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勉強会講話より「ヴィヴェーカーナンダの生涯」第一回(2)

【本文】

 このドゥルガーチャランが残した息子であるヴィシュワナートは、成長すると、カルカッタ最高裁判所の弁護士になりました。かなりの収入があったにもかかわらず、父譲りの性格で、友人や困った人に対して大変寛大で、自分のために貯蓄や節約をすることはできませんでした。援助に値するかどうかを検討することなく、誰に対しても手を差し伸べました。
 その中には、怠惰で無益な生活を送っている者や、ドラッグや酒に溺れている者もいましたが、ヴィシュワナートは誰に対しても平等に援助の手を差し伸べていました。
 後にナレーンドラが成長したころ、こうした役立たずに金銭的援助をして養っている父を非難したことがありました。それに対してヴィシュワナートは答えました。

「人生に降りかかる災難が、今のお前にどうして理解できようか? 彼らの苦しみの深さを感じたら、酒に頼って一瞬でも悲しみを忘れようとする不幸な人たちに同情することだろう。」

 はい。今度はこのさっきのドゥルガーチャランの子供、つまりナレーンドラのお父さんであるヴィシュワナート。このヴィシュワナートも、成長すると弁護士になりましたと。弁護士なのでかなりの収入があったんだけども、ドゥルガーチャランと同じく大変慈愛深い人で、自分のために貯蓄ができなかったと。「援助をするかどうかを検討することなく、誰に対しても金銭的に手を差し伸べた」と。で、その中には、ドラッグや酒に溺れている者もいたけども、全く関係無くみんなにこうお布施っていうかな、財産をばら撒いたわけですね。で、それに対してナレーンドラは、若いときにそれを非難したことがあったと。で、それに対してヴィシュワナートがこういうことを言うわけだね。
 これはさ、つまり考え方としては当然これはあるわけですね。考え方っていうのは、つまり、例えば彼にお金を援助したとしても、当然彼は酒に使うだろうと。あるいはドラッグに使うだろうと。それは彼のためにならないと。そして当然返す気も無いでしょうと。「本当に返すとか、あるいはこれで更生するならお金貸してもいいけど」みたいな発想っていうのは、まあ普通にあると思う。で、それはそれで別に間違いではないと思うんだね。これはこの考え方次第なんだけど、皆さんも例えばそういう状況に置かれたときに、当然この発想っていうのは別にまあ間違いではないと思うね。だからこれはどうしろって話ではないんですけど。ただここで、このお父さん、ヴィシュワナートは、そうではない方法をとったと。
 つまり、そのような、まあつまりここで言う――もう一回言うと、まず第一にわれわれは、普通はエゴ的な計算がある。で、次に第二に、エゴ的では無い、本当の意味での相手のためを考えた計算がある。これが今の話なんだね。もう一回言うよ。一番目の計算っていうのはエゴ的な計算。つまり「こいつ返してくれんのかな?」と。ね。あるいは「倍にして返してくれるならいいけど」とか。あるいは「こいつ返してくれなさそうだから貸したくない」――これがエゴ的な計算ね。で、二番目は、まあある程度正しいっていうかな、理に則った計算がある。それはよく言う、さっきも言った、「この人に今お金を貸したとしても、それは彼の怠惰さを増すだけであって、本当の意味でこの人のためにならない」と。「だからそれは貸すべきではない」――これは別にエゴっていうわけじゃなくて、まあ法に則ったっていうかな、一つの理に則った計算ですね。で、これはこれでいいと思います。しかし、ここで三番目にこのナレーンドラのお父さんのとっていた方法は、「それは分かるが、しかしわたしは人生の多くの苦しみを知っている」と。まあこの人は弁護士をやっていたからそういうのもあったのかもしれないけど――「この世は本当に苦しい」と。で、その中で、もう本当に酒に溺れないとやっていけない、ドラッグに溺れないとやっていけないような、そのような苦悩にはまっている人を、「おまえ、それは堕落してるから、そんなのでは金を貸せないよ。君のためにならない」なんて言えないと。つまり、瞬間でももし彼が酒飲んででもちょっとでも心を紛らわせられるならば、いいじゃないかと。そのためならわたしは財産を惜しまない、っていう発想なんだね。これはとても慈悲が勝ってるっていうか、慈悲のその想いが強い発想ですね。
 で、おそらくこのお父さんは、まあもちろん――ナレーンドラはだからさ、いいとこのお坊ちゃんだから、社会的なあるいは理想的な考え方は頭に入ってる。しかしまだ社会の、特に苦しんでる人たちの人生を知らないわけですね。だから頭だけで考えると。そうすると「彼らのためになるならば金は出してやってもいいでしょうが、そうじゃないときには、そんなことをやるべきではない」みたいな、こうちょっと理性的な指摘を行なったわけですね。しかしそれに対してお父さんは、「いや、まだおまえは人生を知らない」と。「それは確かにおまえの言うことは正しいが、世の中は本当に苦しいんだぞ」と。で、「その中では本当に、酒でも飲んでなきゃやってられないような人もたくさんいるんだ」と。「そういうな人がもし本当に今言ったように、たった一時間でもその苦悩を忘れられるならば、それは別にいいじゃないか」と。こういう慈愛に満ちた発想ですね。
 ただこれはもちろん考え方なので、それぞれで考えたらいいと思うけどね。もちろん皆さんの場合――皆さん、自分自身にはそういう考えは駄目ですよ。皆さんはもう修行に出合ってるからね。例えば、「おれは苦しい」と。「ちょっとぐらい堕落した生活送ってもいいじゃないか」と。これは駄目です(笑)。自分には厳しくしてください。「わたしはもうダルマに出合ったんだ」と。さっきも言ったように、だから脇目もふらずに修行しようと。あるいはもちろん法友も同じです。「君は修行に出合ってるじゃないか」と。
 つまり逆にね、まだそういうダルマとの縁が無くて、もう本当に抜け道が分からないと。例えばそこにポンッと教えを与えたとしても、まだその縁が無い場合、当然そこには目がいかない。目がいかないで、本当にこの世のループの中でぐるぐるぐると回って苦しんでると。この場合は、もちろんさっき言った二つの道がある。これはまだ十分苦しんでね、ある程度自分でこう自立してね、なんとかしようと思わない限りは、これはもう放っておいたほうがいいっていう考えは、それはそれで正しいんだね。でも、もう一つはそうじゃなくて、このヴィシュワナートのように、それは分かるけどもちょっと見てられないと。だから、ちょっとこれくらいでもしちょっとでも苦悩が和らぐならば、援助してやろうじゃないかと。それはそれで有りなんですね。これがお父さんね。つまりお父さんは非常にある意味――まあお父さんはもちろん世は捨てなかったんだけど、しかし非常にある意味、自分のメリットに対して頓着が無く、そして非常に慈悲深い人だったんですね。しかしこれがまあのちに、のちの話として――まあ皆さんも知ってるでしょうけど、それであるがゆえに、つまりこのお父さんが大変慈悲深く、自分のエゴに頓着が無い人だったがゆえに、その後亡くなったあとに、ナレーンドラが大変苦しむことになるわけだね(笑)。お父さんが死んだら、つまりあまりにも慈善をやり過ぎて、家には借金しかなかったと。で、それによってナレーンドラは大変な苦境に落とされるわけだけど。まあしかし、逆にそのおかげでナレーンドラはこの世の苦悩っていうのを知って、あるいはそこで苦悩の果てに、一つの悟りっていうかな、その心の閃きみたいなのを得て。だからすべてがナレーンドラの成長につながったから、それは良かったんだけども。これがまあお父さんでしたと。じゃあ次もいきましょう。

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