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◎三輪無分別智

【本文】
『供養者としてのブラフマンが、供物としてのブラフマンを、
火としてのブラフマンの中に注ぎいれる。こうした意識をもって供養する人は、必ずやブラフマンと一体となる。 』

 はい。これも素晴らしいところですね。これはね、仏教でも同じことを言っています。仏教ではこの教えのことを「三輪無分別智」といいますが、この三輪というのは、まさにこの供養を土台としてね、供養する人、それから供養の相手、そして供物あるいは供養の行為といってもいいけど――これはすべて同じであると。これはどういうことかっていうと、ここではブラフマンっていう言い方をされていますが、まあ、クリシュナという言い方をした方が分かりやすいかもしれないので、クリシュナという言い方をしますよ。
 クリシュナ様、私は私の食べ物をクリシュナ様に供養しましょうと。これは分かりやすい。私はクリシュナ様を信じてますから、この宇宙の絶対なる存在者クリシュナに、この食べ物を供養しましょうと。さて、クリシュナとはどこにいるのかと。あの雲の上にいるのかなと。これは、ある意味低級な信仰なんです。いや、クリシュナは絶対者ということは、この宇宙すべてがクリシュナだと。ね。私の供養の対象は、この宇宙すべてに広がっていると。――ということは、供養する私もクリシュナだと(笑)。ね。供物もクリシュナじゃないかと(笑)。ね。そしてこの現象、つまり物質だけじゃなくて、この供養するっていう行ないもクリシュナだと。ああ、すべてはクリシュナであったと。
 このような絶対的な境地にいながら、相対的な供養を行なうんです。これが三輪無分別智とかいうんだけど。これはね、相当な高い段階の境地だね。でもそれは、みなさんも頭で直感的には理解できるかもしれない。言っていることがね。みなさんも日々――私もよくそういうことを考えたりやったりする。日々例えば、仏陀でも神でもいいんだけど、この宇宙っていうのはすべて、完全なる仏陀への供物だと。でも宇宙そのものが仏陀でもあると。ね。その行為自体も、供養という、捧げるという行為自体も仏陀だと。こういう意識を持ちつつ生きるんです。そうすると、儀式的な単純な供養も大事なんだけど、じゃなくて、人生のすべてが供養になっちゃうんだね。あるいは人生のすべてが、非常に清浄なものになる――その意識を持ち続けられればね。
 まあ、難しく考えなくてもいいんだけどね、最初の段階は。私とかMさんとかもよくやるけど、例えば町を歩いてて、「ああ、夕日がきれいだな」と。「供養!」と、こうやるわけだね(笑)。こんなんでいいんです、最初は。「供養!」「これ全部供養!」と(笑)。ここに誰がいるとか、そんなんじゃなくていいんです。もう全部供養の対象であって、全部供物なんです。「供養!」と。何でも供養なんです。石ころがあったら、「あれも供養!」と(笑)。「供養! すべて供養!」と。これはまだ完全ではないけども、大分普通の意識よりは完全な供養に近づいてる。

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