yoga school kailas

真髄は一つ

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より 抜粋

バガヴァッド・ギーター 勉強会 第一回
「第2章」

2006・12

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

◎真髄は一つ

【本文】
『感覚の対象を見、また思うことで、人はそれに対する愛着心が芽生え、またその愛着心によって欲望がおこり、欲望が遂げられないと怒りが生じてくる。

 その怒りによって迷妄が生じ、迷妄によって記憶が混乱し、記憶の混乱によって知性が失われ、知性が失われると、人はまたもや低い物質次元へと堕ちてしまう。』

(松川)はい。ここは非常に面白いですね。これはこれだけ見ると、ちょっとこんがらがってくる感じがしますが、これは仏教の十二縁起の法と完全に同じです。言っていることは。
 十二縁起の法をもう一回ちょっと言うと、まず無明によって行が生じますと。この行っていうのはね、記憶・経験の残存印象みたいなものなんだけど。
 つまり無明、迷妄なるが故に過去の記憶みたいなものに翻弄され、次、識――識別、固定的な観念、識別が固まり、それによって名色、つまり自分っていう観念が強まって、で六処、触――六処、触、受っていうのは、実際にわれわれが感覚的経験をしているということ。
 それで愛、つまり渇愛とその裏側の嫌悪が生じますよと。
 で、それによってそれが完全にとらわれてしまい、とらわれによってわれわれはこの現実世界に結び付けられ、この現実世界で様々な苦しみを味わうと。
 これが十二縁起なんだけど、今上からばーっと言っただけなんだけど、実際この十二縁起っていうのはね、これでこれでこれっていうよりは、これでぐっと一に戻ったりするんだね。これは、今の説明でいうとね、「感覚の対象を見、また思うことで、人はそれに対する愛着心が芽生え、またその愛着心によって欲望がおこり、欲望が遂げられないと怒りが生じてくる。」――これはちょうど十二縁起でいうと、われわれが対象と接して、接してきたその喜びに対して渇愛を持ち、とらわれると。あるいはその、とらわれがあるんだけど、それが遂げられないときに、苦しみを感じたり怒りを感じたりするプロセスだね。そこで、われわれが対象に対して喜びや怒りを持つことによって、迷妄が生じると。迷妄によって記憶が混乱すると。一に戻ってるんです。
 われわれがこの世でいろいろな欲望を経験することによって、無明が強まるんです。無明が強まることによって記憶が混乱すると書いてあるけども、つまり、われわれの経験の残存印象みたなものが混乱するんです。混乱するってどういうことかっていうと――つまりわれわれはね、コンピューターにしろそうだけど、情報を意のままに使えていれば問題ないんです。例えば、私は智慧を悟っていますと、しかし私は今日こういう経験をしましたと。それをぐーっと分析して、人間とはこのようなものであると。これはこうこうこうでこうだと。これは問題ないんです。でもそこに、あまりにも無智が強くなって、経験が増えてくると、経験に巻き込まれるんです。で、混乱するんだね。つまり自分が経験を使っているというよりは、自分が経験に翻弄されるような状態。
 そして、記憶の混乱によって、知性が失われる。知性が失われるイコール、固定的識別が確定されるってことです。つまり経験の混乱から来る、経験に引きずられた状態から「これはこうでしかない。」っていう確定が生じる。イコールこれは智慧がなくなるってことです。
 智慧っていうのは、固定的識別がまったくない状態なんです。つまり「これはこうだ」っていうのがないから、リアルにありのままにその本質を見抜ける――これは智慧です。でも記憶が混乱して、「こうだ」っていうのが強すぎるから、ミスを犯す。
 つまり例えば、N君にK君がいっぱい意地悪されたとして、「もうNは嫌なやつだ」っていう固定が生じてしまうと、N君がものすごい悟りの言葉を言ったときに、それを受け入れられなくなる。「ああ、またあんな変なこと言って」と。でも本当はそれは、K君を目覚めさせる素晴らしい言葉だったかもしれない。そこでだから、ミスが生じる。あらゆることにおいてわれわれは、過去の経験をもとに生きちゃっているんです。過去の経験をもとに、固定的な観念を作っちゃってる。イコール智慧がなくなってるんです。
 はい、そして「知性が失われると、人はまたもや低い物質次元へと堕ちてしまう。」つまりこの繰り返し。経験によって知性が失われ、観念が強まり、よってまたその観念によって経験するんだね。観念によって「よし俺は、こういうのは好きだ、嫌いだ」といって人生を経験して、またその経験によってまた観念が強まる。で、どんどんどんどんわれわれはこの粗雑な物質次元に結び付けられていくんです。だからまさに十二縁起なんです。だから結局、ヨーガも仏教も真髄は同じなんだね。

◎十二縁起の暴走を止める

 はい、ここまで何か質問はありますか?

(K)先生、あの、心の本質に集中する瞑想とか、そういう思索の瞑想っていうとき、先生が言った、心の仕組みとかそういう言葉が出てきたと思うんですけど……それをこういう十二縁起のプロセスっていうのを繰り返すっていう……

(松川)それは一つだよ。だから十二縁起の瞑想ってあるんですよ。十二縁起のプロセスを頭に入れといて、自分に何かが生じたときに、それに基づいて観察して考えるんです。
 例えば、何か今こうしたいなって思ったときに、これはどこから来てるのかなと。それは昨日こうしたからだ、とかね。例えばね、例を挙げると、昨日ね、昨晩のことなんだけど、昨晩、私、夜晩ごはん何食べようかなと思ってスーパーに行って歩いてたら、何か何でもよかった。特に食いたいものがなくて。あと別に、これを食うべきだとかいう思いもなかったから、ぷらぷらと歩いてたら、なぜかね、ピザの前でピザが食べたくなって。無条件でそのままだとピザを買ってしまいそうだった。別に俺は洋風のものとか好きじゃないと――まあ、子供ころはピザ好きだったけど。「え? なんでピザなのかな」ってちょっと考えてみた。それはTさんがピザとか好きだから、それなのかもしれない。そんな話を、会話をしてるうちに、情報が入っていたのかもしれない。あるいはそうじゃなくて、小さい頃にピザ好きだったから、ちょっと何かの拍子でね、それがこうよみがえってきたのかもしれない。まあ、それはちょっとその時は、それ以上は別にそんなに思索しなかったけど。そうやって瞑想するときに、そういう一つ一つのことを題材にして、分析していく。で、これは何のメリットがあるかっていうと、その十二縁起の勝手な暴走を止めるっていうか――つまり、勝手に暴走してるんです。十二縁起の法っていうのは。われわれは放っておいてるから、経験するたびに渇愛をして、それが経験となって結び付けられて。
 例えばさ、すごく分かりやすい例で言うと、生まれて初めてね、何かを食べたとするよ。例えば何でもいいけど、何かK君、生まれて初めて食ったものある?

(K)Cさんちで食べた、黄色い……

(松川)ピータン?

(K)きんかん、きんかん。

(松川)あ、きんかんか(笑)。

(T)でもあれは取著が生じてないです……(笑)

(松川)(笑)。じゃあ、ちょっと私の例で言うと、私ね、大人になるまでウニって食ったことなかったんです。私、食わず嫌いが多くて。今もあまりウニって食わないんだけど、初めて食ったときに、理解不能だったんです。別にうまいとも思わないし、まずいとも思わないし、何だこりゃって感じだった。まあ、それはそれでいいんだけど。
 例えば、次に食ったときにおいしかったとしますよ。「あれ? ウニってなんか結構おいしいな」と。これが十二縁起でいうと、渇愛のところですね。つまり、ウニの感覚が渇愛に変わったんです。でもこの段階ではね、うまいと思う。でもその程度なんです。次に機会があればまた食うかもな――なんだけど、ここで放っておいちゃいけないんです。さあ、うまいという渇愛が生じたが、それは本当だろうかと。ちょっと気をつけたほうがいいと。それは、味覚ってすべて幻影だから――たとえば私イクラが好きなんで、イクラに対して幻影が固まっちゃってるから、ちょっとイクラに似たウニの感覚を錯覚して、これはうまいと思ってるのかもしれないと。あるいは情報によってね、みんながウニは高級でおいしいおいしいっていうから、それによって騙されてるのかもしれないぞと。そういう分析をするんです。そうするとあまり根付かない。
 でも放っておくと、何回か食ってるうちに、渇愛がインプットされて識別がだんだん固まってくる。ウニを見るたびに、例えば次にウニを見たときに、「あ、うまそう!」――あ、これはもう識別になってしまった、という段階なんです。ただ渇愛だったのが、それをもとに記憶が混乱して、固定的識別――だってその前までは、ウニを見てもなんとも思わない。食いたいとも思わないし、嫌だとも思わない。食ったことないから。ああ、ウニだなと、っていう感じだったんだけど、もしそれがおいしいっていうのが何回か続いたら、見るたびに「うまそー」と。Cさんみたいに「うまそー」(笑)っていうふうになってしまうかもしれない。これはもう、つまり「ウニ=うまい」っていう固定的識別ができちゃってる。
 これを何度か繰り返してると、ウニはうまいものだと。食いました。本当にうまいと。ウニはうまいものだと。はい、食いました。本当にうまいと。これはどんどんどんどん識別が固まっていって、で、渇愛から取著っていうんだけど――とらわれに変わるんです。渇愛ととらわれの違いは、渇愛はその瞬間うまいと。でもなくてもいいかと。とらわれは、ないと生きていけないってことだね。
 これは恋愛とかもそうだね。恋愛で最初「ああ、あの人いいな」って思ってて、いろんな場面があるたびに、どんどんその相手に対する迷妄が増していって、ここで記憶の混乱が起きる。「あ、あのときああいういいことがあった。こういういいこともあった。」――客観的に見るとね、でもその倍ぐらい悪いことあっただろって言いたくなるんだけど、本人は記憶が混乱してるから(笑)、いいことによって完全に識別の方向性が決まってくる。「私にとってあの人はもう、本当に最愛の人だ。」と。「私はあの人以外に考えられない。」という固定がガチガチになってきて、そのガチガチがある程度超えた段階でとらわれになるんです。前までは、「ああ、あの人いいな」と。「こういうふうにおしゃべりできたらいいな」だったのが、「もうあの人以外の人生はありえない」と、とらわれになるんだね。よって現象界にガッと結び付けられる。
 だからそれも前の段階で分析して、消していかなきゃいけない。今私は彼に渇愛を感じているが、これは正しい分析だろうかと。こういうことやると、恋愛も何も味気なくなっちゃうんだけど(笑)。いや、彼の顔、よーくみるとこんな感じだぞ、とかね。優しいというけど、それは私が欲求が強すぎてそう見えるだけで、客観的にみたらあれはただの適当に言っただけかもしれないな、とか。いろいろそういう分析をするんだね。それによって、その渇愛の正体を暴いたりとか、あるいは渇愛が変な識別に変わらないようにする。これは十二縁起の一つの瞑想法ではあるね。
 だからそれは、心の仕組みを理解するっていうよりは、観察するってよりは、十二縁起っていう一つのセオリーがあって、それに則ってやっていけばいいから楽な感じだけどね。
 もうちょっとそうじゃなくて、ストレートに観察する瞑想もあるんですよ。別にそういうセオリーがなくて、ずーっと観察してると、本当に心のいろんな仕組みが分かってきたりする。まあ、結局は十二縁起と似たような感じなんだけど。
 だから、自分の心を日々観察するっていうのは、そういう意味では二つのレベルがあるんだね。これはいろんなところにも書いてるけども、一つは今言った――これはどっちかっていうと、浅いレベルの話、普通よりは深いけどね。普通の思考よりは深いけども、浅い――つまり、さあこの心の仕組みはどうなってるのかなっていう観察。
 もう一つの深い観察っていうのが、このバガヴァッド・ギーターとか、あるいはゾクチェンとかマハームドラーでいうような、心の本性の観察。ちょっとこうレベルが違うっていうか。でも心の本性の観察ってなかなか難しいので、そもそも心の本性に到達するために、このもうちょっと浅い心の仕組みの観察をしなきゃいけない。私はいつもどういう感じで、苦しみを感じるのだろうかと。なぜ私のこのとらわれは生じたんだろうかと。どういうふうにしていかなきゃいけないんだろうかっていうのを、常に観察して分析し続ける。

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