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バクティの精髄(2)

 人は、どんな対象物にも心を集中させることができる。彼は簡単に、妻や子供に心を集中させることができる。しかし、ここで説いている集中や愛というものは、それらのことを言っているのではない。世俗的な喜びの対象を瞑想すること、あるいはそれらを愛することは、ジーヴァを縛りつけて、生死の流転に放り込む鎖である。われわれがここで示している集中や愛というのは、神に向けられたものなのだ。この無私を起源とする愛は、最終解脱への階梯なのである。

 感情は普通、完全な悟りの妨げになるとされる。しかし、魂を縛りつける性質を持つ感情はある特定のものだけであり、他のある感情はジーヴァを束縛から解放する。神に対する思いは、魂を縛りつける感情を湧き立てることはない。それは現世欲や執着を持たない純粋な愛である。人は神に対して現世的な愛を発するとはできない。神に対する思いや神への愛は、最も純粋な感情を呼び起こす。その感情は、日夜人を打ちのめしている悪しき感情よりも、遥かに素晴らしいものである。 
 感情を全く鎮めることのできない者たちは、せめてこの純粋な感情を持つべきである。バクティ・マルガおいて、神聖なる感情は重要である。神への愛は、決して妻や子供や財産を大事にするというような類の愛ではない。しかし、そこには確かに大きな違いがあるのだが、一気にすべての現世的な繋がりを絶つことのできないバクタたちは、神への愛にさえも、息子、夫、父、友などに対する現世的な愛に似たカラーリングを施す。

 それでは、神への愛が、どうやってわれわれをサンサーラから解脱へと導くのだろうか? 
 人間とはエゴイスティックな存在である。人間の唯一の敵はエゴである。人は、この世界のものと自分は完全に別のものであると感じている。人間は、肉体とこの宇宙の間には、はっきりと境界線が引かれている、ということを確信している。人は、どうにかしてその肉体を否定しようとしても、自分は肉体であるということを固く信じている。人は、「私」と言うときはいつも自分の胸を指さすが、その辺の木を指さすことはない。多くの残念なヴェーダーンティンたちも、自分たちは「私はブラフマンである」と言い張りつつも、それはただ「肉体はブラフマンである」と言っているに過ぎない、ということを感じている。肉体という観念と「私」を引き離すのは非常に難しい。「私はラーマクリシュナである」と言っても、それは「この肉体はラーマクリシュナである」と言っているに過ぎない。誰も、本当の自分であると思っているこの肉体という観念を取り除くことなどできないのだ。すべてのヨーギーたちの理想は、このエゴの感覚を根絶することである。そしてバクティヨーガとは、この区分の感覚、つまりエゴイズムの感覚を殺す手段なのである。バクティヨーガは、心の装飾を滅ぼし、個を宇宙意識で満たす。

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