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カダム派史(4)「ドムトンとアティーシャの出会い、ウへの招請」

4.ドムトンとアティーシャの出会い、ウへの招請

 アティーシャはガーリーにおいて多くの人々を真理の道に導きつつ、三年間とどまった。アティーシャがアレンジして作った瞑想法も非常に広く流布した。それからインドへ帰還しようとしていたときに、ドムトンと出会った。

 ドムトンは姓をシェルともいう。父タスン・シェルと母クト・ザラン・チグマの息子として、1005年に生まれた。母親は早くに亡くなり、父は新しい妻をめとった。ドムトンは幼少時から聡明だったので、「義母といさかいするよりも、私はむしろよそに行った方が良い」と考えて、シュに移り住み、そこで読み書きなどを学んでいた。
 あるとき、インドに行こうとしていたセツンという聖者と出会い、信が生じた。

 その後、セツンはインドへと進んだが、途中、ネパールにおいて、ある外道の行者と論争し、その相手を打ち負かした。その一件を契機にセツンは、
「インドに行ったとしても、私より博学な者がいるかどうかわからない上に、このような種類の者も多くいるかもしれない。」
と考えて、インドに行く気をなくし、チベットへと道を引き返した。
 その途上で、セツンとドムトンは再会した。セツンに信を生じさせていたドムトンは、彼に仕えることを望み、セツンもそれを承諾した。その後ドムトンはセツンの家で、製粉、家畜の世話、警備など、多くの奉仕に日々を過ごした。さらに、それらの奉仕の間にも、傍らに経典を置いて読むなどして、求学にも大精進をした。また、近所にいたあるパンディタに、多くの言語を学んだ。
 あるときこのパンディタに、「現在、インドにおいて、誰が最も偉大ですか?」と尋ねると、彼はこう答えた。
「私がインドにいたときには、ナーローパが最も偉大であった。今は、ディーパンカラシュリージュニャーナ(アティーシャ)というお方がもし現存しておられれば、最も偉大になっていることだろう。」

 ディーパンカラシュリージュニャーナという名前を聞いただけで、ドムトンの中に大いなる信が生まれた。そして「今生において、彼とお会いしたい」という大望も生じた。そこでセツンにその思いを話し、当時ガーリーに滞在していたアティーシャに会いに行きたいと言ったところ、セツンは不快な表情をすることなく、ロバその他の旅の必需品と共に経典をドムトンに与えた。こうしてドムトンはガーリーに向けて出発した。 

 旅の途中、ある場所に多くの人々が集まっていた。タンカ・ベルチュンという者の父の葬式の準備で、関係者たちを集めての振る舞い酒があるということであった。そこでドムトンがその酒席に行くと、タンカ・ベルチュンはドムトンに対して、
「私は偉大なる者である。よって君は、狐のように素早い動作で、私に礼拝をしなさい。」
と言った。ドムトンは言われたとおりにベルチュンに礼拝をした。
 その後、ベルチュンは仏法の話が好きだったので、多くの仏法の話をした。しかし話のいちいちの出鼻からドムトンがすべて論破してしまったので、ベルチュンは尋ねた。
「カムに、在家者で仏法学者のドムトンという者がいるというのを聞いたが、もしかして君がそれではないか?」
 ドムトンがそうだと答えると、ベルチュンは驚いて下座に退き、ドムトンを上座に上らせた。そして良馬や絹を布施して、こう言った。
「さて、先ほどあなた様に礼拝をさせてしまったことを、なにとぞお許しください。
 ところで、私が施主を努めますから、この地に僧院を建設なさり、私の供養処となってください。」

 しかしドムトンはこう答えた。
「今はそのような暇はない。私はガーリーへ、あるパンディタに会いに行こうとしているのだ。後に縁起が合えば、あなたの供養を受け、僧院も建設しよう。」

 
 それからドムトンは、パンユルに至った。そこでカワ・シャーキャ・ワンチュクという修行者と出会った。ドムトンは彼にこう言った。
「私はこのたび、あるパンディタに会いに行きます。彼をウに招待することになるかもしれませんが、そのときには手紙を送りますから、あなたがその委員を務めて、ぜひ出迎えに来てください。」

 その後ドムトンは、人里をたどらずに、砂漠地帯を通って旅を続けていたところ、道に迷ってしまった。すると全く面識のない一人の男が現れ、しばらく道案内をしてくれた。ある場所まで来ると彼は、「ナシューの地で争乱が起きているので、そろそろ私は行く」と言って、一陣の風となって消え去った。後にドムトンはこう言った。
「彼はペカル(チベットの護法神)であった。法を熱心になす場合には、彼もまた善き護法神である。」

 
 さてその頃ガーリーにいたアティーシャの夢の中に、ターラーが現れてこう言った。
「以前に汝に予言した例の在家信者が、三日後の昼時にやってくるから、その準備をされよ。」

 こうして三日後の昼になったが、まだその在家信者は現れなかった。ある施主に昼食に招かれていたアティーシャは、従者と共に道を歩きながら、
「ターラーは、私を惑わしたのかもしれない。」 
とつぶやいた。するとそのとき、道の真ん中でドムトンとばったり出会った。ドムトンは、まるで旧知の者と出会ったかのように、アティーシャの従者たちに何のことわりも入れずに、アティーシャの後についていった。

 ドムトンはその昼食会で供養されたバターを使って灯明を作り、アティーシャに供養した。アティーシャはドムトンにアビシェーカを与え、また、枕を連ねて話を伺う許可を与えた。

 その三日後、アティーシャはインドへ帰るためにガーリーを出発した。まずキトンの地に至り、1045年はそこに滞在した。そこから先はちょうど戦乱が起きており、進めなくなっていた。そこでドムトンは、ウの地方には、ラサ、サムイェーなどの寺院があり、数千人の出家修行者がおられると言い、ウ地方の称賛を述べると、アティーシャは、
「それほど多くの梵行者が集まっているところは、インドにもない。きっとアラハットも多くおられることだろう。」
と言って、ウの方角に向かって何度も礼拝をした。

 そこでドムトンは勇気を出して、アティーシャに、ウに来てくださるようにお願いした。するとアティーシャはこう答えた。
「私はサンガ(出家教団)のお言葉を破ることはしない。もしサンガのお言葉があるならば、私は行こう。」

 そこでドムトンは、以前に旅の途中で出会ったカワ・シャーキャ・ワンチュクに手紙を送った。カワは仲間たちと協議して、喜んでアティーシャを出迎えることにし、手紙を送り返した。こうしてアティーシャとその一行は、ウへと行くことになった。

 その旅の途上でアティーシャは、ロンゾンという聡明な少年と出会った。周りの者が、この少年に何かお話をしてくださるようにと何度もアティーシャに頼んだが、アティーシャはそれを断り、こう言った。
「私はこの者に話をすることはできない。なぜならこの者は、聖者クリシュナーチャーリヤの転生者なのであるから。」

 その後、ナムチャンタンという地のあたりに来たときに、アティーシャはある山の方角を指さし、「あそこには何があるのか?」と尋ねた。周りの者が、「あそこにはラサの寺院がございます」と答えると、アティーシャはこう言った。
「それでわかった。あそこの空に多くの神々の子女が集まり、供養をしている。」

 
 その後、チントゥという地において、ある嫁に行く娘が、アティーシャに信を生じ、嫁入り道具の装飾品をすべてアティーシャに布施したので、父母がその娘を叱責した。すると娘はツァンポ河に身を投げて自殺してしまった。アティーシャはその娘のために聖典を読み、こう言った。
「私の例の娘は幸福である。彼女は三十三天に生まれた。」

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