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解説「菩薩の生き方」第四回(1)

2011年11月9日

解説「菩薩の生き方」第四回

 はい、今日は『菩薩の生き方』の続きですね。これもまあ、いつも言うように、解説のさらに勉強会という感じになるので、なんていうかな、しっかりとね――まあ皆さん、わかっているところはかなりあるだろうから、それを心に根付かせるような感じでね、勉強していきましょう。

【本文】
 ムニの王者たちは、多カルパの間思惟にふけって、この善福(菩提心)をまさしく発見した。それが善福であるゆえんは、偉大なる安楽に、無量の人の群を安らかに救い上げるからである。

 あまたの生存の苦を超えようと願い、衆生の悩みを除こうと願い、数多くの安楽を受けようと願う人々は、菩提心を常に放ち捨ててはならぬ。

 生存の牢獄に縛り付けられた哀れな人でも、彼に菩提心が生ずるや否や、直ちに「ブッダの子」と呼ばれ、人間と神々の世界においてあがめられるものとなった。

 この不浄の身体を、値のつけられぬほど尊い、ブッダの宝のような身体に変えてしまう――かように甚大な効験のある菩提心という霊薬を、はなはだ堅固に保て。

 無量の思慮があって、しかも世界一である隊商の長(すなわちもろもろのブッダや菩薩方)が、よく吟味し、価値多しと認めた菩提心という宝を、転生の巷にさすらいを習いとせる汝らは、はなはだ堅固に保て。

【解説】
 一行目から行きましょう。ムニというのは、釈迦牟尼の「牟尼」で、簡単にいえば聖者のことですね。聖者の呼び名の一つです。聖者の王者、つまり聖者の中の聖者とも呼ぶべき偉大な方々は、多カルパの間--カルパというのはものすごい永い時間の単位なので、ここではとにかくものすごく永い間、ということでいいでしょう――ものすごい永い間、思惟を繰り返した結果、「菩提心」というものを「発見」したというのです。
 つまり真理というのは、作り上げるものじゃないんですね。当たり前ですけど。どこかの宗教の教祖がいて、自分の考えで、教義を作り上げるというようなものじゃない。誰が発見しようとしまいと、そこに現前として常に存在するもの。それが真理です。そして「菩提心」も、聖者の中の聖者とも呼ぶべき偉大な方々が、発見した偉大なる真理であるということですね。

 はい、ちょっとずついくと、ここに書いてあるように、真理というものは、誰かが都合よくつくり上げるものではない。まあつまり、そうだな、限定的真理で言うならば、例えば自然科学、西洋のね、物理学とかで発見される真理も、限定的真理ですね。限定的っていうのは、究極の真理ではないけども、いろんな物理法則をいろんな人が発見してきた。それは限定的ではあるけども、なんていうかな、まあ、もともとあったっていうか、もともとある法則性を、人類がある種の英知によって発見しましたと。で、同様に、まあ、いつも言うけども、東洋というかインドを中心としたアジアの人たちは、われわれが例えば実験等によって、外側の物理法則を、なんていうかな、証明しようとしたとしても、それは、「すべての現われは心の現われ」っていうそもそもの発想があるので、究極の答えにはつながらないと。よって、われわれの心こそ探求すべきだと。
 つまり、いつも言うけども、われわれが見てる世界が、夢じゃないとどう言い切れるんだっていう発想になるわけだね。そうなるともう、例えば実験したとしてもその実験が夢かもしれない。ね。そうなってしまうと、もうきりがないわけだね。この外側に外側にっていうのは、つまり、これを、「われわれが見てる世界が一応現実ですよ」っていう仮の前提の下にしかできない世界なんだね、科学っていうのは。じゃなくて、そこもひっくるめて真実を探ろうと。「これは夢なのか、夢じゃないのか」もひっくるめて、究極の真実を探ろうと。それはベクトルを外ではなくてこっちに向けるしかないと。つまり中心に中心に、心の奥に奥にと。あるいは宇宙の中心に中心にと向けるしかないっていう方向で、まあインド人っていうかな、東洋の昔の賢者たちは探っていったわけですね。で、それで発見していったのが、まあ、いつも言うけども、インドではサナートダルマといわれる――つまり仏教にしろヒンドゥー教にしろ、あるいはヒンドゥー教のいろんな派があるけども、それは小さな違いであって、すべての真理が、真理といわれる道が共通して気付いてる、あるいは触れている何かがあるわけですね。で、これっていうのは、もう一回言うけども、もともとあると。で、それを知るか知らないか、発見するかしないかの違いだと。
 で、その法則性にもいろんなものがあるわけだけども、ここで出てくる「菩提心」という教え。で、この菩提心または菩提心の基礎である「慈悲」とか「四無量心」っていうのも、例えばお釈迦様がね――あのさ、現代の宗教学者とか、あるいはちょっとこうインテリぶってる仏教のお坊さんとかは、なんでもかんでもこう、現代的な理性的な感覚にこうねじ込めようとするからね。お釈迦様の教えでさえ、非常にこう、表面的にとらえがちなんだね。でも皆さんわかると思うけど、お釈迦様が例えばですよ、「じゃあ、これから宗教やろうか」と。ね(笑)。「どんなのがみんなにいいかな」と。「解脱とかばっかり言ってたらちょっと冷たい感じだから、ちょっと四無量心も入れてみようか」とか(笑)、そんなこと考えないよね。そんなこと考えてつくったんじゃなくて。じゃなくて、本当に真理とは何かを追求していったら、「あ、これだ」っていうのが発見されたと。で、もう一回言うけども、この菩提心といわれるもの。で、その菩提心の土台にある四無量心、あるいは慈悲といわれるもの。これが修行の、修行というかわれわれが幸せになる道の大いなるエッセンスであると。これを多くの人が過去から発見してきたわけですね。
 で、これは一応知識として言っておくと、一応ね、この菩提心とか四無量心とか救済とか出てくるのは大乗仏教がもちろん中心なわけだけども、お釈迦様の原始仏教でももちろん出てきます。ただお釈迦様の弟子っていうのは、そういう大乗的な、菩薩的な弟子ももちろんいっぱいいたんだけど、そうじゃない、「もう、とりあえず解脱したい」と。ね。「とりあえずニルヴァーナに入りたい」っていう弟子も多かったから、お釈迦様は当然そういう人たちには菩提心とかは説かないで、ひたすら自分のエゴを滅して、ニルヴァーナに入る道だけを説いたんだね。でもそうじゃない、慈悲の教え、あるいは救済の教えもいっぱい説いてる。
 一番有名なもので「マイトリースートラ」といってね、「慈愛経」っていう経典があるんですが、それなんかではひたすら、徹底的に、上にも下にも横にも――つまりあらゆる方向に、あらゆる生命に対して慈しみの心を起こしなさいと。これこそが最高の心の境地だってお釈迦様は言ってらっしゃるんだね。これはまさに、菩提心のもととなる慈悲の教えですね。
 で、これがどんどんどんどん、のちの大乗仏教、まあ、このシャーンティデーヴァをはじめとした大乗仏教の人たちが、菩提心の部分をすごく精妙に組み立てていって、大乗仏教の教えができ上がっていくんだね。
 で、ちょっと話を戻すと、これはまあ、「偉大なる聖者方が発見してきた」ってあるね。で、なぜこの聖者方が偉大かっていうと、つまりゼロから発見してるわけですよね。――だって、この地上にもし菩提心がない時代があったとしたらね、教えすらもなかったら、そこで「菩提心こそ最高だ」って発見するとしたら、それは最高に素晴らしいことですね。素晴らしいっていうか、あり得ないぐらいの発見だよね。
 ただね、現代ではもちろん、一応この菩提心を初め、いろんな教えが説かれてる。で、もうちょっとミニマムな意味では、現代でも発見がある。それはわたし個人の経験でもそうだけど。前からね、ちょっと言ってることだけど、わたしも、何度も言うように、中学生くらいからヨーガ修行を始めて、で、まあ最初はハタヨーガとかクンダリニーヨーガ系の肉体的ヨーガを中心にして、で、そのあといろんなヨーガを高めていき、まあヨーガだけじゃなくて仏教系の修行とか教学とかもしていって――で、まあ、いろんな教えがある。いろんな修行がある。ね。で、やっぱり、いろんな道があるわけだけど、いろいろ真剣にやってると――最初はもちろんよくわかんないわけです。なぜこれをやるんだろう?――よくわかんないけどやってみるかと。この教えはどういう意味なんだろう?――わかんないけどもっと勉強してみるかと。やってるうちに、その全体を流れる、統一した何かにうっすらと気付きだすわけですね。「あれ?」っていう感じで。
 これはまあ、なんの道でもそうですよ。例えばスポーツにしろ、いろんな音楽とかにしろ、なんでもそうですよね。いろんなパターン、いろんな勉強があって、最初はよくわかんなくて、教えられたとおりやってるんだけど、だんだんすべてに通達してくると、「あれ? これ、エッセンスあるな」っていうのに気付いてくるんだね。修行も同じで、この菩提心に関してもわたしは最初のころは、なんていうかな、いろんなエッセンスがあって、その一つだと思ってたんだね。つまり菩提心というエッセンスもいいなと。それも必要かもねと。まあ、なくてもいいんだけど、それがあったら結構修行進みやすい、これが菩提心だ、もしくは慈悲だと思ってた。でも、だんだん自分なりに修行を進めていくうちに、「あれ? あれ?」っていうのがあってね。それは何かっていうと「あれ? これ、すべてなんじゃない?」っていうのがあったんだね(笑)。「あれ? 菩提心って全部じゃない?」と。
 「菩提心って全部じゃない?」っていう意味は、菩提心の裏側には当然、エゴの放棄がある。エゴがあったら菩提心はできないから。つまり、エゴを捨てて、他者を取ると。他者の利益を取ると。他者の幸福を――つまり、もう一回言いますよ――他者の幸福もある程度願わなきゃいけないよ、じゃなくて、一〇〇%他者の幸福を願うと。エゴはゼロにすると。これが、あらゆる全修行のエッセンスっていうか、意味なのかなっていうことに気付きだしたんだね。
 で、前もちょっと言ったけど、わたし、それに気付いたときに、すごい大発見をした感じになってね。最初はちょっと半信半疑のところがあって。「え? でもそれはちょっと極端過ぎるかな?」って思ったんだけど、考えれば考えるほど、あるいは瞑想すれば瞑想するほど、その確信は深まっていったわけですね。で、それを例えば他の修行してる人とか、あるいは仏教とかに興味ある人に、ちょっと話してみたりしたんだね。そしたら、まあ、多くの人は納得しない。「いや、それはちょっと考え過ぎでしょう」と。「言い過ぎでしょう」と。ね。「え、そんな菩提心とかじゃなくて、修行っていうのは単純に、錯覚を滅してニルヴァーナに入ることだ」って言う人もいるわけだね。でも中には、ちょっと理解してくれる人もいた。「え? それ、なんとなくわたしも気付いてました」と。ね。「でも、そこまではっきり言われると、そうかもなって思う」と。ね。「でも、それはちょっと、本当にそこまでそうなのかわからないけども、でもなんとなくそうかなっていう気はしてた」っていう人もいた。つまり、まあ、その人はおそらく発見途上だったんでしょうね。でも本当に、これはわたし個人の経験として今言ってるわけですけどね、本当にこれは発見されるんです。中途半端な修行というか勉強をしてると、なんかこうヴェールに隠れてるんですけども。真剣に自分と向き合って、真剣に修行の道を行ってぶち破ろうとしてると、やっぱりなんかそれしかないなってわかってくるんだね。

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