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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(42)

                         1915年7月7日
                          アルモラにて

 親愛なるビハリ・バブーへ

 あなたは平安を得ることについてお尋ねになりました。ええ、あなたは真の平安は「物欲と愛欲をすべて放棄した人、もろもろの欲望から解放された人、自我意識や執着心のない人」[ギーター、第二章、七十一節]のものであり、そして、「無数の河川が流れ入ろうとも、海は泰然として不動であるように、さまざまな欲望が次々に起ころうとも、それを追わずとりあわずにいる人は平安である」[ギーター、第二章、七十節]ということも知っておられます。

 あなたは完全な平安は手にしておられないかもしれませんが、しかし、確実にいくらかの平安は手におられます。あなたのハートの中に主を置いて、自我意識(“わたし”と”わたしのもの”)を追い払えば追い払うほど、あなたは彼の一瞥によって平安を得るのです。それ以外にはありえません。
 彼が一切のことをしておられ、われわれは彼の手の中の道具にすぎません。彼の一瞥によって、われわれがこの態度を習得すればするほど、われわれの自我意識は消えていき、寂静と平安がわれわれのハートに目覚めます。

 パンチャダシーはヴェーダーンタの経典で、智慧の道を重視し、性質を持たないブラフマンを得るためのサーダナーの実践の仕方を説明しています。しかし、主はギーターの中でこうおっしゃっています。

「常に私のことのみを思い、己の知性のすべてを私にゆだねるがいい。そうすることにより、君は疑いなく、これから常に私の中に住むこととなる。」[第十二章、八節] 

 なんとみずみずしく、甘く、喜びに満ちたメッセージでしょうか!

 あなたは家住者がサマーディを得ることができるのかどうかとお尋ねになりましたね。もし、[家住者がサマーディを得ることができるということ]が本当でないとしたら、そのとき、主の言葉は正しさを失ってしまいます。クリシュナはギーターの中でこうおっしゃっています。

「たとえ極悪非道の者であったとしても、もしその者がひたすら私を信じ礼拝するならば、彼は善人とみなされよう。なぜなら、彼は根本において正しい決意をしているからである。……プリター妃の息子よ! 身分の低い生まれの者であろうと……私に保護を求めてくる者たちは、必ずや最高の境地に達するだろう。」[第九章、三十、三十二章]

 人はサマーディの経験なしに“最高の境地”に達することができるでしょうか?

 次のようなパタンジャリの格言によると、人は、ヨーガの体操を訓練しなくてもサマーディを得ることができます。

「人は神に一切のことを捧げることによってサマーディを得る。」[第三章、四十五節] 

 それはこの格言においても明らかにされています。

「または、神への献身によって。」[第一章、二十三節] 

 大聖者ヴィヤーサは、この格言についてこう注釈しておられます。

「彼の献身をお喜びになり、神は彼に恩寵をお授けになります。さらに神の意思によって、ヨーギーはサマーディとその果実を即座に手にします。」

 これは、ヨーガの訓練をしなくてもサマーディを得られるという見解の最高の証拠です。

 これに関連して、あなたはバーガヴァタムの第十巻にある、ゴーピーたちがどのように神に浸り、肉体を離れたかを思い出されるかもしれません。

「実際、神に対して情欲、怒り、恐れ、愛情、親族関係、または献身を抱く者は、彼との合一を得ます。」[第十巻、第二十九章、十五節] 

 神との合一とサマーディのあいだに何か違いがあるでしょうか? 態度と手段において違いがあるのは事実ですが、しかし究極的な達成とその結果は同じなのです。
 クリシュナもギーターの中でこうおっしゃっています。

「放棄を通じて到る境地には、カルマヨーガによっても達する。この二つを同じと見る人は、事物の実相を了解した賢者である。」[第五章、五節]

 ギーターの第十二章において、クリシュナは神の人格的な相と非人格的な相の両方への礼拝について語っておられ、そのあと、神の人格的な相への礼拝の方が容易かつ喜びに満ちていると結論づけていらっしゃいます。そして彼は彼自身が献身者を救い出すのだとおっしゃっています。したがって、わたしにはなぜわれわれがそのような慈悲き主を見捨て、他の者に保護を求めるべきなのか、分かりません。

                       愛と最高の願いを込めて
                           トゥリヤーナンダ

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