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解説「ミラレーパの十万歌」第二回(3)

【本文】

 数歩歩くと、空は晴れ渡りました。ミラレーパは高揚した気分で、丘の頂に座りました。「哀れみのサマーディ」に入ると、すべての衆生に対する無量の慈悲が、彼の心に生じました。それによって彼は、大きな精神的成長と、インスピレーションを経験しました。彼が座った場所は、のちに「哀れみの丘」と呼ばれました。

 ミラレーパは「善き川」という川の土手へ行き、そこで「流れる川のヨーガ」を行ないました。

 火の寅の年の秋の月の十日目に、バロというネパールの悪魔が、「善き川」の谷の天も地も満たすほどの膨大な悪魔の軍勢を率いて、ミラレーパに挑戦してきました。彼らは山々を動かしてジェツンに投げ落とし、雷電と兵器の雨で彼を襲いました。
 そして、
「お前を殺し、縛り、ばらばらに切り刻んでやる!」などと叫びながら、ミラレーパを罵り、脅しました。
 また、彼らはミラレーパを恐怖させようとして、凶悪で恐ろしい姿となってあらわれました。

 はい。まず悪魔たちにいったん勝利して、で、そのあと、哀れみのサマーディね。
 これは仏典とか見てもそうだし、ヨーガ経典とか見てもそうだけど、サマーディと言われる、つまり瞑想の究極状態、これにはいろんなサマーディがあります。まあ、ぶっちゃけて言うと、どうやってそのサマーディに入ったかによって、サマーディが違ってくるんだね。ヨーガ的な言い方をすると、サマーディっていうのはつまり、精神集中、その精神集中からくる、精神集中の拡大状態。で、最終的に自分とその精神集中した対象が完全に合一する状態があるんです。で、例えばそれを、あまり意味のないものに、例えば画鋲とかロウソクの炎とかにやった場合は、単純にほんとにクリアなサマーディに入るだけなんだけど、その対象が何らかの聖なる意味を持つものだった場合、それに対応するようなサマーディに入ります。
 どういうことかと言うと、例えばブッダに対してグッと集中してサマーディに入ったら、そのブッダと合一するようなサマーディに入るとか。あるいはシヴァ神に集中してサマーディに入ったら、シヴァと合一するようなサマーディに入るとか、まあ、それがどういうものかっていうのは別。それはなんていうか、言葉で表わせないわけだけども、とにかくその集中したものに対応するようなサマーディに入ります。で、それと同じで、この哀れみ、つまり衆生への慈悲っていう思いをずーっとわき起こさせて、それに超集中してその慈悲の思いと自分が全く変わらないような、完全に自分が慈悲そのものになったような状態のサマーディがこの哀れみのサマーディなんだね。だから単純に頭で、「ああ、あの人たちかわいそうだな。助けなきゃ!」――これはまだ二元性の世界だよね(笑)。じゃなくて、もうそういう論理的なものをすべて超越してしまった、もうただそこに慈悲だけがあるような、その状態になってるのがこの哀れみのサマーディだね。
 はい。次に「流れる川のヨーガ」っていうのがあるね。これもとても難しい。これはあまり突っ込まなくてもいいんだけど、ちょっとサラッとだけ言うとね、これもサマーディなんですが、これは、なんていうかな、そうですね、ここで流れる川っていうのは実際の川のことじゃなくて、これ、ヨーガ的な説明の方が分かりやすいんですが、つまり――いつも言ってるようにね、この宇宙っていうのは、まず絶対なる完全なる寂静の本質、まあそれはブラフマンと言ってもいいし――ヨーガ的に言うとブラフマン。仏教的に言うと、そうですね、リクパとも言ってもいいし、心の本性と言ってもいいし、つまり絶対的な変わらない本質がある。しかしそれと同時にそこからわき出てる、この動きの世界をつくり出してる、止まらない流れ続けるエネルギーみたいなのがあるんだね。これはまあヨーガではマーヤーとかシャクティとかいう言い方をしてる。つまりこの世界っていうのは、すべてこの、止まることのない、無限の動きの中にあるんだね。で、そのエネルギーの動きがわれわれの苦楽をつくり出しています。つまりこの動きこそが、無常なるこの世の流れなんだね。
 で、この無常なる――これはお釈迦様が「この世は無常である。無常なるがゆえに苦である」って言ったように、無常なるがゆえにわれわれは苦を味わっています。しかしよく考えてみてください。なぜ無常だと苦を味わうんですか?――っていう問題が残るね。じゃあT君、なぜ無常だと苦が現われるのか(笑)。

(T)なぜ……

 うん。お釈迦様は「無常である」と。「無常だから苦だ」って言ってるんだね。それはなぜ無常だと苦なのか。

(T)ええっと……

 自分の思ったことでいいよ。

(T)無常だと苦。一瞬として同じものはないから。

 そうそう。だから、一瞬として同じものはないと。じゃあなぜそれが苦なのか、なぜそこで苦を味わうのか。

(T)新しいことが来ても、すぐに無常によって流れて、それを失ってまた苦しみを受けるから。

 そうだね。そう。で、普通はまあ、そうなんです。つまり無常だから、何か楽しいことがあってもすぐそれは失われる。あるいは期待してたものが裏切られる。あるいは今はいいんだけど、「こういうふうになったら嫌だな」って思ったものになる。つまりこの無常の流れこそが苦を生み出してると、お釈迦様は言ってらっしゃる。
 しかしこれは実は初歩的な真理なんだね。つまり誰でも分かるように説いた真理なんです。もうちょっと突っ込むと、無常そのものは別に苦ではないっていうことが分かる。つまりそこに、無常なのに(笑)、期待したり恐怖したりとらわれたりしてること、これ自体が悪いんだっていうことが分かってくる。それは分かるよね。無常自体はこの世の法則なわけです。これはいい悪いじゃないんです。いろんなものが起きては消えていく。つまり起きては消えていくっていうことが分かっていながら、なんで執着してんの? っていう話なんだね(笑)。それ消えるんだよと。消えるものに執着するから、消えたときに苦しむわけです。これは普通、分かってても執着してしまう。あるいは何か嫌だっていう思いを持ってたら、当然それが来たら苦しいわけです。だったらその嫌悪感を捨てればいいんだけど、捨てられない。これが普通の人の苦しみなんだね。
 で、これは論理的にそれが分かったとしてもなかなか抜け出せない。この執着と嫌悪という一つの鎖にわれわれは縛られてる。しかしミラレーパっていうのはそこからも自由になってるんだね。そうすると何が起きるかというと、ただそこには美しい自由なる無常の流れだけがあるんです。いろんなものが起きては消えていく、ただそれだけなんだね。で、それはもう一歩進んで言うと、とても素晴らしいんです。この無常性そのものはね。
 小さなことでは皆さんも分かるかもしれない。例えばそうですね、日本人って特にそうだけど、四季の移り変わりとかを楽しむよね。あるいはいろんなことが自然の中でね、生じて消えてったりする、それを楽しんだりする。そういうことは楽しめるんだけど、自分に関わってくると楽しめない(笑)。「うわあ、こうなったら嫌だ!」とか、「ああ、これが離れていくのは嫌だ!」って思ってしまう。じゃなくてもうミラレーパは一切にとらわれがないから、すべてのこの移り変わりがほんとにもう喜びなんだね。ちょっと変な言い方だけど、つまりマーヤーの、この宇宙の幻影の動き自体を楽しむというかな、そういう境地だね。

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