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「永遠でない友のために」

【本文】

 数千生の間(無限の輪廻を経巡っても)、愛するものに再びまみえることはできない。とすれば、いかなる無常の者が、無常のものに対して愛著を抱くべきか。

【解説】

 我々人間が最も陥りやすい、異性への執着についての検討がまず述べられていますね。
 たとえば恋人と会い、デートし、それぞれが家に帰ったとします。この二人が、明日も会うことができるという保証は、どこにもありません。どちらかが死ぬかも知れません。死なないまでも、何かの理由により、もう一生会えないかもしれません。
 そして死んだ場合、もう何生も会えないかもしれません。何度生まれ変わっても、会えないかもしれません。というのは、我々は多くの衆生と無数の縁があるからです。また、縁というのは無常なので、仮に来世で会えたとしても、今度は憎みあう敵同士として会うかもしれません。
 このように、自分も無常であり、相手も無常であり、我々の世界もすべて無常なのです。よって愛著を抱く意味はない、ということですね。
 愛著するということは、期待があるということですね。たとえば好みの異性と出会い、一目ぼれしたとします。しかしそこでもしその異性と、この後何億年も会えない、ということが確定していたら、おそらくそこでその異性に強く執着することはないでしょう。
 結局人間は、自分の欲望や寂しさを満たしてくれる相手を探しているだけなのです。だから現代のように、ころころと恋人を変える、ということが成り立つわけです。欲望の条件に合えば愛著する。合わなければいらない。それがエゴの選択です。
 しかしもう一つ、我々の心は無智なので、愛著の習性を永く続けることによって、それは「取」、すなわち執着、とらわれへと変わりますね。相手が自分に苦痛を与えるとわかっていても、執着の習性によって別れられないとか、もう相手は死んでいるのに、執着の習性によって愛著し続けるとか。
 だからまず我々は、「現実」を認識し、それを自分のエゴに言い聞かせなければなりません。

 実は昔、私も、この思索訓練を何度もやったことがあります。たとえばある異性と会い、彼女の魅力を発見し、好きになったとき。そこで彼女と別れ、道を歩いているときに、思索するわけです。私は今後、彼女と再び会えるだろうか。会えるかもしれないが、一生会えないかもしれない。一生どころか、もう何生も会えないかもしれない。だとしたら、もう何生も会えない相手に愛著したり、悶々と思い悩む意味があるのだろうか?--全くナンセンスだ。--こうして、瞬間的に愛著を断ち切った経験が何度もありました(笑)。

 この考えは、発展させると、もう二度と会えないかもしれないのだから、この今の瞬間の出会いを、非常に貴重なものと考える発想にもつながります。いわゆる「一期一会」ですね。この貴重な、一生に一度かもしれない出会いを、悶々として苦を生み出す愛著に費やす意味はありません。いかに自分と相手の成長のためにこの出会いを使うか、ということを考えます。または、その貴重な出会いそのものを喜びます。そして何のとらわれも残さずに、別れるのです。
 今日、別れた人と、もう何億年も会えないかもしれない--これは「現実」なのです。そのような思いを常に持ち、何にも執着せず、風のように生きることです。

 もちろんこれは、異性だけではなく、あらゆる執着の対象に対してもいえることですね。

 
【本文】

 彼(愛人)にまみえなければ、悲しみに陥る。そしてサマーディを保つことができない。また、まみえても満足しない。渇望によって、前と同様に悩まされる。

 彼はものを如実に見ない。愛人との会合を願って、(輪廻の生存を)嫌悪する気持ちを失う。(そしてしばしの別離に対しても)激しい憂いに焦がされる。

 かような思いにふけって、彼の短い寿命は、刻々に短く過ぎ行く。永遠でない友のために、永遠なる法を失う。

【解説】

 続けて、異性への愛著のデメリットが考察されます。

 愛著の対象に会えないとき。会いたいという思いによって心は乱れ、サマーディどころか、静かな心で瞑想を保つことすらできないでしょう。
 では、会えばいいのかというと、会ったら会ったで、満足して修行できるというわけではありません。欲望には限りがないので、次から次へと、対象への欲求と期待と不安と不満が増すでしょう。あるいは嫉妬や嫌悪など余計な感情も増したりして、心は悩まされ、寂静どころではなくなってしまいます。

 また、愛著の力によって、目が覆われ、物事を正しく見ることができなくなってしまいます。歴史を見ても、女性への執着によって判断を誤って滅んだ王の話などもよくありますし、現代社会においてもそうですね。
 あるいはそういう世俗的なことのみならず、真理の法の理解という点においてもそうです。愛著によって、この世の無常性とか、苦しみとか、実体のなさとか、そういう教えを理解することができなくなってしまいます。そして、輪廻の生存の苦を厭い、解脱へ向かうという基本的な教えの土台さえ消えうせてしまい、修行しようという気持ちさえ弱まってしまうでしょう。

 そして愛著が強まると、相手と少し離れるだけでも心は憂い苦しみ、会えば会ったで心は期待と不安に揺れ、そこから派生する欲望、嫌悪、嫉妬等に悩まされる・・・そんな思いにふけっている間に、この貴重な人生--自分と衆生の悟りのために使わなければいけないこの人生の貴重な時間が、無駄に失われていくのです。

 「永遠でない友のために、永遠なる法を失う」--これもいい言葉ですね。結局、必ず死ぬ相手。いや、それどころか、数ヵ月後には別れてしまうかもしれない相手。そんな相手に心奪われることによって、貴重な教えを学ぶ時間、考える時間、実践する時間を失い、それにより、悪くすれば、今生で修行できる機縁を失ってしまう危険性だってあるのです。あるいは、相手が悪しきカルマを持っていた場合、それに愛著することによって自分も巻き込まれ、修行や教えとの縁がなくなってしまう危険性もあります。

 --これらの教えは、ちょっと厳しく感じるかもしれません。改めて断っておきますと、この論書は主に、真剣に自己と他者の悟りを目指す、菩薩を目指す者に対して説かれた教えといっていいでしょう。ですから真剣にその道を歩こうとする者は、こういった教えを敬遠せずにしっかりと受け止め、思索し、実践するべきですね。
 しかし、自分にはまだ受け入れられない、まだ自分はそこまでやろうとは思わない、と思う人は、もちろん、自分の素養に合わせて、受け入れられる部分だけを受け入れたらいいと思います。

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