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カル・リンポチェの生涯(11)

◎ラマ・ギャルツェンの使命

 一九五〇年代には、カル・リンポチェは隠遁生活を続けるためにシッキムへ行くことを希望していたが、カルマパは彼にブータンに行くようにと依頼した。カルマパは、パドマサンバヴァの存在と強く関係付けられている国に、その輝きを取り戻すためのダルマを必要としていた。そこでカル・リンポチェはしばらくの間、ブータンにて僧院の管理を担った。それから彼はインドに行くと、ダルハウジー、ツォ・ペマ、マディヤ・プラデーシュ、そして最後にソナダにおいて、いくつかの隠遁所を設立した。

 一九六〇年代初頭、チベットのラマが西洋で教えを説くなどと誰も夢にも思っていなかったころ、カル・リンポチェは冗談めかしてこう言った。

「赤毛の人々の国にダルマを広める必要はないのだろうか。」
(※赤毛の人々……ときどき、チベット人が西洋人のことを指すときの表現。彼らの赤みを帯びた、またはブロンドの髪がアジアでは目立っていたため)

 ときにカル・リンポチェの冗談は予言となった。

 ラマ・ギャルツェンは、カル・リンポチェの甥であり弟子であり、また侍者、秘書でもあった。彼は師にこう尋ねた。

「あなたはそちらへ出向くおつもりですか?」

「いいえ、わたしは冗談で言っているだけですよ。」

と、カル・リンポチェは答えた。
 しかし、これが取るに足らない冗談ではなかったと、将来明らかになるのだ。

 しばらくすると、カル・リンポチェはカルマパに会うためにルムテクを訪ねた。その会談中、彼らは西洋へダルマを導入する際に想定される問題について話し合った。その場所についての正確な知識を得るには、西欧諸国を概観すべく、誰かを派遣することがベストであるという結論に至った。よって、彼らはラマ・ギャルツェンにこの役目を引き受ける意志があるかを尋ねた。彼はダージリンで英語を学びはじめていたが、基礎的な語学のことを除いて、「赤毛の人々」の遠く離れた国のことについては何も知らなかった。しかし、自分の師が望まれていたので、快く引き受けた。

 そのころチベットの人々は、西洋に対してぼんやりとした印象しか持っていなかった。その地は彼らにとってあまりにも遠く離れていたので、誰一人として帰還したことがないという、ほぼ想像上の世界だった。つまりそこへ行くことは、姿を消すということであった。そして、ラマ・ギャルツェンと親しい人々は、彼がこの大いなる旅の準備をしていると知り、驚いた。一体どんな奇妙な理由で、彼はこのような常軌を逸した冒険を引き受けたというのか?

 旅立ちの理由はただ一つ――カル・リンポチェとカルマパによってなされた要請だからだ、と彼は率直に答えた。

 一九七〇年、彼は最初にイギリスへと向かった。この時点まで、彼は完全に戸惑っていたわけではなかったそうだ。そこはインドからはずっと陸続きだったからだ。それが心強かったのだ。しかし、アメリカは思った以上のストレスを感じた。その地にたどり着くには、無限にも思える海を渡らなければならなかったのだ。その上、全てのものがとても奇妙に見え、インドと比べると、昼が夜で、夜が昼のようだった。

 ラマ・ギャルツェンは、ニューヨーク、テキサス、ミネソタ、そしてオクラホマなどの多様な場所を訪れ、アメリカの地に一年間、滞在した。そこでは禅宗とヒンドゥー教は少しばかり教えられていたが、チベット仏教は教えられていなかった。彼には多くの友人ができた。そして彼は人々と話しているうちに、人々がチベットの文化を全く知らないだけでなく、時にはチベットがどこにあるのかさえも知らないということを思い知らされた。そして彼はとりわけ、西洋のパラドックスを理解し始めた――東洋人には信じがたいほどの物質的な豊かさには、強烈な精神的不安が伴っているということに。彼の新しい友人の多くは無宗教で、彼らの模索の大部分は漠然としたものだったが、何らかの必要性を感じているように見受けられた。彼はブッダ、グル、ダルマなどに関する概念を説いた。仏教においては、すべての衆生はブッダの境地の種子、つまり悟りの潜在性を有しているという見解を、彼はとりわけ強調し、その思想に西洋人は若干の興味を示した。

 彼の観察結果は、以下の結論に導かれた。――チベットのダルマは西洋が探し求めている答えとなり、利益をもたらすことは確かであると。しかし、それは悟りを得たラマによって教え説かれるべきである。学者は、何の利益にならないものを伝播し、その上、道に迷うからだ。

 アメリカにて、ラマ・ギャルツェンが築いた友好関係の輪は、とても堅かった。彼のホストを務めた多くの人々は、彼のことを自分の息子のように見なしていた。そして彼らは、彼が大学で学べるように学費を出し、共にいることを望んでいたのだった。
 しかし彼は、去れば人々が悲しむということをよそに、インドに帰国することを決めた。この時期に任務の中で見出したものを、報告する必要があったからだ。

 インドに戻って、彼はカルマパやカル・リンポチェと旅の感想を共有し、学識だけのラマでは西洋へ効果的にダルマを伝えることはできないという事実を強調した。完成したラマが必要だった。この問題を検討したのち、カルマパはこう断言した。

「カル・リンポチェが西洋に行くことができたなら、確実に数多くの恩恵をもたらすことでしょう。彼は真の菩薩であり、彼の悟りはとてつもなく偉大なものである。」

 そしてカルマパはカル・リンポチェに、この任務を引き受けるかどうかを尋ねた。

 カル・リンポチェはこう答えた。

「もしそれが衆生のためになることならば、旅立ちの覚悟はできています。たとえ病に倒れようと、はたまた死ぬことになろうとも。」

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