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要約・ラーマクリシュナの生涯(1)「シュリー・ラーマクリシュナの生地と家系」

要約・ラーマクリシュナの生涯

 ラーマクリシュナの直弟子であったスワーミー・サーラダーナンダによる「ラーマクリシュナの生涯」(日本ヴェーダーンタ協会)を、私が個人的に要約しまとめていきたいと思います。
 要約にあたって削除する部分、残す部分、言葉を補う部分などは、私の独断ですのでご了承ください。

 「ラーマクリシュナの生涯」はとても素晴らしいエッセンスがちりばめられた本ですが、非常に厚い本であるため、おそらく読了する方は少ないと思われますので、興味深い部分を中心に要約しようと考えました。

1 シュリー・ラーマクリシュナの生地と家系

 シュリー・ラーマと主ブッダとを除けば、神の化身たちはみな、貧しさと貧困の中に生まれた。
 たとえばバガヴァーン・シュリー・クリシュナの幼少時代を見よ。彼は牢獄で生まれ、その幼年時代を、親類縁者たちから離れて、貧しい牛飼いたちの集団の中で過ごした。
 また主イエス、彼もまた馬小屋に生まれて、飼養桶をゆりかごとした。しかし、身分の低いその両親に栄光をもたらした。
 またシャンカラは、その父親の死後、貧しい未亡人の子として生まれた。
 また、ごく普通の家柄に生まれたバガヴァーン・シュリー・チャイタニヤ。
 そして最後に、貧しい家に生まれたイスラームの創始者、預言者ムハンマドである。
 彼らは主として宗教の衰退を阻止するためにこの世に生まれてきたのだということは、すでに私たちは見てきた。この目的を果たすためには、彼らは過去に現れた宗教に伏在する原理を詳しく知り、それの衰退の原因を研究して、時と場所の変化に応じた宗教の新しい、完成された形を作らなければならなかった。この詳しい叡智が得られるのは粗末な小屋の中であって、豊かな宮殿の中ではない。自分の大切なよりどころとして神とその摂理にすがるのは、この世を楽しむ喜びを奪われた、貧しい人々であるからだ。したがって、宗教がいたるところで衰えていても、古い教えの少しばかりの輝きが、まだ貧しい人々の小屋の中は照らしているのだ。それがおそらく、これらの偉大な魂たち、世界の教師たちが貧しい人々の小屋に生まれてくる理由なのであろう。
 我々がその生涯の物語を述べようとしているこの偉大なる師の誕生の場合は、まさにそうであった。

 ベンガル州のフーグリ地方の北西部がバンクラとメディニプルの二地域に接しているあたりからあまり遠くないところに、一つの三角形を作って三つの村が密集している。土地の人々には、シュリープル、カマルプクルおよびムクンダプルという三つの名を持つ別々の村として知られているけれども、それらは旅人たちには一つの村と見えるほど互いにくっついている。周りの村の人々はこの三つを一緒にしてカマルプクルと呼んだ。我々が話そうとしているその時代には、カマルプクルは、ブルドワンのマハーラージャのグルの家族に属する、地代無料の領地の一部であった。この家族の子孫たちであるゴーピーラル・ゴースワミー、スクラール・ゴースワミー、およびその他がそこに住んでいた。

 1867年にベンガルの農村地帯がマラリヤの流行に食い荒らされるまで、あの辺に漂っていた平和的な雰囲気は、言葉に表しようがない。広々とした田畑に囲まれて、フーグリ地方のこれらの小村は、広大な緑の海に囲まれた島々のように見えた。人々は主に戸外の生活をしており、地味豊かで食物に事欠かなかったから、健康で力強く、精神は明るく、満足していた。村々は人口が多く、村人たちは農耕だけではなく、様々な小工業にも精を出していた。そういうわけで、カマルプクルは今もなお、あの地方ではジラピやナバトなどのお菓子で有名であり、人々は今でも黒檀の水ギセルを作り、それをカルカッタで売ったりして、それ相応の生活をしている。一頃は、糸、ドーティ、タオルというような手工芸品の産出で有名であった。
 今でも、毎週火曜日と土曜日には村で市が開かれ、人々は周囲の村々からそこへ、農産物と一緒に、糸、ドーティ、タオル、鍋釜、水差し、籠、様々な敷物などを持って来て売りに出す。
 数々の祭礼も、今でもおこなわれている。チャイットラ月には、カマルプクルにはシヴァを称えるガージャンの歌と共に女神マナサーを称える歌が響き渡る。またヴァイシェーク月かジャイシュタ月には、ハリを称える歌が三日間、途切れることなく響き渡る。

 カマルプクルの西方二マイルに、サートベーレー、ナーラーヤンプル、デーレーという、隣り合った三つの村がある。このデーレーの村に、適度の資産を持つ、信仰深いブラーフマナの一家が住んでいた。彼らは高貴な家柄で、敬虔なヒンドゥー教徒の習慣を遵守し、シュリー・ラーマを礼拝していた。
 この家のシュリー・マニクラム・チョットパッダエは、三人の息子と一人の娘を持っていた。この中で長男のクディラムは、おそらく1775年に生まれた。
 クディラムは、彼の家で代々礼拝されてきたシュリー・ラーマを深く信仰していた。彼は、他の日課とともにサンディヤーをおこなうのが習慣であった。その後で、シュリー・ラーマに供養する花を集めた。彼はシュードラ(奴隷階級)の者からは決して贈り物を受け取らなかった。また、自分の娘を嫁にやって金を受け取ったブラーフマナが触れた水は飲まなかった。彼はヒンドゥー教の慣習を厳格に守ったために、村人から非常に愛され、尊敬された。

 父親の死によって、クディラムは先祖の財産の管理を受け継いだ。最初に結婚した妻は幼い内に亡くなってしまったので、25歳くらいの時に再婚した。花嫁の名はチャンドラマニといい、家の中では簡単にチャンドラ(チョンドロ)と呼ばれた。
 二人の長男のラムクマルは1805年に生まれたといわれる。長女カッタヨニが五年後に生まれ、1826年には次男のラーメーシュワルが生まれた。

 村の地主ラーマーナンダ・ラーイは、あるとき、デーレーにいるある男を嫌い、彼を相手取って虚偽の訴訟を起こした。誰か評判の良い人物が証人として必要だったので、彼は人々から愛されているクディラムに、法廷で自分に有利な虚偽の証言をしてくれるように頼んだ。
 廉直なクディラムは、訴訟とか法廷とかいうたぐいのものに関わることを恐れていて、たとえ正当な理由があっても、誰かに訴訟を起こすなどということは考えたこともなかった。ましてや虚偽の証言をおこなうなどということは、彼にはできるはずがなかった。もし偽証をしなければ今度は自分がラーマーナンダの激しい憎悪を買うことはわかっていたが、彼はラーマーナンダの頼みを突っぱねた。
 その結果、予想通りラーマーナンダは、今度はクディラムを相手にした虚偽の陳述書を法廷に持ち出して裁判に勝ち、クディラムの親譲りの財産をすべて奪い取ってしまった。こうしてクディラムはすべての財産を失ってしまい、村人たちは彼に深く同情したが、ラーマーナンダを恐れて、誰もあえて彼を助けようとはしなかった。
 しかしこの災難は、クディラムの「正しく生きよう」という思いに、少しも影響を与えなかった。そして彼はこの先祖伝来の村に、永遠に別れを告げたのである。

 カマルプクルのスクラール・ゴースワミーは、クディラムと同じような気質の、古い親友だった。彼はクディラムの不幸を聞いて深く心を動かされ、自分の屋敷内にある二、三の藁葺き小屋を開けて、そこに来ていつまでも住むようにと、クディラムを招いた。クディラムはこの招きを主の不可思議なお遊び(リーラー)と見て受け入れ、感謝の気持ちに満たされてカマルプクルに行き、そこに定住した。

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