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勉強会講話より「聖者の生涯 ナーロー」⑦(1)

20100616聖者の生涯ナーロー⑦

◎師と弟子の一対一の世界

 この「聖者の生涯」のシリーズは、どちらかというと分かりやすい話が多いわけですが、ナーローに関しては非常に高度すぎるっていうかな、一般的に非常に高度な話ですね。ちょっと読んだだけではよく分からない、非常に神秘的というかね、高度な聖者の話ですね。ですからわれわれは、一つは、論理的な解釈というよりはインスピレーション。これによってね、しっかりと示唆を受けるっていうのが一つと。
 それから、ストレートにナーローの生き様っていうのをわれわれが真似するのは非常に難しいけど――難しいっていうよりも、その意味を読み取るのが難しいけども――でもわれわれの中にも活用できる部分はもちろん少しはあるので、それをね、勉強会の一つのポイントとして学んでいったらいいと思います。
 最近また新しい人も結構いるので、もう一回簡単にだけここまでの大まかな流れをいうとね、ナーローっていう人は、もともとはインド一の仏教関係の大学者だったんだね。つまり当時インドでは――例えばナーランダーっていうのが有名だったんですけども、今ブッダガヤーの近くのラージギルっていうところにあるナーランダーっていうね、今も遺跡がありますけども。そこに大仏教寺院があったんですね。そのころっていうのはインド仏教の本当に最後の花盛りのころです。最後のっていうのは、もう少しするとイスラム教の攻撃その他の理由で、インドから仏教はなくなっちゃうんだけど、その前のもう花盛りのころですね。インドですごく仏教っていうものが――もちろんヒンドゥー教もあったけども――仏教自体もすごく元気で、ものすごく研究が進んで、多くの人が修行してた時代ですね。で、そのインド仏教界の最高峰ともいえるナーランダー大学っていうのがあったんだね。このナーランダー大学とかナーランダー寺院と呼ばれる寺院の最高の長、最高のリーダーとして、このナーローがいたんですね。
 しかしこのナーローのもとにあるとき、あるお婆さんがやってきたと。このお婆さんは実はただのお婆さんではなくて、ダーキニーといって修行者を助ける女神の仮の姿だったんだけど。このお婆さんがナーローに対してね、インド第一の学者であるナーローに対して、「お前は教えの文字面を理解してはいるけども、真の意味を理解していない」と言い放ったわけですね。
 普通だったら当然――まあ日本で言えばさ、東大の仏教学部の大教授みたいなポジションなわけだから、ある意味プライドもあるわけだね。みんなから称賛と名誉を与えられ、多くのもちろん生徒たちもいただろうし、地位と名誉、それから称賛の中にいたわけですね。で、それに対してみすぼらしいお婆さんが、「お前は真の意味を理解していない」と言ったわけですね。普通だったらただプライドが出て、「何言ってんだ」って感じで相手にしないと思うんだけども、ナーローはもともと智慧があったから、そのお婆さんがただ者ではないというのを見抜いたわけですね。
 で、そのお婆さんに対して謙虚に、「では誰がその真の意味を理解してるんですか?」と。「それはわたしの兄弟だ」ってそのお婆さんが答えたんだね。で、ナーローは、「どんなことがあってもその人に会わせてください」と。で、お婆さんは「自分で探せ」と。ね(笑)。そこでナーローはそのお婆さんの兄弟――これがナーローの師匠のティローだったわけですけども、そのティローを探すための旅に出るんですね。つまりナーランダー大学の学長という最大の――つまりインドのインテリ仏教の最大の地位を捨て、みんなが止めるのも聞かずに出て行ったと。
 あのね、この話は事実です。事実っていうのは、なんかこういうおとぎ話みたいな話はよくあるけども、ナーローはまだ一応史実の人なので、つまりいたかいなかったか分かんないようなそういうあやふやな人ではなくて、実際いろんなナーローが残した作品もあるし、一応は歴史上の人なので、この話も事実といわれています。つまり実際にナーランダーの最高の地位にいて、それを捨てて、密教行者であるティローを探しにいくんですね。で、それは他の聖者の話にもそのエピソードってよく出てきて――よく例えば、常識的なのを好む人から見ると、「あんなナーローなんて奴は大馬鹿者だ」と。「せっかくインド一の学者になったのに、それを捨ててね、ティローとかいう乞食行者のもとに弟子入りした」と。「大馬鹿者だ」とか他の人が言ってるシーンとかあるわけですけども、それは有名な話だったみたいですね。
 で、その大学を出て、ひたすらティロー探しに行くわけですね。で、ここからこのナーローの生涯における、ある意味最も重要な、そして最も分かりにくい、「十二の小さな試練」、そして「十二の大きな試練」っていう二つの試練が始まるわけですね。で、その最初の「十二の小さな試練」っていうのが、前にかなり何週かに分けてやった、ティローを探し出すまでの試練です。つまりティローは、実はしょっちゅうナーローの前に現われる――というよりも、ずっとナーローのそばにいるんです、実はね。でもナーローはまだ心のけがれが若干残っていたために、そばにいるティローを見抜くことができなかった。
 いつも言うように、このナーローの生涯の話は非常に難しいので、一つ一つ細かく一から十まで言っていたら時間がいくらあっても足りないので、大雑把に言いますけども、これにおけるポイントっていうのは――いいですか?――われわれはある意味では全員、まあここはヨーガ教室なので、神という言葉使ってもいいわけだけど、あるいはもちろん仏陀という言葉を使ってもいいわけですけども、バクティヨーガではクリシュナという言葉を使ってもいいわけだけども――その至高なる神、あるいは仏陀と一対一の関係によって、常に導かれてるんだね。で、その仲介役みたいのを果たしてるのがグルなんだね。つまり師匠であると。
 で、これは皆さんが理解できるかどうかは別にしてストレートに言いますよ――弟子が本当に縁がある、もちろん本当に正当な祝福を受けている師匠ね。正当な祝福を受けてる聖者であって、かつその弟子と縁がある師匠に巡り会い、で、その師に心を向けたり、師とそういった師弟関係を結び始めた段階で、何が起きるかっていうと――いいですか?――表面的にはっていうかな、表面でもないんだけど、まず分かりやすく言うと、そのグルによる、つまり師匠による大いなる仕掛けが始まります。その大いなる仕掛けっていうのは、まさにこのナーローがティローを探しだすときの話がいい例なんですけども、つまりこの世はその弟子と師匠の一対一の世界になってしまうんだね。一対一の世界っていうのはつまり――まさにアツアツの――アツアツって最近言わないか(笑)。

(一同笑)

 アツアツの恋人同士みたいなね(笑)、雰囲気。つまり、この世界にはわたしとあなたの二人だけの世界ですよと。まさにそういう世界になります。
 わたしとあなただけ。意味分かりますか? つまり弟子がいますね? 弟子はまあ「わたし」ですよね? わたしっていう感覚がある。弟子が見てる世界はすべてグルであると。すべて自分の師匠であると。つまり自分の師匠の仕掛けた世界として世界が展開するんですね。

◎すべてが神やグルの仕掛け

 で、もう一つ重要なこと言うと、じゃあそれは――ここはちょっと難しいところなんだけど――その師匠が意識的にやってるのかどうかっていう問題があるんです。つまりどういう意味かっていうと、例えばわたしが師匠だとして、まあ例えば弟子がいてね、例えばM君がいるとして、わたしがね、「あ、M君っていう弟子が今度弟子入りしてきた」と。「じゃあこいつを成長させるために、世界を変えてやれ!」――みたいな感じで、「じゃあ、次はこういった幻を送り込もう!」とか、わたしがやるわけではないんです、実は。ストレートに言うと、やってるのは神なんです。まあもしくは仏陀なんだね。つまり師というその仲介人を通じて、実は弟子はその裏にいる――つまりそれは別の言い方をすると、そのグルが、師匠がね、神とかあるいは仏陀とつながってるっていう意味なわけだけども。その仏陀や神とつながった師匠とその弟子がつながることによって、その弟子と神、あるいは弟子と仏陀との、そのようなゲームが始まるんだね。ゲームっていうのは、弟子を成長させるゲームが始まります。
 そういう意味では師匠っていうのは、その仲介というよりも、神のダミーに過ぎないと言ったらいいかもしれないね。つまりまだ神は弟子の前に現われられないんです。あるいは仏陀っていうのは現われられないんです。つまり弟子の能力に限界があるから。あるいは弟子のカルマにまだ限界があるから。よって、「しょうがないからお前行って来い」って感じで(笑)、師匠が送り込まれるんだね、変な言い方するとね。しょうがないから――師匠は例えば肉体を持ってるから、師匠がやってるような感じで実際はやるわけだけど。でも実際は本当のこと言うと、弟子と神とのゲームなんだね。
 これはわたしもよく言うけども、わたしよくさ、例えばこのカイラスでもそうだけど、カイラスじゃないところでね、前、いろんなとこでヨーガ教えたり講演とかしたりしたときに、よくこういうこと言われることがあるんですね。「いや、先生はすごい」と。何がすごいかって言うと「まさに人の心を読む力がありますね」と。それはちょうど今日自分が悩んでいたとこをズバっと言われたとか、あるいはちょうど聞こうと思ってたことを話してもらったとか、あるいはちょうど自分が気づかなかったけがれを今日の話で認識させられたとか、「まさにもうドンピシャでした」と。「ジャストミートでした」と(笑)。

(一同笑)

 ジャストミートって言わないか(笑)。

(一同笑)

「もう本当に先生は偉大な神通力を使ってわれわれを救ってくださる」とか、よく言われることがあるんだけど、わたしの本当のことを明かすとね、適当にしゃべってます(笑)。別に――ピピピピピッ、「ん? Tさん、今これで悩んでるな? よし、じゃあ今日この話をしなきゃいかん」――とかは考えないね。わたしが勉強会のときに考えることは、ただ一つ。「さあ、今日はどういう話をしたらみんなの利益になるかな?」ってことではなくて、「ああ、神よ!」と(笑)。

(一同笑)

 つまり、わたしの意識をできるだけ広大なる、深遠なる、唯一なるものにつなげなきゃいけないと。で、それでただ話すと(笑)。こういう感じなんだね。よって、ここで問題なのは――じゃあそこでね、例えば仮にね、Tさんがいて、ズバっとTさんのもし悩みを解決したり、あるいは何かを変えてくれるようなことをわたしが言ったとしたら、これはつまり本当のこと言うと、わたしが何かすごいわけではなくて、Tさんとその神のつながりを意味してるんですね。そういう意味で師匠っていうのは、そういう意味でいうと、偉大なる神のただの道具に過ぎない。つまりただの表面的な道具として演じているわけですね。こういう関係性があるんだね。
 まあ、ちょっと話を戻すけども、そういうベースの話があって、で、このナーローの場合もティローを探すっていう一つの――もうこの段階ではっきり言って師弟関係に入ってるんです。まだ会ってないんだけど、ティローっていう存在を認識し、「さあ、彼こそがわたしの師である」と。「さあ、わたしは彼を探さねばならん」と、その旅に出始めた段階で、もう神とナーローのゲーム、あるいはその神の仲介人であるティローとナーローのゲームが始まってるんだね。で、それはナーローの側から言うならば、この世界はただグルでしかないと。あるいは神でしかないと。まあ本当のこというと神でしかないでいいんだけど、でもナーローが認識できる範囲としては、グルでしかないという感じなんだね。しかし、それになかなか気づけないっていうかな。すべてはグルが現わした、あるいは神が現わした幻に過ぎないんだけども、なかなかそれに気づけない。
 これはね、すごい神秘的な感じに感じ取れるかもしれないけど、いつも言うけどさ、実際は皆さんが現実的に、日々課題として修行していかなきゃいけない、修行できることなんだね。つまりどういうことかっていうと、この一つのやり方のパターンしては、まあ神でもグルでも好きなやり方でいいけども、「すべてわたしの前に現われるものっていうのはグルである」と。あるいは「神である」と考えるんだね。つまりどういうことかって言うと、「自分を成長させるために、わたしのグルが、あるいは神が、いろんな変装をしてわたしの前に現われてきてくださっているんだ」と。 例えばすごく嫌な人が現われてね、自分が嫌悪が出てしまうような人がパッて現われたら、当然それは慈愛の訓練をさせるために、嫌悪がいかに苦しみであるかっていうことを教えるためにそういう人物を――差し向けるっていうよりは、神やグルがそういう人物に変装してるんです(笑)。変装してやって来て、いじめるわけですね、例えばね。あるいは例えば執着してしまいそうな存在を差し向けるとかね。あるいはいろんな巧妙な手段を使って、隠れてるけがれを浮き出させるとかね。全部実は神であり、グルなんだと。このベーシックな発想。
 これは前も言ったけどさ、例えばこういう勉強会でこういうこと学んだりとかね、あるいは本を読んだりすると、われわれは一瞬はね、その教えを理解できるんだね。「あ、そうだ」と。「この世の現われはすべて神とグルである」と。つまり「この世界っていうのは、自分と神の一対一の関係でしかない」と。「自分以外はみんな神でしかないんだ」と。あるいは「グルでしかないんだ」っていうのを頭では理解するんだけど、すぐ忘れるんだね。すぐ忘れるっていうのは、つまりあまり自分の感情が動いてないときっていうのは忘れないんだけど、自分の感情が動かされる出来事とかに出会うと、もうすっ飛びます。全部グルだっていうのがすっ飛んで、もう目の前の出来事とかトラブルに心が縛り付けられてね、で、それに本当に嫌悪したり、心配したり、恐怖したり、もういろいろ始まるわけだね。ワーッてなって、散々苦しんで、もう打ちのめされた後に、その教えを例えば思い出したりするんだね(笑)。で、反省するわけだけど。「ああ、そうだ。わたしはすべてを神だと、あるいはすべてをグルだと見なきゃいけないはずだったのに、また嫌悪してしまった」とか、「また心を動かしてしまった」とかね。こうやって反省するわけだけど。
 で、ナーローも同じように、いろんなことがあって大失敗して、でも「いや、今度こそ、何があってもグルだと気づかなきゃいけない」と、こう決心して旅立つんだけど、すぐ失敗するんだね。それはわれわれから見てるとさ、「おい! ナーロー!」(笑)「それグルだぞ、それグルだぞ! 何また引っかかってるの?」――みたいな感じがするけども、実際はもう非常に巧妙なわけだね。そんな分かりやすくくるわけじゃないから。バーンって、「さあ、これはどっちでしょう?」って来るわけじゃないから(笑)。生活の隙間隙間にこうはまってくるような感じでくるんだね。
 分かりやすかったら分かりやすいでしょ? いかにも課題みたいな存在が現われて、「あ、これはわたしにとっての課題だな」って分かるかもしれない。じゃなくて、本当に分かりづらい感じでジワジワきたりとか、あるいは本当に自分が教えとかが浮かばないほど心を揺らされるような出来事が起きたりとかして、失敗させられるんだね。
 だからさっきも言ったけども、この今の点に関してだけ言うとね、このナーローの話っていうのは、われわれからいうとレベルが高過ぎて全く参考にならない話ではあるんだが、ちょっとミニマムな形で、われわれがこの部分を参考にするとするならば、今言ったようなことなんだね。つまりナーローほどの、まだ非常にラジカルな、あるいは直接的ないろんな試練とかはこないけども、でも小さな意味でいうならば、もう二十四時間われわれの周りに起こってるすべてが、実は神やグルからのわれわれに対する仕掛けであってね、で、われわれは、すべてはどんな存在が現われても、どんな出来事が起きても、すべては神であり、すべてはグルであるという意識を忘れちゃいけないんだっていうことですね。
 ただまあこの考えっていうのは、まさに密教的な見方です。だからヨーガにしろ仏教にしろやり方はいろいろあるので、だから密教的なものを好む人はこういうふうに世界を見たらいいと思うね。

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