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歪められたインドの歴史

 ヒンドゥー教の代表的な聖典の一つである「バーガヴァタ・プラーナ」の日本語訳が星雲社から出版されていますが、その付録として訳者である美莉亜さんが「歪められた歴史」という興味深い小文を載せています。
 これと同様の主張・仮説は他の人の文章でも読んだことがありますが、この美莉亜さんの文章は説得力のある形でまとまっており、ヒンドゥー教や仏教、あるいはインドの歴史に興味のある人にとっては興味深い内容になっています。
 ただしこの本がけっこう高価であり、あまり書店等にも置いていないものなので、要点だけ軽く要約してみました(といっても結局長くなってしまいましたが笑)。興味のある方はお読みください。また全文を読みたい方は「バーガヴァタ・プラーナ 下巻」(星雲社)を参照してください。

◎はじめに

・「インド人は歴史を記録する習慣を持たなかった」「それゆえ過去の歴史資料にも、正確な年代を示すものはほとんどない」とよくいわれるが、本当だろうか? ゼロを発見した国であり、世界に冠たる天文学の知識を持っているインドが? また、そもそも自国の歴史を残さない国などがあるだろうか?

・以下に述べることは、一つの説として読んでいただきたい。同時にこれは一部のインド人により以前から言われてきたことであり、また近年の研究により、アーリア人侵略という説に疑問が呈されていることから、十分に考慮に値する説ではないかと思われる。

・【バーガヴァタ・プラーナ】に記載される王や年代の記述と、現代の歴史書の記述を照らし合わせると、年代において矛盾が生じる。それはインド人の無頓着さを示すものだとも考えられるが、しかしそのようなことに無頓着な人々が、歴代の王の名前と年代をこれだけ細かく記すだろうか?

◎シャンカラの誕生念に関する問題

・インド宗教界の最大の巨人のひとりであるシャンカラは、現代の定説ではAD700年ごろに生まれたとされているが、シャンカラが創設したいくつかの僧院には、歴代の僧主の名前と在任期間が明確に記されている。それらの逆算によると、シャンカラの誕生年はBC509年ということになる。しかしそうなるとシャンカラはお釈迦様と同時代の人ということになり、矛盾が生じる。なぜならシャンカラはインド全体で興隆を極めていた仏教に異を唱えたのだが、仏教はその発生当時は、北インドの一部の人にしか知られていない小さな宗教だったから。(付け加えると、シャンカラの師は大乗仏教の影響を受けていた人とされているので、この点でも矛盾が生じる。)
 この矛盾を解決する仮説として――お釈迦様(ガウタマ・シッダールタ)は、本当はBC6世紀ごろのひとではなく、もっと過去に登場した方なのではないだろうか?

◎東インド会社

・18世紀、東インド会社はインドを実質統治するようになるが、財政の悪化等によりイギリス政府が介入することとなり、ベンガル、マドラス、ボンベイの三か所にあった貿易の拠点をベンガルで一括管理することとなり、1774年、初代ベンガル総督としてウォレン・ヘイスティングスが着任。そして1783年に、上級裁判所判事としてウィリアム・ジョーンズが赴任してきた。
 高名な言語学者であり、キリスト教徒でもあったウィリアム・ジョーンズは、インドを訪れたとき、インド人の生活が古代の聖典ヴェーダにのっとって成立しており、さらにサンスクリット語が大いなる権威を持っていて、国民に尊ばれているのを知った。またこの地方では、ガウディヤ・ヴァイシュナヴァと呼ばれる、チャイタニヤから始まるヒンドゥーの宗派が浸透しており、そしてその教えが、キリスト教と似通った、クリシュナと呼ばれる神への愛の道であり、それがキリスト教よりも以前から続いており、人々が熱心に信仰しているのを知った。
 さらにこの地方では「クリシュナ」と発音するとき、それはキリスト(クライスト)とほぼ同じに聞こえるのである。
 またBC3000年ごろにマハーバーラタ戦争があったと聞いて、彼は非常に驚いたに違いない。なぜなら当時のヨーロッパ社会は純粋にキリスト教を信じており、そしてそんな彼らの理解では、天地創造はBC4000年ごろにあったことであり、ノアの大洪水はBC3000年ごろ、さらに中近東で民族移動が始まったのはBC2000年ごろとされていたからだ。

◎ウィリアム・ジョーンズの行動

・ウィリアム・ジョーンズは、このようなインド人を抵抗なく従属させて、イギリスへの反乱の芽を摘み取るためには、彼らの生活の根本であるヴェーダへの信頼を失わせて、クリシュナへの信仰をくじかせることが最も重要と考えたのではないだろうか?
 1784年、彼は『アジア協会』を設立した。この会の表向きの主旨はインドの文化をよく理解しようとするもので、サンスクリット文献などを研究していたが、その真の意図はどこにあったのだろうか?
 歴史上、一つの国が他の国を支配する場合、ないしは新しい王が君臨したときなどは、過去の遺物を葬り去ろうとするものである。秦の始皇帝の焚書、ローマ軍によるアレキサンドリア図書館の放火、イスラム教徒によるナーランダー仏教大学図書館の破壊、中国人民解放軍によるチベット僧院書庫の破壊、ナチスによる図書の破壊など、支配者は被支配者の思想を破壊するためにあらゆる手段をとる。しかしイギリスが奸知に長けていたのは、彼らは暴力ではなく知力によってそれを徐々に成し遂げたところにある。
 ウィリアム・ジョーンズは、ウォレン・ヘイスティングスに次のように進言している。
「インド人に我々の信仰(キリスト教)を浸透させるには、今のところ多大な困難が存在しています。彼らはローマや他の教会のいかなる宣教師によっても改宗させることは不可能でしょう。彼らの心境に革命を起こさせるには、イザヤなどの預言書の一部に簡単な説明を付属させて、それとともに、キリストの生涯を預言したものをサンスクリット語で作成し、それらを太古から存在したように装って、知識人の間にこっそりと広めることが、最も効果的と思われます。」

◎インド・ヨーロッパ語族の発見?

・ウィリアム・ジョーンズはその後、ギリシャ神話やローマ神話の神々とヒンドゥー教の神々との間の共通性を指摘して、これらの神話を擁した人々は、遠い過去に同じ場所から各地に移住したものと考えた。さらに彼は、サンスクリット語と西欧諸語との間の共通性を見出して、サンスクリット語とラテン語、そしてギリシャ語が、今はこの世に存在しない共通の言語から派生したものだと発表した。これがいわゆるインド・ヨーロッパ語族の発見とされる。そしてそれ以降、比較言語学という学問が成立して、系統樹に相当する言語が研究されていくことになった。
 彼がこの理論を発表した本意はどこにあったのか? 確かに言語学者として、それらの共通点に純粋に目を開かされたのかもしれない。しかし後に述べる、それまでの東インド会社の行動、およびこれ以降の彼の行動を見ると、インド人の精神的根拠となるサンスクリット語を貶めんという心理が、彼の心に働いていたのではないかと思われてならない。
 そして1793年、彼は、「プラーナ聖典に記されるマウリア朝のチャンドラグプタは、メガステネースが【インド誌】の中で伝えているサンドロコットスと同じ人物だと判明した」と発表した。

・しかしメガステネースが「インド誌」の中で書いているのは、「自分はセレウコスによってインドのサンドロコットス王の宮廷に派遣された」ということだけで、「マウリヤ朝のサンドロコットス」とは一言も述べていない。
 さらにこの書物の内容についても、「金を掘り出す蟻の話」や「大きな自分の耳の中で眠る男の話」などの奇抜な話が多かったため、信用に値しないという評価も多くあった。しかし当時インドに関する資料がほとんどなかったため、西欧の歴史学者の間では、彼の「インド誌」は珍重されていたらしい。

◎サンドロコットスとは誰なのか?

・「バーガヴァタ・プラーナ」から導き出されるマウリヤ族の初代の王チャンドラグプタの戴冠は、BC1541年ごろであるが、ウィリアム・ジョーンズは、それをアレクサンドロス王とほぼと同時期のBC302年ごろだと主張したのである。
 このジョーンズが述べた仮説が、その後当然の前提とみなされてしまったために、インドの歴史から、その両者の間の1200年が消滅させられてしまったもののようになってしまった。
 
・グプタ朝とは、古代インドでマガダを支配した王国の名前だが、その成立年代は、現代の定説ではAD320から550年ごろとされている。しかしグプタ朝の年代を特定する文献は現在存在しておらず、それらの定説は、グプタ朝はマウリヤ朝の後に現れた王朝だということと、遺物等から推測されたものにすぎない。つまり実際には誰も正確にその年代を特定できてはいないのだ。
 しかし実はグプタ朝の記録は、「バヴィシャ・プラーナ」の中の「カリユガ・ラジヴリッタ」に残されている。それによると、グプタ朝とはBC328年に成立したマガダの王朝で、その初代のグプタ族の王は、マウリヤ族の初代の王と同じチャンドラグプタという名で、さらに彼の息子はサムドラグプタと呼ばれて、BC321年に父の後を次いで王となり、BC270年まで統治している。
 サンドロコットスというギリシャ語は、チャンドラグプタよりもむしろサムドラグプタに近いと言えないだろうか? そしてメガステネースの記述したBC302年という年代も、サムドラグプタ王の統治した期間にちょうど合致する。つまりサンドロコットスとはグプタ朝のサムドラグプタのことではないのか?
 この意見は、実はインド人の一部から、以前より持ち上がっていた問題であった。

◎その後のアジア協会の活動について

・しかしその後、ウィリアム・ジョーンズが唱えた「サンドロコットス=マウリア朝のチャンドラグプタ」という説は当然の事実とみなされて、他のすべての年代がそれを基準に定められていった。これによって、イギリス側としては、インドの歴史がそれほど古いものではないとインド人に思わせることで、インド人から優越感を取り除くことができたかもしれない。そして太古のものとされたヴェーダの絶対性を貶めて、聖典への信頼を失わせ、クリシュナやラーマは実在していない伝説の存在だと思わせることに成功したかもしれない。
 
・東インド会社とアジア協会は、その発足当時から、支配者としての権威を用いて、インド全土から、集められる限りのサンスクリット写本を収集していった。それらの中には、マガダ(ビハール)、ハスティナープラ、ウッジャイン、ネパール、カシミール、アッサム、ラジャスタンなどの王国の歴史を記した書物もあった。つまり東インド会社が中心となって、インドの歴史資料をすべて収集して、それを処分してしまったのだ。そしてインド国民に「インド人は昔から歴史を正確に記す習慣がなかった」という教育をしていき、庶民はそれを信じて、同じように繰り返しているだけなのだ。

・その後、東インド会社は、1835年に植民地教育官僚としてやってきたT.B.マコーリの発言によると、「血と肌の色はインド人でありながら、好みと思考、道徳、知性の面ではイギリス人」を作ることを目標に、インド人に英語教育を受けさせ、イギリス式の教育を受けた者だけが要職につけるような制度を作り、知識階級の目を伝統的ヒンドゥー教から背けさせることに成功した。その結果、西欧の思想に染まった人々が要職を占めるようになり、そんな彼らが国民にその思想を浸透させていった。

◎マックス・ミューラー
 
・マコーリは、1848年、ドイツ生まれの言語学者マックス・ミューラーに面会して、インド人がヒンドゥー教への信頼を失うようなかたちでリグ・ヴェーダの翻訳をおこなうことを依頼した。そしてその報酬として、東インド会社は彼に10万ルピーを提供する用意があることを説明し、原稿一枚につき4ポンドを支払う契約を結んだ。当時のイギリスの教師の給与が年に90ポンド程度だったことを考えると、それがどれだけ高額だったかがわかる。そしてマックス・ミューラーはその趣旨に従って1875年までにリグ・ヴェーダを翻訳し、発行した。
 マックス・ミューラーは比較言語学、比較宗教学の第一人者であり、ヴェーダの翻訳などによってインド学に貢献した学者とされているが、ほとんどの人は彼の実際の仕事の内容について理解していなかった。彼自身は一度もインドの土を踏んだことがなく、イギリス本土にとどまりながら、東インド会社が用意したインド人学僧からサンスクリット語を学んで訳したに過ぎなかった。
 彼は1867年12月、妻に次のような手紙を書き送っている。
「私自身、それを見るまで生きていないだろうが、私の翻訳したこれらのヴェーダは、インドという国の、今後の運命、そしてこの国に生まれるであろう何百人の心に、多大な影響を及ぼすだろう。これ(ヴェーダ)こそが彼らの宗教の根本であり、その真の姿を彼らに明らかにすることが、過去三千年間にわたってそこから生まれたすべてを覆すことのできる、唯一の方法となると思われる。」
 また1868年12月、知人に送った手紙ではこう書いている。
「古代からインドに伝わるこの宗教は呪われている。キリスト教がこの国にもたらされないなら、誰がこの国の運命について責任を負うというのだろう?」
 このようにヴェーダを信じていないマックス・ミューラーに、ヴェーダを正しく訳すことができるだろうか? インドに生まれて、師から教育を受けた者でさえ、ヴェーダの解釈を間違うほどなのに、単なる言語学者であり、初めから偏見を抱いている人間に、ヴェーダを正しく翻訳できるだろうか?

・マックス・ミューラーはその後、ジョーンズの唱えたインド・ヨーロッパ語族という概念から、アーリア学説なるものを考案して、それを発表した。これはこの言語を話していたアーリア人がヨーロッパから全世界に散らばっていったというもので、彼はこの時点で言語的集団を人種的集団に変換させたのである。
 今日では「アーリア人」とは遺伝子的共通性を持つ人種ではなく、よくても文化的共通性を持つ民族だろうと見られている。しかし1858年になって、インドを政治的に支配したイギリス政府は、この理論を悪用して、アーリア人のインド征服という理論を持ち出した。そうすることで彼らはインド人に、自分たちはかつて白色人種に征服された民だと思わせて、さらにイギリス人はかつての支配階級であるアーリア人と同じ期限だと主張することで、自分たちのインド支配を正当化したのである。 

・マックス・ミューラーの後には西欧教育を受けた幾人ものインド人たちが、歪曲したヴェーダの解釈を表して、その神聖さをけがしていった。たとえばカルカッタのサンスクリット大学教授タラナートは、1866年、当時の金額で10万ルピーという膨大な報酬(当時のインドの小学校校長の月給は20ルピー)で、マックス・ミューラーの訳にあうようにサンスクリット語を誤訳した辞書を作成する任務を、イギリス政府から引き受けた。彼の作成した辞書は今でも使われている。

◎サムドラグプタとはどのような人物か?

・メガステネースが言及したサムドラグプタ王の生涯については、アラハバードで発掘された石柱に記された詩句から読み取れるといわれている。そしてサムドラグプタ王の業績がサンスクリット語で書かれた部分の上方には、プリヤダールシ王の業績がパーリ語で書かれている。
 プリヤダールシとは、現在の通説では、マウリア朝のアショーカ王、つまりアショーカヴァルダナのことであり、この石柱も彼がインド各地に建てたものの一つであり、その下方に約600年後、サムドラグプタが自分の業績を記したとされている。
 これらの石柱が建てられた年代は、そこにアショーカ王の支配が及んだ外国の五人の王の名が記されており、それらの王の在位期間がBC290~240年の間に収まることから、これらの石柱もそのころに建てたものと推測されている。
 しかし実際はマウリヤ朝のアショーカヴァルダナはBC1450年ごろの人なので、時代が合わない。
 そしてこれらの石柱が建てられた時代にマガダの王だったのは、サムドラグプタだったのだ。そしてサムドラグプタは別名をプリヤダールシと呼ばれ、またアショーカディティヤとも呼ばれていた。つまりサムドラグプタこそがこれらの石柱を建てた人物ではないのか。実際、インド大陸を支配したような王が、過去の王が600年も前に建てた石柱の、しかもその下方に、自分の業績を刻ませたりするだろうか? むしろ新しい石柱を建立するのではないだろうか?
 これらの石柱から読み取れるサムドラグプタの生涯を検討すると、彼は12の王国を征服したが、征服した王国には温情を示して、それらを属国として支配するにとどまった。また彼自身はヴィシュヌ信者だったが、他の宗教にも寛容で、スリランカの仏教徒の王がブッダガヤーに僧院を作ることを許可したりしている。
 次に、一般に仏典でいわれているアショーカ王の生涯を見ると、彼はマウリヤ朝の初代の王チャンドラグプタの孫にあたり、現在の定説ではBC268~232年に王として君臨した。若いころは暴虐だったが、インド全土を征服した後、仏教に改宗し、善政を施して、征服国にも慈悲を示し、インド中に8万4千のストゥーパを建設したとされている。
 こうして見ると、グプタ朝のサムドラグプタ王と、仏典でいわれるマウリヤ朝のアショーカ王は、両者ともに仏教に共感を示し、インド全土を征服して善政を施したという点で、似通っている。このような二人の共通性に、ジョーンズがインドの歴史をねじ曲げて約1200年省略させたことが重なり、異なった時代に生きた二人のアショーカという名の人物が、一人の人物として再構築されたのではないだろうか?

◎二人のアショーカ王

・仏典に出て来るアショーカ王と、石柱などの考古学的資料から知られるアショーカ王は同一人物とされているが、仏典に出て来るアショーカ王が仏教に改宗して熱心な仏教徒になったのに対して、石柱などから知られるアショーカ王は、古来からインドに伝わるダルマにのっとって生き、また他宗教にも寛容だったというだけで、特に仏教に傾倒したような形跡は見られない。
 つまり、現在アショーカ王とされているのは、マウリヤ朝のアショーカヴァルダナと、グプタ朝のアショーカディティヤ(サムドラグプタ)の二人が合成されてできた架空の人物なのではないだろうか?

◎お釈迦様の年代

・お釈迦様ことガウタマ・シッダールタは、現在の説ではBC500年ごろに生まれたとされているが、これについての直接的な資料は存在しない。セイロンや中国の史書において、お釈迦様はアショーカ王より数百年前の人だとされているのが根拠になっているだけである。
 しかし先に述べたように、アショーカ王とは二人いて、そのうち仏典に出てくる方のアショーカ王がBC1450年ごろのアショーカヴァルダナだとするならば、お釈迦様の活躍した年代は、それより数百年前ということで、BC1800~1700年ごろということになる。
 仏典によると、お釈迦様の時代のマガダ国の王はシシュナーガ族のビンビサーラであり、彼は息子のアジャータシャトゥル王子に殺されたとされる。
 そして「バーガヴァタ・プラーナ」には、シシュナーガ族のヴィディサーラ(ビンビサーラ)とその息子のアジャータシャトゥルという名前が登場し、そしてその400年ほど後にマウリヤ朝のアショーカヴァルダナが誕生しているのだ。

◎消滅した「バヴィシャ・プラーナ」

・先に述べた「バヴィシャ・プラーナ」の中の「カリユガ・ラジヴリッタ」によると、グプタ朝は現在考えられている紀元後に存在した王朝ではなく、BC328年からBC83年に存在した王朝である。
 最初にこの文献に注目して、イギリス政府が宣伝したインドの歴史に疑問を呈したのは、ナーラーヤナ・シャーストリ(1869~1918)というマドラスの学者であり、彼は5万点もの資料を調べて、20年にわたる研究成果を「THE Days of Sankara」という書物にまとめた。当初これは8冊に分けて出版される予定だったが、第一冊目を発行後、彼が亡くなってしまったために、残りは発行されず、後に彼の蔵書はすべて失われてしまった。
 しかし彼は自分の主張をすべて序文に書いており、それらを要約すると以下のようになる。

①シャンカラの年代はBC509~477年である。

②マハーバーラタ戦争はBC3139年にあったことである。

③お釈迦様が活躍したのはBC1800年代である。

④サンドロコットスはマウリヤ族のチャンドラグプタではなく、グプタ族のサムドラグプタである。

⑤ブリハドラタ族からグプタ族の終わりまでの、マガダを治めた王の系譜について。

⑥インドなどの各地で発掘された碑文やコインを、イギリスは間違ってマウリヤ族のアショーカヴァルダナに帰している

・現在出回っている「バヴィシャ・プラーナ」を見ると、そこにはこの「カリユガ・ラジヴリッタ」の部分が存在していない。どの書籍を調べても、どこの図書館にも存在していない。しかしシャーストリがその部分をまとめて1971年に「マガダ国の王について」というタイトルで出版しているので、それによってかつて「カリユガ・ラジヴリッタ」に記されていたグプタ朝の系譜を見ることができる。
 現在出回っている「バヴィシャ・プラーナ」にもマガダの王たちの系譜が記されているが、それはたとえばお釈迦様の父親であるはずのシュッドーダナがお釈迦様の息子とされているなど、荒唐無稽な内容である。そしてそのような荒唐無稽な内容を書きながら、お釈迦様がBC500年ごろに生まれ、チャンドラグプタがBC312年に即位したことになるように帳尻を合わせてある。またこのプラーナにはなんと未来の預言としてイギリス政府によるインド支配のことも書かれており、これは明らかにイギリス政府が手を加えたとしか考えられない。
 このように改ざんされた「バヴィシャ・プラーナ」が、1910年にボンベイのシュリー・ヴェーンカテーシュワラ・プレスから発行され、それが現在手にすることのできる唯一の「バヴィシャ・プラーナ」となっている。

・ヴィシュヌ、マツヤ、ヴァーユなどのプラーナにおいても、マガダの王については矛盾が生じている。しかし他の部分についてはほとんど矛盾が見られない。マガダを支配した王の系譜についてだけ矛盾が集中していることを考えると、明らかに恣意的なものを感じざるを得ない。

・イギリスがインドを支配するまでは、カースト制度もそれほど違和感なく人々に受け入れられており、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒も仲良く共存していた。イギリス支配によって差別意識と民族性が強調され、インドの国は分断されたのだ。

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