「わたしは彼には敵わないよ」みたいな感じで言ったら、ハズラーは真に受けちゃって、ちょっと鼻高々になって(笑)、みんなの前で偉そうにしちゃって(笑)。ちょっとそういう面白いキャラクターではあるんだけど。うん。ただ、なんかハズラーの伝記とかも残ってて、で、それを見ると、ハズラーも実際にはああいうちょっと悪役的な立場を取ったけども、実際には優れた部分も持った魂だったみたいですけどね。ただ表面的にはすごく傲慢で、あと、自分の観念で教えをとらえるところがあって、純粋にラーマクリシュナの教えを受けるという感じではなかった。
で、その変な弟子であるハズラーと、それから一番弟子のヴィヴェーカーナンダがなぜか仲良かったんだね。仲良くて、ある日も、ラーマクリシュナの不二一元の教えを聞いて、ヴィヴェーカーナンダは全然理解できなくて、で、ハズラーのもとに行って、それを話題にして二人で笑ってたっていうんだね。「いやあ、全然あの人の言うこと理解できない」と。「ここにあるコップも水差しも石ころも、全部が神なんてあるわけないでしょう」みたいな感じで二人で、「わっはっは、わっはっは」って笑ってたら、そこにラーマクリシュナがやって来て、「いったいなんの話だい?」って言って、ヴィヴェーカーナンダの肩にポンと手を置いたっていうんだね。その瞬間、ヴィヴェーカーナンダの世界がグワーッてなって、不二一元の世界に入ってしまった(笑)。一切が神に見える世界に入っていったと。つまり、言ってみれば、知性においてヴィヴェーカーナンダはまだそれを理解できないので、ラーマクリシュナが強引にもう理解させちゃったみたいな感じだね。ヴィヴェーカーナンダはその日以来、その不二一元の、つまり「実は全部神なんだよ」っていうことを疑ったことはないと。つまり経験しちゃったからね。
これはそのヴィヴェーカーナンダが、まあまだ封印が解かれてないけども、しかし大変な素質があったから、最初からラーマクリシュナは最高の教えを説き続けたわけだけど、実際にはまだその準備ができてない場合は、そのような高度な教えを説いてはいけない。
密教なんてもちろんそうですよね。密教っていうのは結構、一般的な道徳とか、あるいは観念を超えたような教えがいっぱい出てくる。あの『ナーローの生涯』とか見るとまさにそうですけども。で、そういうのもさ、ここにいるみんなはもちろん、ね、ほとんどの人が、理解できるっていうか、ほんとに理解できるかどうか別にして、なんとなくそのフィーリングはつかめると思う。ナーローの本とかもとても人気が高いしね。それは皆さんの持ってる素晴らしいカルマであって。でも、それをさ、全然修行してない人とかにはもちろん説けないよ。皆さん興奮してね、感動して、「おお!」とか言って、「ちょっと来て! ナーローすごいよ」と。「え、どうすごいんですか?」と。「師に飛び降りろと言われて飛び降りたんだよ」と(笑)。わけ分かんないよね(笑)。
(一同笑)
「え、だからなんなんだ?」と。ね。「師匠のためにごはんをもらいに行って、くれなかったから、そのごはんに水ぶちまけたんだよ!」ってニコニコして言ったってさ、わけ分かんないよね(笑)。「この人は何言ってるの?」と。ね。その土台となるいろんな法があって、やっと理解できる教えだと。
はい。だからこれはいろんなところに出てくる注意ですけども、法を説くときには、相手の機根を見て説かなきゃいけないってことだね。
