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解説「菩薩の生き方」第三十回(10)

 はい。そしてもう一つは、この後半に書いてあるのは、これはまあ、最初の方に言ったことと関わってくるけども、まあ、さまざまなパターン――だからこれも大乗仏教の醍醐味なんだけど。うん。大乗仏教っていうかな、こういう大乗的な修行の醍醐味として、まさに最初に言った、「みんなが師匠」っていうのと同じ発想なんだけど、つまりみんな、他者っていうのは、神が遣わした、修行を進めてくれる天使であると。いろんな意味でね。それはここに書いてあるように、ある場合はカルマを落としてくれる相手かもしれない。ある場合はいろんなことに気付かせてくれる相手かもしれない。これは真剣に修行しようと思っていると、絶対そうなります。絶対いろんな人との関わり合いの中でいろんなことに気付かされ、進んでいくんだね。で、この方が速いんです。速いって言ってるのは、つまり誰とも接せずに、小屋にこもって修行しているよりも――誠実で真剣じゃなきゃ駄目ですよ。誠実で真剣じゃないと巻き込まれるから。その上で、人と接して修行した方が速いんです。
 なんでかっていうと――いろんなことから言えるんだけどね、一つは、つまり実地訓練になるからです。実地訓練ね。ちょうどこれは、こういう話もいつも言うけど、例えば料理の本いくら読んだって料理うまくならないよね。実際に料理しないと。で、多くの失敗を繰り返さないと。
 これも何度も出てくるパトゥル・リンポチェの話だけどさ――パトゥル・リンポチェがある山の洞窟に行ったら、ずーっと十年くらい瞑想している男がいて、「あなた、ああ、そんなに瞑想しているのすごいですね」と。「わしはもう十年以上してるんじゃ」と。ね(笑)。「ではいったいなんの修行しているんですか?」と。「わたしは忍辱について、人から何をされても耐えるということについて十年以上瞑想しているんだ」と、自慢気に言ったわけだね。そしたらパトゥル・リンポチェが、わざとだけど、もう大笑いして、馬鹿にしだしたわけだね。そしたら相手が怒りだしちゃった(笑)。「おい、なんてこと言うんだ!」と。「出ていけ!」と。「おれは忍辱の瞑想をやっているんだから!」と(笑)。やってないじゃんって話なんだけど。つまり、やってないじゃんっていうよりも、本人は多分本気だった。本気で、「人から馬鹿にされても耐えるんだ」と、そういう瞑想を人がいないところでやっていた。これでもすごく、二十年三十年四十年とやればなんとかそういう心はできるかもしれないよ。でももっと速いのは、馬鹿にされる中で自分の心を整えていくと。馬鹿にしてくるやつがいる。その相手を愛する。許す。あるいは自分の心を反省する。これは速いですよね。
 だからすべての人は、その意味でトレーナーであると。自分の弱い心を鍛えてくれる、あるいはプライドをつぶしてくれる、あるいはそのようなさまざまないろんな悪い部分に気付かせてくれる。ハッとして――さっきから言っているように、誠実さとか真剣さがなきゃ駄目だけどね。真剣さや誠実さがあれば、そのようなものはすべて、自分の、なんというかな、間違ったものを整えてくれて、正しい道に、非常にスピーディーに導いてくれる天使となるわけだね。

 はい、だからそういういろんな意味で――あるいはここに書いてある別のパターンとしては、「自分と違う良い部分を持った衆生の良い点を称賛し、受け入れることで、自分の成長を促すことができます」と。これもよく言ってる話だけど、もうだいぶ時間がないのであまり突っ込まないけども、よく昔、称賛の話でそういう話、そういう教えを言ったことあるけど、称賛がなぜ素晴らしいのかっていうと、これも簡潔に言うけどね、人って、いい部分も悪い部分も結構みんな違います。つまり、自分にない良い部分を結構人が持ってたりするんだね。その「自分にない」っていうのは、発想すらなかった場合もあります。「あ、そういう感じなんだ!」と。「そういう発想なかった!」と。「本当に素晴らしいな!」と。ね。もしその人に出会わなかったら、その発想に気付けなかったんだよ。その発想っていうかそういう方向性っていうか。「自分はこっちを頑張ってきたけど、彼はこの部分がすごい」と。「あ、それか」と。ね。「あ、そういう素晴らしいところがあるんだ」と。あるいは別の人はまた別のパターンで素晴らしいと。そういう人がいっぱいいることで、素直な気持ちがあれば、全部自分のものにできます。「わたしもそれもらう」と。「わたしもそういう感じになりたい」と。「あの人はこういう感じで素晴らしい。その部分をわたしは取り入れよう」と。
 いつも言っているように、完全なブッダっていうのは、そのような善、つまりすべての良い要素を身に付けた人です。で、それを普通は、計り知れないほど生まれ変わって身に付けるんです。なんでかっていうと、繰り返すけど、気付けない。そういういい要素があるってことにね。でも他者が、特に法友がいっぱいいるってことは、宝物がいっぱいあるんです。素直に全法友のいいところを認めれば、その人は最も速く修行が進む。
 ちょっと打算的になっちゃうけどね、だから称賛、心から称賛できる人っていうのは、最も速くそれらを――だってその方が得でしょ? そんな批判してさ、つまり批判心とかあると、それを否定するよね。だから批判心の悪いところは、その人を批判したいから、その人の持っているいい部分までも批判しちゃうんです。そうするとブロックができるから、そのいい部分が自分に入らなくなります。なんとなく本音では「あいつ結構いいな」と(笑)。本音では「おれもああなりたい」と思ってるんだけど、「しゃくだから絶対あんな真似しない」って、こうなっちゃうんだね。そうなると損でしょ。だから心から称賛すると、相手のいろんないい部分をバンバン取り入れることができる。あるいはいろんな、なんというかな、考え方であるとか、あるいはそうだな……本当にちょっとしたことでもいいんですよ。ちょっとした、「あの人こういう努力をしている」と。「その発想なかった」と。「それをわたしも真似しよう」と。これが素直にできる人は、一気に修行が進む。

 はい。あるいは、逆に、

 「衆生の欠点を見ることで、我が身を正すことができます。」

 これは批判じゃなくて、いわゆる反面教師ってやつですね。つまりこれも、逆に言うと、自分にない欠点を人がいっぱい持ってたりする。もちろん自分にある欠点も持ってるけど。自分にある欠点の場合は鏡として見る。「ああ、わたしもああいう欠点ある」と。「人から見たらこう見えるんだ」と。「ああ、これはもう直そう」と。これが反面教師っていうか自分の鏡として見るパターンね。で、自分にあまりない部分、欠点を人が持っている場合は、それはもう注意として――だってそれは将来自分もそうなるかもしれないから。だから自分も気を付けようと。これはもう警告なんだと。自分が今、甘く生きてたら、自分も将来そういう悪い部分が出てくる可能性があると。それを今、身をもって相手が示してくれているんだと。そう考えて、それをまた教師として受け取ると。
 はい。とにかくここに書いてあることを、あるいは今言ったこと以外にもいろんなパターンで、衆生と共に修行すると。山にこもって一人で修行するんじゃなくて、社会の中で修行すると。これは多くのメリットがある。これは大乗的な考えですね。
 よって、衆生こそは、つまりこの他者こそは、まあこの最後にまとめてあるけども、つまりこの――これはさ、仏教もある時期陥った過ちだったんだね。過ちっていうのは、仏教の歴史の中で、ある時期、仏教っていうのは、インド中で崇拝されて、つまり王様が、アショーカ王――インドを統一した王様が仏教に帰依したんで、一時的にインド全部がヒンドゥー教じゃなくて仏教になった時期があったんだね。で、お坊さんの地位も上がって、で、お坊さんはちょっと傲慢になったと。人を見下すような感じになったときがあったと。で、それじゃ駄目だっていうので大乗仏教がどんどん広がっていったんだけど。でもそういう、修行者が陥りやすい罠がある。「おれは素晴らしい修行者だ」と。「みんなは駄目なやつだ」と。
 そうじゃなくて菩薩の発想からすると、いやいや、菩薩って、衆生がいてなんぼだから。どんな偉そうなこと言ったってさ、衆生がいなかったら菩薩になれないからね。例えば「さあ、菩薩道やるぞ! みんな救ってやるぞ!」とか言って戸を開けたら「あ、誰もいない」と(笑)。「誰もいない国に生まれちゃった」と(笑)。修行はしやすいけど菩薩道できないよね。「どうか衆生、現われてください!」と。だから衆生さまさまなんです。さまさまって変な言い方だけど(笑)。衆生がいてこそ修行ができる。衆生がいてこそ自分の修行が進むと。衆生がいてこそ菩薩道ができると。なんてありがたい相手なんだと。このような、素直な、あるいは感謝の心を持って、全衆生をね、もちろん法友もそうだし、修行してない一般の、つまり人間も、もちろん人間以外の生き物含めてね、そういう目で見なさいと。

 はい、じゃあだいぶ時間が過ぎちゃいましたが、じゃあここもちょっとだけ最後に少し瞑想しましょうね。はい、今の話について、覚えているところだけでもいいので、少し瞑想しましょう。

(瞑想)

 はい、では瞑想終わりましょう。はい、じゃあ、だいぶ時間過ぎましたので、ここで今日は終わりにしましょう。

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