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勉強会講話より「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第七回(4)

 はい。では今日の勉強会ね。『スートラ・サムッチャヤ』に入りましょう。今日はこの『菩薩道の真髄』の十九ページからいきましょう。

【本文】

 また、サーガラマティパリプリッチャー(サーガラマティ所問経)には、こう説かれている。

「菩薩が容姿端麗で、あふれんばかりの財を持った大金持ちとなる。そのようなところにも魔事は働く。」

 はい。あの、これ、魔事っていうのがずーっと続いてるんですね。この魔事っていうのは、よく魔境とかも言いますけども――まあ魔境っていうのは、そうだな、実際その魔の境地に入っちゃったことを魔境っていうんですけども、魔事っていうのはもうちょっと大きなカテゴリーかもしれないね。つまりまだ入ってるかどうか分かんないけども、そういった魔的な力が働いてるっていうかな。
 で、これは、なんていうかな、この魔事っていわれるものは――もちろんね、この世っていうのは、さっきの『ラーマーヤナ』の話じゃないけども、聖なるものと魔なるものの戦いが本当は続いてるんだね。これはね、前も言ったけど、わたしは瞑想経験でよくそういう経験を何度も経験した。どういう経験かっていうと、ちょっとこれは漫画的なんだけどね、ある種の瞑想の境地に入ると、いろんなね、聖者とか神々の軍と魔の軍が戦ってるんだね。うん。それはその、まあ例えばわたしも戦ったりしてるんだけど――つまりその、よくこの地上でも知られてるようなね、いろんな、ラーマクリシュナとかヨーガーナンダとかああいう聖者とか、いろんなシヴァ神とかの神とかと、魔的な軍が、本当に戦争みたいにやってるんです。本当にドンパチっていうか、もうある場合は取っ組み合いっていうか(笑)、戦争みたいにやってるんだね。で、この戦争の――戦争で勝ったり負けたりする。勝ったりっていうか、優勢になったり劣勢になったりするんだね。うん。例えば、まあこれちょっと冗談みたいに言うけども、ラーマクリシュナが投げた爆弾が(笑)、

(一同笑)

 ――ちょうど爆発して、魔の軍がウワーッてなったりとか。あるいは例えば、あっちが投げてきた弓とかにこっちの聖者がやられちゃってちょっと血が流れたとかね。まあそういうその――まあ今言ったのはイメージなんだけど、そういったその戦いが、この世界のもっと奥の世界、奥の世界の――奥ってつまりもうちょっと本質に近い世界で、繰り広げられてるんだね。で、その繰り広げられてる投影として、この現実世界があります。
 つまり簡単に言うと、まあ例えば――大きなことから小さなことまでそうなんだけど、例えば大きなことで言うとね、この世で物質文明、物質文明っていうか、例えば欲望をわきたたせるような社会とか、あるいは人のエゴを増大させるような社会がどんどん増えてくるっていうのは、これは完全にもう、奥の世界で魔の軍が勝ってる証拠なんだね。魔の軍がちょっと優勢になってるときっていうのは、社会はそうなります。逆に真理の軍、聖なる軍が優勢だと、この世でみんながちょっとこう慈愛とかに気付きだしたり、真理を求めだしたりする。
 あるいはもちろん個々の小さな世界でもそうですよ。例えばある、まあカイラスならカイラスでもいいし、あるいは――まあ個人でもいいんですけどね。個人とか、あるいはある修行グループの中で、ちょっとこう煩悩的になったり、あるいはすごくみんな修行やる気になったり、いろいろするわけですね。これは完全に連動してるんです。奥の方の世界で、まあわれわれと縁のある世界っていうかな――の神々がちょっと劣勢になったりすると、われわれもちょっとやる気がなくなってきたりとか(笑)、修行の邪魔がいっぱい起こったりとかね。うん。非常にこれは面白いところがあって。うん。まあ連動してるっていうかな。
 だからまあもちろん、だからといってわれわれは何も努力しないでいいっていう意味じゃなくて、逆に言うとね、われわれの努力っていうか、われわれの意志による、「修行するぞ!」とか、「魔を打ち払うぞ!」という働きも、あっち側に連動するんだね。だからこう、なんていうかこう……まあ世界観で言うと――今言ったのは、奥の方で戦ってるっていうのは、アストラルといわれるね。アストラル。よく英語ではアストラルっていう、霊的世界っていうところの話なんだけど。さらにもうちょっと奥にはコーザルといわれる、データだけの世界っていうかな、原因界といわれる情報だけの世界がある。この三つの世界が連動するかたちで、常に魔と聖なるものの戦いが繰り広げられてる。
 で、この現実世界っていうのはね、一番ね、分かりにくいんです、非常に。ガーンって実際に戦ってるわけじゃないから。戦ってるわけじゃなくて、なーんとなくわれわれの中に悪い思いが出てきたりとか、いい思いが出てきたりとか、あるいはなんとなく社会がちょっと変わってきたりとか、非常に分かりにくいんだね。でももう一回言うと、深い世界ではもっと分かりやすい、すごい戦いが繰り広げられたりするんだね(笑)。うん。こういう経験をわたしもね、瞑想経験とかでするうちに、「ああ、そういうことなのか」っていうのは何度も経験してきた。

 あのさ、ちょっと話がずれるけど、今『ラーマーヤナ』の話が出たけど、『ラーマヤナ』もさ――これも言ったかもしれないけど、『ラーマーヤナ』って、もともとの原本の『ラーマーヤナ』ってあるんですね。もともとのオリジナルの『ラーマーヤナ』ってあって、これは非常にシンプルな話なんですが、それに対して、もうちょっとその細かい部分の話を広げたりとか、あるいは深い部分の解説を加えたりした、いろんなタイプの実は『ラーマーヤナ』があるんですね。その中で、まあこれもわたし最近ちょっと何かで読んだんですが、あるタイプの『ラーマーヤナ』ではね、こういう話があって――あのさ、『ラーマーヤナ』ってもう一回言うと、シーターがさらわれてね、ラーヴァナっていう悪魔にさらわれて、それを救うためにラーマとかハヌマーンがね、あと猿の軍団とかがラーヴァナと戦って、ラーヴァナを倒すという話ですよね。うん。これはこれでラーヴァナで象徴される魔的なものを聖なる者たちが打ち破る話としていいんだけども、別説があるんです。別説のある『ラーマーヤナ』だと、シーターがね、ラーヴァナにさらわれたシーターが、カーリー女神に変身して(笑)、カーリー女神――つまり、あのかわいい、美しい、おしとやかなシーターがね、ラーヴァナにさらわれちゃったときに、「ふざけんな、お前!」って感じで(笑)、

(一同笑)

 恐ろしいカーリーに変身して、ラーヴァナと自分で戦ったっていうんだね。自分でもうラーヴァナと戦って、で、しかもその戦いが十年間続いたっていうんだね。十年間続いて、で、最後は完全にラーヴァナを打ち倒したと。打ち倒して、で、その歓喜に満ちたシーターっていうか、今はカーリーなんだけど、カーリーになったシーターは、もう歓喜のままにね、そのラーヴァナの血を飲みながら、踊り狂ったっていうんだね。

(一同笑)

 そういう『ラーマーヤナ』もあるんだけど(笑)。で、今何を言いたかったかって言うと、今言った『ラーマーヤナ』はあまりにも「なんじゃこりゃ!?」っていう『ラーマーヤナ』なんだけど、でもわたしにはちょっとね、よく分かる感じがするんです。よく分かる感じがするっていうのは、実際現実世界でそれは起きてなかったかもしれない。現実世界ではシーターは普通におしとやかにしてたかもしれない。でも実はそのさっき言ったアストラルではそれはあったかもしれないんです。シーターがおしとやかにしてる間に、その深いアストラルの世界では実はシーターがカーリーに変わって、そのアストラルのラーヴァナとすごい戦いを繰り広げてたと。で、その果てに、シーターが――つまりカーリーになったシーターが、ラーヴァナを打ち倒したと。その一つの表現――まあこの現実世界の投影としてね、まあ実際にラーヴァナが倒れて、世界は聖なる神の国に戻りましたっていうことがあるかもしれないんだね。これは非常に面白い話ですね。
 だからちょっと話を戻すけども、常にこの――つまり、たまに魔がやってきて、たまに悪さするんじゃなくて、常に戦いは繰り広げられてるんです。魔と聖の戦いっていうか、こう、なんていうかな、せめぎ合いっていうかな――が、ずーっと繰り広げられてるんだね。だから修行者っていうのは、いつも、常に――まあまさに念正智して、自分が魔にやられていないかな?っていうのを常にチェックしなきゃいけないんだね。

 で、この魔にやられるっていう言葉も、とても抽象的にしか言えないんだけど――っていうのは、今も言ったようにいろんなパターンがあるし、まあ本当にわれわれの気づかないところで魔っていうのは侵入してきたりするからね。だから本当にわれわれが相当自分をチェックしてないと分からない。
 ただ、まあわれわれの場合はね、いつも言うように、まずバクティヨーガっていうのを支柱においてるから――わたしは、わたしの経験上で言うならば、やはりこのバクティヨーガを中心に置いた修行者っていうのは、非常に魔に強くなると思います。それから、そうですね、もちろん修行の真髄である、まあ真我とか、ブラフマンとかいう完全なわれわれの本質の悟りね。これが二番目としてある。で、このバクティ、つまり至高者への愛とか至高者への帰依とか奉仕とかっていう一つのラインと、それから、われわれの本質は真我なんだと。われわれの本質は肉体でもないし、今誰々さんって言われてる名前でもないし、あるいはいろんなしがらみがあるこの概念的な存在でもなくて、真我なんだと。まあもっと言えばブラフマンなんだっていう、その完全な悟りの道ね。
 まあもう一つ言うならば、菩薩の道。つまりわれわれは、ね、四無量心のために、あるいは衆生への慈悲のために、慈愛のために存在してるんだと。それ以外にわたしの存在意義はないんだっていうその菩薩的な四無量心的な発想。
 この三つ。ね。至高者への愛――バクティね。そして、我は真我なりと。ね。ブラフマンなりっていうその絶対的な確信。そして、衆生への愛――慈悲、四無量心ね。この三つの柱。まあもしくはこの内のどれかでもいいです。これをちゃんとわれわれが持っていれば――まあわたしがいつも言う「中心点」っていう話とも関わってきますが、これがあればわれわれは、まあ、あまり魔にやられません。それから、やられたとしてもすぐ気付けます。で、そのすぐ気付けるっていう意味は、「あれ? わたしはおかしかったかな?」と。ね。まあそこで完全に魔の影響を払いのけられなかったとしても、「あれ? わたしはおかしいんじゃないかな? 変だったんじゃないかな?」って気付けるんですね。で、それは、日々の皆さんの修行とか、あるいはどれだけ熱意を持って誠実に修行してるかによっても、気付けるかどうかっていうのは変わってくるわけだけど。

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