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クンサン・ラマの教え 第一部 第四章「カルマ:原因と結果の法則」(7)

 ある日、ゲシェー・ベンのもとに多くの後援者が訪れることになった。そこでその朝、彼は、部屋の祭壇をいつもより念入りにきれいに整えた。しかし、自分の動機を調べてみると、そこには後援者たちによく思われたいというけがれが含まれていることに気づいた。そこで彼はゴミや砂を手につかむと、祭壇中にそれをぶちまけた。そして拳で胸を叩いて、自分に言い聞かせた。
「くわばらくわばら。気を付けていなくては。」
 やって来た後援者たちは、部屋のひどい有様に驚き、ゲシェーに聞いた。
「いったいどうしたというんです? 泥棒でも入ったんですか?」
 ゲシェーは答えた。
「その通り。心に泥棒が入ったのさ。」
 この話を聞いた偉大な密教行者パタンパ・サンギェーは、こう言って彼を称えた。
「チベット広しといえども、このカダム派ゲシェーほどのすごい修行者はおるまいな。彼は、悪趣に引きずり込もうと自分を脅かしている魔の頭上に、ゴミをぶちまかしたのだ。」

 このように、常に自分の心を注意深く観察しなさい。わたしたちのような普通の人間は、悪しき動機や考えを全くしないことは不可能である。しかし過失であることにすぐに気づけば、懺悔し、二度としないと誓うことで、過失をなくすことができる。

 別の日に、ゲシェー・ベンは、ある後援者の家にいた。後援者が席を外したとき、ゲシェーはふと、「そういえばお茶を切らしていたな。ちょっと失敬して、もらっていこう。庵に戻ったとき、少し飲みたいからな」と思った。
 そしてお茶の袋に手を入れた瞬間、自分がとんでもないことをしようとしていることに気づいた。そこで彼は大声で後援者とその家族たちを呼ぶと、こう言った。
「わたしが何をしているかを見ておくれ! この手を切り落としておくれ!」

 アティーシャはかつて次のように言った。
「出家の戒に関しては、ほんの些細な過失によるけがれも犯したことはない。
 菩提心の修行においては、一つか二つの過ちを犯した。
 秘密真言金剛乗に関しては、幾度も過失を犯したが、過ちや破壊を一日でもそのままにしておくことはない。」
 アティーシャは旅をしているときでも、少しでも悪い考えが心に浮かぶと、すぐに持っている木製のマンダラを取り出して、悪しき考えを懺悔し、二度とそのような考えを起こさないと誓った。

 ある日、ゲシェー・ベンは、ペニュルゲルで行なわれた集まりに出席した。そこには多くのゲシェーが参加していた。しばらくすると、皆にヨーグルトがふるまわれた。ゲシェー・ベンは列の真ん中あたりに座っていたが、前の方に座っていた僧たちが、ヨーグルトをたくさんもらっていることに気づいた。
「あのヨーグルトはとてもおいしそうだが、同じ量だけもらえなそうだ。」
 この考えに気づいた途端、ゲシェー・ベンはすぐに自分を押しとどめて、「お前はヨーグルト中毒者だ!」と自分に言って、お椀を逆さにひっくり返した。
 やがてヨーグルトを配っていた男がやって来て、いらないのかと聞かれたが、ゲシェー・ベンは断り、
「悪しき心がすでにいただきました」
と答えた。

 このように自分の心をいつも調べていれば、善きことを行ない、悪しきことを断つことができ、心は改善され、考えは常に善きものになる。
 遥か昔、ラヴィという名のブラーフミンがいて、自分の心を常に調べていた。そして悪しき心が浮かぶたびに黒い小石を置き、善き心が浮かぶたびに白い小石を置いた。最初は置いた小石はすべて黒であったが、辛抱して対処法を修行し、善き行ないをなし悪しき行ないをやめることを根気強く続けることで、やがて小石は黒と白が半々になり、最後にはすべて白になった。このように、正智と用心による対処法を用いて善き心をはぐくみ、ほんの少し悪しき思いによっても自分を汚すことのないようにしなさい。
 今生においてあまり悪しき行ないを積み重ねていなくても、無始の過去から輪廻において積み重ねてきた行ないがどのようなものかを知ることはできない。また、現在経験していることが過去のどのような行為の結果によるものなのかを正確に理解することもできない。それゆえ、今、善を行ない、空を悟る修行に全身全霊をかけている者であっても、苦しみにさいなまれることがある。ある行ないの結果が今は現われていなくても、その結果は来世三悪趣に落ちるというかたちで現われることもある。しかし、適切な対処を行なうことで、今生においてその結果を現象化させ、消滅させることができる。

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