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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(19)


                            1912年8月31日
                            カンカルにて

 親愛なるテージュナーラーヤン[スワミ・シャルワーナンダ]へ

 8月21日付けのあなたの手紙を受け取りました。わたしはあなたの新しい知らせをすべて聞き、嬉しく思っています。人生にはトラブルがつきものです。トラブルは常にありますが、智慧ある者は混乱の中でも着実に自分の仕事を成し遂げることができます。「真の賢さとは、今生と来世における人の目的を達成するために奉仕することです」……。

 もし心が純粋なら、物事はすべて好ましいものとなり、トラブルは起こりません。すべてのトラブルの根は心なのです。心のゆがんだ人にとっては、どんな物事もうまくいきません。日が経つにつれて、わたしは師のおっしゃった次の言葉の意味をよりはっきりと理解します。
「もし人が心と言葉を一致させることができるなら、彼はどんな形の霊性の修行においても成功を得るだろう。」
 すべてのサーダナーにおいて最も大切なことは、心と言葉を一致させることです。内側と外側が一致しなければ、あらゆる形の落ち着きのなさやトラブルが起きてしまいます……。

 わたしがアメリカにいたときに起こった出来事について語りましょう。わたしはそのときニュージャージー州のモントクレアのウィーラー夫人の家に滞在していました。わたしは中年の女性がプラーナーヤーマ[呼吸法]を教えているという話を耳にしました。彼女は二レッスンで五ドルを受け取っていました。ウィーラー夫人は彼女を自分の家に招き、わたしに紹介しました。わたしは彼女と多くの話題について話をしました。彼女は良い人のように見えました。あとでわたしはニューヨークでスワミジと会ったとき、ついでにその女性について彼に話し、こう尋ねました。
「この女性はあなたの生徒なのですか? 彼女はあなたの名前で商売をし、お金を受け取っていますが、いいのですか?」
 スワミジはこう答えました。
「君はたった一人見ただけが、そのような人がたくさんいるのだよ。彼女が生活のためにいくらかのお金を稼ぐのは悪いことではないよ。彼女はわたしの講義かクラスを受けたのかもしれない。顔を見れば分かるだろうが、彼女の名前は思い出せない。そうやって彼女が生活費を稼ぐのは、なんら問題ないことだよ。」

 スワミジがその女性に対して表わした慈悲と哀れみの態度によって、わたしは自分の狭量な態度を恥ずかしく思いました。スワミジの心の広さは他に例を見ないものでした。そういうわけで彼は本当に素晴らしい!……

 あなたの質問は、両方ともとても難しいものです。一つ目の質問はシュラーダの儀式、つまり葬儀のことでしたね。あなたがもしマハーバーラタのシャーンティ・パルヴァンを読めば、そのことについてよく知ることができるでしょう。そこではユディティシュラ王が質問し、ビーシュマがそれに応じて答えています。ピトリローカと呼ばれる異なった世界、つまり死者の魂の世界があり、彼らに敬意を表してシュラーダの儀式が行なわれます。聖典の中で命じられているように、亡くなった先祖の親類がこの儀式を行ないます。この世を去った魂がそれを意識しているかどうかは分からないにもかかわらず、彼らはその魂が喜んでいるだろうと考えて喜びます。したがって、彼らの死後、微妙かつ近い関係が、彼らと亡くなった先祖のあいだに築かれます。

 シュラーダという言葉はシュラッダーという言葉から派生したものです。他の世界に対する信がまさにシュラッダーです。その魂たちはこの世界を離れたあとでさえまだ存在しているので、彼らの子供たちが彼らのために祈ったり儀式を行なうことはごく自然なことです。子孫たちがこの世を去った魂に食べ物や飲み物を供養すると――その魂はカルマにしたがってどの世界にいようと――喜びます。シュラッダーが微妙な関係を維持するのです。わたしはこれが聖典の意味するところだと思います。もしあなたがシュラーダの論理を扱ったスムリティの経典のその箇所を読めば、それについてもっと知ることができるでしょう。

 あなたの二つ目の質問は、ヴェーダの超人間的な起源に関することでしたね。これはそれらが人間によって書かれたものではないということを意味しています。誰もそれらを作り出すことはできず、したがって、それらは永遠です。だから、もしあなたがヴェーダという言葉の意味を理解するなら、すべてははっきりとするでしょう。ヴェーダとは智慧を意味します。智慧とは何でしょうか? 「智慧には二つのものがあります。一つは経典から生じるもので、もう一つは識別によって明らかになるものです。シャブダ・ブラフマン[言葉のブラフマン]、つまりヴェーダは経典から得られる智慧で、パラーブラフマン[究極のブラフマン]は識別によって明らかになります。

 だから、もしあなたが、智慧とは人間によって生み出すことはできず、永遠なものであると認めるならば、そのときあなたは言葉のブラフマン、つまりヴェーダ、経典から来る智慧は永遠であり、人間によって作られたものではないとおのずと認めるでしょう。もちろん、それらは書物ではありません。それらは言葉――ある特定の考えを表わすために使われたある特定の象徴の集積です。同様に、御名とその御名の所持者を分けることはできません。御名は多くすることができますが、その御名の所持者はお一人です。同様に、ヴェーダとして知られている言葉の集積は究極のブラフマンの象徴ですが、それと不可分に結びついています。この点に関しては、また別の機会に明確にしようと思います。今日はここまでにしましょう。

                             愛と最高の願いを込めて
                             トゥリヤーナンダ

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