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「ミラレーパの十万歌」第一回(4)

【本文】

 父マルパよ、あなたのことを思うと、私の苦しみは取り除かれます。
 わたくし、乞食僧は、熱い歌をあなたに歌います。

 東方の赤い岩の宝石の谷の上に、
 一群の白い雲が浮かんでいます。
 その下には、後ろ足で立ち上がるゾウのような、巨大な山がそびえ、
 その近くには、飛び跳ねるライオンのような、もう一つの峰がそびえ立っています。

 トウォ谷の僧院には、大きな石の座があります。
 今、その玉座で崇められているのは誰ですか?
 それは翻訳者マルパでしょうか?
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の敬意は限られていますが、あなたにお会いしたいのです。
 私の信は弱いけれども、あなたとともにいたいのです。
 瞑想するほど、わがグルへの思いは募ります。

 グルの妻ダクメーマは、一緒にいらっしゃるでしょうか?
 彼女には、実の母よりも感謝しています。
 もし彼女がそこにいるなら、私は嬉しく、幸せです。
 旅は長くとも、彼女に会いたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 もし集いに参加できたら、私はどれほど幸せでしょう。
 そこであなたは、へーヴァジュラ・タントラを説いていらっしゃるかもしれません。
 私の心は単純ですが、学びたいのです。
 私は無智ですが、唱えたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 あなたは今、口頭伝授の四つの象徴的アビシェーカを授けていらっしゃるかもしれません。
 もし集いに参加できたら、私は嬉しく、幸せです。
 私の功徳は足りませんが、アビシェーカを受けたいのです。
 私は貧しく、多くの布施はできませんが、それを欲します。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 あなたは今、ナーローパの6ヨーガを説いているかもしれません。
 もしそこにいられるなら、私は嬉しく、幸せです。
 努力は足りませんが、私は学びたいのです。
 忍耐力は乏しいけれども、私は修行したいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 ウとツァンの兄弟が、そこにいるかもしれません。
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の経験と悟りは劣等ですが、彼らのものと比べてみたいのです。

 深い信仰と尊敬においては、あなたから離れたことはありませんが
 私は今、あなたに会いたいという気持ちで、苦しめられています。
 この熱い思慕が私を悩まし、
 この大きな苦悩が、息を詰まらせます。
 お願いします。慈愛に満ちたグルよ、
 私をこの苦悩から救ってください。

 このようにミラレーパが歌い終えるや否や、尊敬すべきジェツン・マルパが、五色の衣のような虹の雲の群れに乗ってあらわれました。その顔はどんどん強くなる天の光輝に照らされ、壮麗な礼服を着て、ライオンにまたがって、ミラレーパに近づいてきました。

 はい。まあこのような詩をね、グルを思慕する思いでミラレーパが歌っていたら、なんとマルパが五色の衣のような虹の雲の群れに乗って、ワーッといきなりミラレーパの前に現われたと。これはもちろん現実の肉体のマルパが現われたわけじゃない。それはマルパがその神秘的な力によってやって来たのか、もしくはそうじゃなくて、ミラレーパの心の中でマルパへの帰依が高まってそのようなヴィジョンを見たのか、そのどちらかは分からないけどね。とにかくそのようなヴィジョンが現われたと。で、そこでマルパはミラレーパに言うわけですね。

【本文】

 マルパは言いました。

「わが息子、偉大な魔術師よ。なぜそのように感傷に深く浸り、必死に私を呼ぶのか。
 なぜそのようにもだえ苦しむのか。
 グルやイダムに対する永遠の帰依心を持っていないのか?
 外側の世界の妨害想念が誘惑するのか。
 八つの現世的風が、洞窟の中で吹き荒れているのか。
 恐怖と思慕に、お前の強さを奪われたのか。
 お前はグルと三宝に奉仕をしてこなかったか。
 功徳を、六つの世界の衆生にささげなかったか。
 悪業を浄化し功徳を得る慈悲の状態を達成しなかったか。
 何があろうとわれわれは離れないことを、お前は確信しているだろう。
 ゆえに、ダルマと衆生の利益のために、瞑想を続けなさい。」

 はい。このようにマルパがミラレーパに教えを説くわけですが、まあこの辺っていうのは、なんていうかな、本当に重要な部分なわけだけど、まあヨーガ的に言うといわゆるバクティヨーガね。バクティヨーガっていうのは――まあヴィヴェーカーナンダによると、「ガウニ・バクティ」と、それから「パラー・バクティ」の二段階があるんだよと。「ガウニ」っていうのは初段階っていうことですね。「パラー」っていうのは至高のとか最高のということ。つまりまず第一段階、初心者的なバクティの段階から、それから最高のバクティの段階に移行しなきゃいけない。で、その初心者的なバクティっていうのは、これは、本当にもう、もう神様でもいいし、ブッダでもいいし、もしくはこの場合、ミラレーパの場合は師匠マルパなわけだけど、その対象に対する、なんていうかな、もうほんとに強烈な集中的な愛なわけですね。つまりほんとに「神よ! 神よ!」と。で、だいたいそれは神の場合もブッダの場合も、あるいは師匠の場合も、特定の名前と特定の相手っていうのがいて、で、自分はもちろんそれと全く違う存在としてあって、で、その神以外には興味がないっていう段階。あるいはそれが生きた師匠だった場合は、まあミラレーパの場合ね、ほんとにマルパに会いたいですと。わたしは今、マルパと離れ離れでいてほんとにもう悲しくてしょうがないと。「どうかマルパよ、わたしを受け入れてください」と。「ああ、マルパ様! ああ、マルパ様!」って、こういう段階がある。これはもちろん悪くはないんだよ、段階としてね。最初の段階は逆に言うとこういう状態じゃなきゃいけない。物理的にも例えば師匠と離れたくないとか、あるいは物理的に神と会えていないことがほんとにもう苦しくてしょうがないとか、こういうところから始まる。
 で、次の段階で、まあこれはいろんな言い方があるけども、神が、または師匠が――そうだな、まあ一つの言い方としては、自分と完全に一体化してるということに気付く。または別のパターンの言い方としては、この世界そのものが神であった、あるいはこの世界そのものがわたしの師匠であった、すべてに遍在していたっていうことに気付く。こういう段階があるんだね。これはまあどっちでもいい。いろんな表現があるから。
 いろんなね、過去の聖者とか、あるいは近代のいろんな、本当のね、聖者とか修行者のパターンを見てると、師匠がいて弟子がいて、で、一つのパターンとしては、例えばお釈迦様とアーナンダとか、あとミラレーパにはレーチュンパっていう弟子がいたんだけど、ずーっとそばにいる弟子っています。これはそういうカルマなんだね。ずーっと師にお仕えして、まあ結構師が死ぬぐらいまで、そばで一緒に救済したりして、奉仕をし続けるパターンがあるんだね。でもそうじゃないパターンの場合は、ある段階で、つまりしばらくの間師匠のもとで導かれて、ある段階で師匠のもとを離れなきゃいけないときが来る。こういうパターンの弟子もいる。もちろん、長く師のそばにいるパターンの場合も、最後は死が肉体を捨ててしまうよね。
 で、このとき、師と離れた弟子、あるいは師が肉体を捨ててしまった弟子は、しばらくは心に師匠のことを思いながら、「ああ、師匠と会いたいな」とか思いながら――まあいろんなパターンがあるけども、例えばいろんなところに行って、自らいろいろ教えを説いたりとかね、あるいは一人でいろんなところを放浪しながら一人で修行したりとか、いろんなパターンがあるんだけど、その弟子の修行が進んで来た一つの証拠として、ある段階からさみしくなくなるんです。つまりそれまでは「ああ、師匠」――例えば師匠がインドにいて、自分が今日本にいて、「ああ、師匠会いたいな」って思ってる。あるいは師匠が肉体を捨ててしまった場合は、今師匠がこの世におられないということを思うと悲しくなってくる。しかしある段階からは全くさみしくなくなる。
 なぜかと言うと、肉体というのは単なる表面的なものであって、「あれ? もともとわたしはずーっと師匠と一緒じゃないか」っていうことに気付く。師と弟子のつながりは物理的なものではなく、もともとずっと師は常にそばで見守っていてくださるということを悟る。例えばね。これが一つのパターン。で、もう一つのパターンは、さっきも言ったように、師匠っていうのは完璧な存在であって、この世界すべてが我が師匠で満ちていたっていうことに気付く。
 こういったことを頭じゃなくて言葉じゃなくて、ほんとにそう気付いたときに、なんていうかな、さみしさは消える。さみしさは消えるっていうよりも、まあ大きな喜びに包まれる。「ああ、わたしはもともと師匠と一緒であった」と。こういう段階に移行しなきゃいけないんだね。
 で、この部分はまさに、ミラレーパがその段階を確定する、確定させなきゃいけないっていう場面だね。ミラレーパは師匠マルパと会えないことをさびしがっていたわけだけど、マルパが、このような教えを説くわけですね。グルやイダムに対する――イダムっていうのは修行を助けてくれる主神のことですね――「永遠の帰依心を持っていないのか?」と。
 「外側の世界の妨害想念が誘惑するのか。」――現世的な妨害想念の流れみたいなものに邪魔され、誘惑されたのかと。
 「八つの現世的風」っていうのは、よくここでは出てくるけど、例えば何かを得て楽しい、失って悲しいとか、あるいは称賛されて嬉しいとか、非難されると嫌だとか、そういう相対的なね、こうだとわたしは嬉しくて、こうだと嫌だっていう、その相対的なあらゆる感情だね。これにやられ、これにはまってしまうと、われわれは現世に縛り付けられてしまう。これを八つの現世的風といいます。
 「お前はグルと三宝に奉仕をしてこなかったか。功徳を六つの世界の衆生にささげなかったか」と。「悪業を浄化し功徳を得る慈悲の状態を達成しなかったか」と。「何があろうとわれわれは離れないことを、お前は確信しているだろう」と。
 はい。つまりこの辺のことっていうのは、つまりもし本当に心からグル、つまり師匠と、三宝ね、ブッダやその教えやブッダの弟子たちに奉仕をしてきたならば、あるいは全力で積んだ功徳を衆生に、この輪廻で苦しんでる衆生に捧げるっていうことをしっかり行なってきたならば、そして慈悲というものをしっかり強めてきたならば、おまえの心に何か悲しみや不安があるはずがないじゃないかと。なぜそんなに悶え苦しんでるんだ、ということだね。
 そして、「何があろうとわれわれは離れないことを、お前は確信しているだろう」と。これはさっきも言ったように、ほんとにそのグルと弟子、師匠と弟子の結び付きっていうのが強くなったら、もう、なんていうかな、肉体は関係ない。あるいはいろんな現象も関係ない。そういうまあ、それだけの強い結び付きの状態があるわけだね。で、このマルパとミラレーパっていうのはその境地っていうかな、そういう状態に達していたわけだから、ミラレーパはもうそれは分かってるわけです。自分はもうマルパと離れることはないと。完全に心が一つであると。でもやっぱりちょっと情緒的な部分がまだ残ってるから、そういうことは分かっていながら悲しんでいるんだね。でもおまえは、もうわれわれは何があっても離れないっていうことが分かっているじゃないかと。そういうふうに教えられる。
 現代の人っていうのは、とても軽薄な人間関係とか、あるいは軽薄な信というものを教え込まれてるから、なかなかこういう強い結び付きっていうのを経験したことがないかもしれない。でも本来はそういう、なんていうかな、特にこの修行の師匠と弟子っていうのは、それくらい強い結び付きがあるんだね。もう何があっても離れない。何があっても離れないっていうのは、もう考えられ得るどんなことがあっても、この師弟関係というのは壊れないんです。でも現代っていうのはもうやっぱり世の中を見てても、ちょっとしたことで壊れるよね(笑)。例えばちょっと自分の利益に合わなくなると離れる。これは師弟関係だけじゃなくて友人関係とか、いろんな関係がね、ちょっと自分にとってマイナスかなと思うと離れてしまう。あるいは相手がちょっと自分が考えてたのと違ってたと思ったら離れてしまう。こういう非常に軽薄な関係がある。でも本来の――何度も言うけど、修行上の特に師弟関係みたいなものっていうのは、そんな薄っぺらいものじゃないわけだね。それはもう輪廻を超えて深く結び付いた、まあ関係だと。はい。
 そして、そのようにマルパが現われ、ミラレーパを励ましたことによって、ミラレーパは大変喜び、そして心目覚め、で、また歌によってそのヴィジョンで現われたマルパに答えるわけですね。はい。

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