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勉強会講話より「ヴィヴェーカーナンダの生涯」第一回(3)

【本文】

 ナレーンドラの多芸多才な能力は、子供時代から、様々な分野で発揮されました。ナレーンドラの記憶力は超人的で、たった一度聞けば、どんな本でも記憶でき、決して忘れませんでした。
 そのため、彼の勉強の仕方は一風変わっていました。彼は家庭教師を雇っていましたが、家庭教師が来るとナレーンドラは、静かに座るか、または横たわりました。家庭教師はその日勉強すべき箇所について一通り講義すると、そのまま帰っていきました。それだけでナレーンドラは、家庭教師が講義したすべてを暗記し、理解したのでした。
 また、ナレーンドラは日々自分の好きな本を読み、試験の直前になって、集中的に試験勉強をしました。あるときナレーンドラは、試験の二、三日前になって、幾何学についてほとんどわからないことにきづきました。そこでナレーンドラは集中して徹夜で勉強し、二十四時間で幾何学の本四冊を習得したのでした。

 これを読んでも分かるように、ナレーンドラっていうのはまさに宗教的な――もちろん聖者としてね――宗教的天才だったわけじゃなくて、もうなんていうかな、現世的な意味でも、つまり知能的な意味でも大天才だったんですね。こんな人、聞いたことないよね(笑)。「家庭教師が勉強すべき箇所を一通り講義すると、そのまま帰っていく」と。「するとすべてを暗記し、理解した」――そんな人いないですよね。
 前から言ってるようにさ、聖なる悟りと、それから現世的能力や、あるいは頭の良さっていうのは実際にはあんまりリンクしない場合がある。まあ前から何回か言ってるけど、一番いい例として、最近の人で言うと、中沢新一さんの師匠のケツン・サンポ・リンポチェっていう人ね。あの人はそういう人だったって言われてる。つまり、中沢さんが仏教のね、チベット密教の奥義を悟りたいっていって弟子入りしに行ったときに、そのケツン・サンポ・リンポチェが「わたしは本当にこの世のことについてはなんの能力も無いんだ」と。「本当に全く何も知らないんだ」と。「しかし心の秘密について、心が何たるかについては、ちょっとだけ君よりも知ってる」と。「だから君をそれに導くことができる」と。で、これを聞いて中沢さんは感動したと。で、その後実際に弟子入りして多くの教えを受けてね、実際に多くの智慧を授けてもらったわけだけど。で、そのときの「わたしは心の秘密については知ってるが、この世のいろんなことについては全く無智である」って言ったことが、謙遜ではなくて本当だったと(笑)。で、中沢さんはそれに大変感動したっていうんだね。はさみも使えなかったって。数も「一、二、三、四、五、たくさん」とか、そういう感じ(笑)。で、前も言ったけどさ、このケツン・サンポっていう人は、実はチベット政府の要請を受けて日本にしばらく来てたんですね。日本にしばらく来てて、まあどこかの大学でチベット学を教えたりする手伝いをしてたんですね。で、まあそうして帰ったと。で、のちにマスコミでね、ある教授が、その中沢新一さんを批判する記事を書いて。で、その教授がちょっと――わたし、それを読んだことあるんだけど――まあ逆にその教授がちょっとひどい教授だったんだけど。すごい悪口ばっかり書いてて。で、その批判の一つとしてね――まあこれはね、ちょっと話がずれちゃうけど、チベット仏教っていうのは当然、派がいっぱいあって。で、その中でも、ダライ・ラマが属するゲルク派、このゲルク派っていうのは、一番理性的で論理的な経典を重んじる派なんですね。で、逆にそのケツン・サンポのいるニンマ派、これは一番土着的で、神秘的で、逆に言うとあまり経典の勉強とかを必ずしも重視しないような感じなんだね。だから実際はチベット仏教の派同士って結構仲悪かったりしたんだけど、このゲルク派とニンマ派も仲が悪かったわけですね。で、特にゲルク派から言わせると、「もうあんなニンマ派なんていうのはインチキだ」と。「ほんとにシャーマニックなね、霊的なことばっかりやって、教えをちゃんとやってない」、という感じでこう徹底的に非難するんですね。で、そういう感じでその日本のある教授もケツン・サンポを大変非難してね、「あれは、あいつはニンマ派のどうしようもない修行者で、こうでこうで」みたいに非難してて。で、「彼は日本に前に来てて、わたしのもとでいろいろやってたんだけど、もう本当に何もできなかった」って書いてあるんだね。でもわたし、それ読んでて、「それ、知ってるよ」と(笑)。それ、自分でも言ってるよと。中沢さんも言ってると。つまり、価値観が全然違ってるんだね。「大学で仕事とかを全然できなかったから、彼は聖者じゃない」みたいな、なんかそういう書き方をしてて。でもそんなことは最初から分かってるっていう。このケツン・サンポの場合はですよ。彼は自分でも「もうこの世のことには全く能力が無い」と。本当にはさみさえ使えなかったと。しかし、そうではなくて、心――いったい心とは何なのかと。わたしとは何なのかと。真理とは何なのかっていうことだけに関しては、もうひたすら人生を賭けて追究してきたと。それが一つの誇りだったわけですね。
 はい。で、そういう人もいる。つまりもう興味がそこにしか無いと。だからこの世の、世俗的なことは何も力も無いし興味も無いんだと。で、そうじゃなくて、このヴィヴェーカーナンダの場合は、現世的にも大変優れていた。これはこの頭の良さだけではなくて、スポーツにしろ、あるいはさまざまなほかのいろんな趣味や、ほかの勉強にしろ、大変な――まああるいは歌もうまかったっていうからね。歌も楽器も演奏できたし、作詞作曲もできて、声も非常に良かったと。だからあらゆる面において、はっきり言ってスーパーマンだったわけだね。天才タイプの救済者ですね。こういう人は本当になかなか稀ですよね。しかも、何度も言うけども、本当に天才です。天才っていうのは、秀才ではなくて。秀才っていうのは、例えばなかなか人が理解できないものを理解できる――これは秀才ですよね。じゃなくて、一回聞いたら忘れないと。これはちょっと、違うなんかCPUが頭に入ってるんじゃないかっていうような天才タイプの人だったんですね。
 はい。じゃあ次もいきましょう。

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