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「利他のために身をささげよ」

【解説】

 さあ、次も前回からの引き続きで「自他転換」についての教えが続きますが、今回のところは、ちょっと読み方が変わってきます。即ち、

私=真理に基づいた自分の意思

汝=自分の心

この者=自我意識

 このような意味に頭の中で変換して読んでみて下さい。
 つまりこの部分は、真理に基づいた自分の意思が、自分の心に対して、自我意識(エゴ)の扱い方を説いているところなのです。

 この部分は、まず全体をサーッと載せて、その後で改めて詳しく解説するというふうにしたいと思います。

【本文】

 またこの者は安楽から転落せしむべきであり、常に我々(衆生)の苦難を背負うべきである。我々全ては、この者によって百度も輪廻の苦難を受けた。

 汝が自己の利益を追求している間に、無量のカルパが過ぎ去った。その大きな骨折りによって、汝はただ苦しみだけを得た。

 そこで、私の懇請にしたがって、汝は遅疑なく、それ(利他行)のために身をささげよ。それが後に有利となることを、汝は見るであろう。なぜなら、ムニ(聖者)の言葉は確かであるから。

 もし過去に汝によってこの(利他の)行為がなされたならば、仏陀としての至上の安楽に達し他であろう事はもちろん、かかる(惨めな)状態は現われなかったであろう。

 それゆえ、無関係の赤白二滴において、汝が自我意識を構成したように、それを他人においても認識せよ。

 他人のために密偵となれよ。そして、この身に何でも(有用と)認めたものがあれば、その一つ一つを取り出して、他人のためになることを行なえ。

 これ(自分の自我)は安らかで、他は苦しい。これは尊く、他は卑しい。また他は働き、これは働かない。--と知ったならば、汝は自我に嫉妬を発せよ。

 自我を楽から振り放せよ。そして他人の苦しみに当たらせよ。
 「この者がいつ何をなすか」と、この者の欺瞞を省察せよ。

 他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。この者の過失は、わずかであっても、マハーム二(大聖者)の前に明らかにせよ。

 他人の大きな名声を称えて、この者の名声を曇らせよ。卑しい奴隷のように、衆生の用にこの者を供えよ。

 この者は過失に満ちている。だから偶発的なわずかの徳でほめるに値しない。この者の徳を誰も認識しないようになすべきである。

 要するに、自我のために汝が他人を害した--その害悪の一つ一つを、衆生を利益するために、自我にこうむらせよ。

 この者に饒舌となるような力を与えるな。恥じらい深く、臆病に、内気に、花嫁のような状態にあらしむべきである。

 「かようになせ、かく振舞え、これをなすな」と、かようにこの者を汝の支配下に置くべきである。そして命令に背くときは、罰すべきである。

 ところで、心よ。私がかく言っても、汝はこれを実行しないであろう。そこで私は汝を罰するであろう。全ての過ちは、汝に依存している。

 私に見られて汝はどこに行こうとするか。私は汝の全ての傲慢を打ち砕く。私が汝によって滅ぼされた時期(もあったが)、それはすでに過ぎ去ったことで、関係がない。

 「今でもなお私の自利が遂げられる」という期待を、汝はここで捨て去れ。私は多くの艱難を顧みず、すでに汝を他人に売り渡した。

 もし私が怠惰のために、汝を衆生に与えないなら、汝が私を地獄の獄卒の手に渡すであろうことは、疑いがない。

 またそのとおりに、汝は幾度か私を(地獄の獄卒の手に)渡したので、私はこれまで長く苦難を受けた。その敵意を思い起こして、私は自利の奴隷である汝を殺す。

 もし自我の愛が汝にあるならば、自我を愛してはならない。
 もしこの自我が守られねばならないならば、守るのは正しくない。

【解説】

 それでは、最初の方から解説をいってみましょう。

 まず、自我に対して、衆生の苦しみを背負わせるべきだ、といっています。
 今まで、我々--それは自分も含めて、世界の衆生たちは、この「自我意識」というとんでもないやつのために、数え切れないほどの、輪廻の苦しみを味わわされてきたのです。

 「汝が自己の利益を追求している間に、無量のカルパが過ぎ去った。その大きな骨折りによって、汝はただ苦しみだけを得た。」

--これは大変耳が痛い、そして心に刻みつけなければならない言葉ですね。
 よって今すぐに、心を入れ替え、自我を捨てて、利他行に身をささげなさいと、自分の心に言い聞かせているわけですね。そしてそれこそが、実は、自分も他者も至福に至る道なんだと。それはお釈迦様をはじめ、多くの聖者が説いてきた道なんだと。

 「そこで、私の懇請にしたがって、汝は遅疑なく、それ(利他行)のために身をささげよ。それが後に有利となることを、汝は見るであろう。なぜなら、ムニ(聖者)の言葉は確かであるから。
 もし過去に汝によってこの(利他の)行為がなされたならば、仏陀としての至上の安楽に達し他であろう事はもちろん、かかる(惨めな)状態は現われなかったであろう。」

--もし遥かな昔から、我々が自我の奴隷とならず、利他行に身をささげていたならば、今頃は仏陀として至上の安楽を得ていたであろうし、今のような、悪業と苦しみにまみれて輪廻を浮沈し続ける惨めな状態はなかったであろう、と言っているのです。
 だから我々はもちろん、今からでも心を入れ替えなければなりません。今までは多くの悪縁に阻まれ、無智に覆われ、この真実を理解することができませんでした。しかし今我々が、人間として生まれ、仏教と出会い、この入菩提行論と出会い、このような教えを目にする機会に遭遇したということ自体が、我々の生き方を、地獄から仏陀へと180度変える、類まれなチャンスなのです。

 そしてこれ以外にも、ここまで説かれてきた「自他転換の教え」のいくつかが、また繰り返されていますね。全部は解説しませんので、その辺はこの第八章全体を見て、修習し理解してほしいと思います。

 「自我を楽から振り放せよ。そして他人の苦しみに当たらせよ。
  『この者がいつ何をなすか』と、この者の欺瞞を省察せよ。」

--ここも厳しい言葉ですが、これくらいやらないと、自我はなかなか破壊されないんですね。
 非常にずるがしこく、悪意に満ちた敵として、自我意識を見るべきです。そして自我意識に楽を経験させることなく、他人の苦しみを積極的に背負わせます。
 そしてこの自我意識が、少しでも真理から外れた行動をとらないように、監視し続けるのです。

 「他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。この者の過失は、わずかであっても、マハーム二(大聖者)の前に明らかにせよ。」

--これもすばらしいですね。
 「他人によってなされた過失までも、この者の頭上に落ちさせよ。」--これには、二重の意味があるでしょう。その一つは、カルマの法則についてですね。カルマの法則からいけば、悪業の果報は、もちろん悪業をなした本人にのみ返ります。これは絶対的な法則です。それはわかっているのですが、ここにおいては、他人がなした悪業の果報さえも、自分に返りますように、と言っているわけですね。
 もう一つは、現実的な果報ですね。たとえば誰かが何かの悪業や失敗を犯して、現実的に何か困った状態になったとします。その場合、その困った状態を、全部この自分の自我に引き受けさせろ、ということですね。
 そして逆に、自分が何か過ちを犯した場合は、決してあいまいにしたり隠したり、あるいは他人のせいにしたりすることなく、聖者の前に明らかにせよ、ということです。

 「他人の大きな名声を称えて、この者の名声を曇らせよ。卑しい奴隷のように、衆生の用にこの者を供えよ。
 この者は過失に満ちている。だから偶発的なわずかの徳でほめるに値しない。この者の徳を誰も認識しないようになすべきである。」

--普通、人間のエゴは、これとは逆の方向に働きますね。自分の徳は、わずかであっても、みんなに知ってほしいと思うし、それと相対的な意味で、他人はできるだけ称賛されないように、という汚れたエゴの性質があります。
 それを全く逆転させた意識の訓練をここで提示しているわけですね。これも、思考訓練として、実際に実践すべき教えです。そして自分の徳を隠しつつ、ひたすら、奴隷のように、衆生の利益のために働くのです。

 「要するに、自我のために汝が他人を害した--その害悪の一つ一つを、衆生を利益するために、自我にこうむらせよ。」

--自我意識(エゴ)によって、自分は過去において、他人に対してさまざまな悪しき感情を持ち、また実際に他者に被害を与えてきました。そしてこのエゴをほうっておくなら、これからも同様のことをするでしょう。だからその修正の荒療治として、今まで自分が他者に加えてきた悪しき思いを自己に向け、自己を他者の召使のようにみなさなければいけないわけです。

 
 「この者に饒舌となるような力を与えるな。恥じらい深く、臆病に、内気に、花嫁のような状態にあらしむべきである。
 『かようになせ、かく振舞え、これをなすな』と、かようにこの者を汝の支配下に置くべきである。そして命令に背くときは、罰すべきである。」

--この辺は、第五章「正智の守護」で展開されたような、正念正智ですね。それをもっと強烈に言っていますね。自我が真理の教えから外れないように監視し、その命令に背くときは、自ら罰しなさいと。

 「ところで、心よ。私がかく言っても、汝はこれを実行しないであろう。そこで私は汝を罰するであろう。全ての過ちは、汝に依存している。」

--これは大変おもしろいですね。「真理を知る正しい意識」が、「自分の心」に対して、自我を徹底的に痛めつけ、捨て、壊せと、ひたすら命令してきたわけですが、しかし、「そうはいっても、お前は結局それを実行しないだろうな」と、いきなりあきらめているわけです(笑)。よって「真理を知る正しい意識」は、その自我にとり憑かれ、自我の言いなりになっている「自分の心」を、自我もろともに罰しようというわけです。結局、お前がいつも自我の言いなりになっているから、あらゆる過失がおきるんだ、と。

 「『今でもなお私の自利が遂げられる』という期待を、汝はここで捨て去れ。私は多くの艱難を顧みず、すでに汝を他人に売り渡した。」

--汝(すなわち自分の心)を、他人に売り渡した、という表現は強烈ですね。
 他人に売り渡してしまったのだから、もうお前(自分の心)は自由ではないんだよ、他人の幸福のために働かなければならないんだよ、ということですね。

 「もし私が怠惰のために、汝を衆生に与えないなら、汝が私を地獄の獄卒の手に渡すであろうことは、疑いがない。
 またそのとおりに、汝は幾度か私を(地獄の獄卒の手に)渡したので、私はこれまで長く苦難を受けた。その敵意を思い起こして、私は自利の奴隷である汝を殺す。」

--自利、利己主義、自我意識の奴隷となってしまっている自分の心。この自分の心は、我々を地獄の獄卒の手に渡し、我々は地獄で散々苦しめられてきたのです。
 だからその敵意を思い起こし、自分の心を自由にさせずに、他者に売り渡すのです。そして最後は、そのような自分の心を殺すというのです。--もちろんこれは、解脱、あるいは自他の区別の超越の比喩ですね。この辺は、この強烈ながら深い意味を持つ美しい一連の表現の真意を、柔軟な心と智慧をもって読み取らなければなりません。

 「もし自我の愛が汝にあるならば、自我を愛してはならない。
  もしこの自我が守られねばならないならば、守るのは正しくない。」

--これも修辞的で美しい真実の教えですね。

 しかし意味が取り違えられるといけないのでもう少し噛み砕いて書きますと、

「もし自己を愛する(=自己の幸福を願う)ならば、『自己を愛する』という行為は、逆の結果(自己の苦悩)を生むので、自己の幸福を願う者は、自己を捨てなさい。
 もし自己を苦悩から守りたいならば、『自己を守る』という行為は、逆の結果(自己の苦悩)を生むので、自己を苦悩から守りたいと思う者は、自己を守ることをやめなさい。」

 この辺は、前にも書きました、ダライ・ラマ法王の、『真のエゴイストは、利他の実践をする』という言葉にも通じますね。

 また、『ラーマクリシュナの福音』にも、こんな言葉があります。

『私の幸せ、いつ来るの?
 それ、その私を捨てたとき。』

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