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M――使徒にしてエヴァンジェリスト(8)

第四章「インド人の見解――神へ明け渡すことがすべての善」(1)

 カルカッタのある信者がいつもミヒジャのアシュラムへたくさんの捧げものを送っていて、同居人たち皆のために、食べ物やその他のもので必要なものについて連絡をとり、彼ら全員の世話をしていた。今日手紙が送られてきた。彼は、今晩Mがルチを受け取ってくれるかどうか尋ねていた。手紙が読まれた。そしてMはこのように答えた。

「まあ、ちょっと見てみなさい。とても忙しいのに、彼の心はここにある。彼はみなの安否を尋ねている。彼は年配者たちを愛しているから、それほどの気遣いができるのだよ。(微笑んで)だが、これらを消化するための力がわたしのどこにあるというのだね? 
(あるバクタを呼んで)どうぞ、朝には米とミルク、夜にはパンとミルクがわたしの食事なのだと返事を書いておくれ。古いボトルの中に新しい葡萄酒を入れるのは正しいことかね? いいや、古いボトルには新しい葡萄酒を入れることはできないのだよ。新しいあて布は古い布に付けたりはしない。それを無理にしたなら、両方ともが無駄になってしまう。格言にこのようにある。

『だれも古いボトルに新しい葡萄酒を入れたりする者はいない。』(マタイによる福音書 第9章 17節)

『だれも古い衣服に新しい布きれを付けたりはしない。』(マタイによる福音書 第9章 16節)

 若い人たちが食べるものは老人には合わないのだよ。機械は疲れ果てているしね。若者は内部に大きく燃え上がる炎を持っている。バナナの木をまるごと腹に押し込んだとしても、消化されてしまうよ。若いころの習慣をずっと続けている人は、高齢期になると、若いころ取ったさまざまな食べ物によって、さまざまな疾患や消化不良などに悩まされることになる。年を取るにつれて、食べ物の制御が絶対的に不可欠になる。
(ある病気がちなバクタへ)どうぞミルクとご飯と少しのギーだけを食べるようにしておくれ。そうすれば、あなたの病気はすべて治るよ。食べ過ぎることが人の性質になってしまっている。もしお腹が膨れたように感じる食べ物が手に入らなかったら、何も食べなくてもよい。だが、シンプルな食べ物に喜びを感じるのが自然なことなのだよ。おいしい料理やご馳走がなぜ必要なのかね? すべての病気の根源は、食べ過ぎることだ。シンプルな食べ物を食べて、主の御名を繰り返しなさい。食物の制御は宗教生活の主要部分なのだよ。肉体の健康を保つことが、食事の唯一の目的だ。もし肉体の健康が食べ過ぎによって悪くなるとしたら、ダルマの実践は不可能だ。そのために、食物の問題には特別な配慮がなされなければならないのだよ。
 カードやライムは夏に効果的だね。過剰な量の甘いものは胃酸過多を引き起こす。多すぎるスパイスで味付けされた野菜もまた病気の原因になるのだよ。水と同じくらい薄いスープは望ましいね。タクルは一部の人々のために、雌牛のギーと米とミルクを規則としてお定めになられた。彼はよくおしゃった。

『これがリシたちの食べ物なのだよ。』」

 今日は食事の後、Mがブラフマチャーリーに大皿や小皿や調理器具の洗い方を教えている。ほんの少しの水を使って素早く仕事を終わらす方法――彼はそれを実演して教えている。Mは、最初に指で調理器具についているダルと野菜をふき取り、二番目に少しの水で洗って、三番目に土または灰をつまんでこすって拭き、四番目に小皿にいくらかの水を取って調理器具から土または灰を洗い落とし、最後にきれいな水で仕上げの洗浄をするように指導している。こうして、人は水だけではなく労力も節約し、調理器具の消耗も抑えられるのである。

「水はお金を払わなくても得られる。たとえそうでも、軽率または無駄に使うことは正しくないことだね。それによって、無駄遣いというものが人の性質になってしまう。水に代金を支払う必要がないというのは本当だが、性質への反応は計り知れないものがある。それだから、浪費も物惜しみもするべきではないね。人はこのようにして行為すべきなのだよ。水は、台所用品をきれいにするのに必要な分、あるいは沐浴に必要な分だけ使うべきだ。
 ところで、洗うときは台所用品を駄目にしたり壊したりしないように、ごしごしと激しく擦り過ぎてはだめだよ。(笑い)これは正しくない。ある家庭に召使いがいた。とても仕事を嫌っていてね。彼は食器類の汚れをちゃんと落とそうとせず、ただ水で洗い流していただけだった。ある日、主人が彼に厳しい仕事を課した。彼は怒って激しく磨き過ぎて、大きな皿が壊れてしまった。(みな大笑い) 
 皿がどのようにして壊れたのかを尋ねたとき、召使いはこう答えた。

『わたしはそれを熱心にこすって磨きました。あなたはご自分でわたしにそうせよと頼まれたではありませんか。それで壊れてしまったのなら、わたしに何ができるのですか?』(大笑い)

 そのようなことも起ってはならないことだね。
 タクルはあらゆるところに目をお持ちだった。彼のもとへ行ったバクタは、彼の身をもった実演によって訓練されたのだよ。彼は、『塩の帳簿をつけることのできる者は、氷砂糖の帳簿もまたつけることができる』とおっしゃらなかったかね? 日常生活の単純な作業においていつも軽率でだらしのない者は、宗教生活において進歩するのに苦労するだろう。人が主に到達するのは、まさにこの心を使ってである。もし心に不誠実または間違った考えがあるのなら、彼は主に到達することができない。なぜなら彼は大釜にひびを入れてしまったからである。
 ヨーゲン・スワミ(スワミ・ヨーガーナンダ)は、タクルにこっぴどく叱られた。タクルは彼におっしゃった。

『商人は、ダルマの化身であるユディシュティラなのかね? 商人がくず物を売りつけようとしてくるのは当たり前だよ。お前はここにそれを持ってくる前になぜしっかり調べなかったのだね? お前は頭に目がついているのか?』

 すぐに彼は戻っていって、頼んで新しいものに交換して持ってきた。
 用を足しに行ったあとに、ガンガーで沐浴している人がいた。タクルはそれに気がつかれ、そのようにしないように告げて、こうおっしゃった。

『ここに水瓶がある。それを持っていって、ガチョウの池の水を汲んで、それで洗いなさい。ガンガー・ヴァリ、ブラフマ・ヴァリ――つまりガンガーの水はブラフマンそれ自身なのだ。尻を洗うために使ってはいけないよ。』

 ある人がパンチャヴァティに傘を置き忘れた。彼がタクルの部屋へ戻ってきたとき、タクルは厳しい口調で彼におっしゃった。

『こいつ(タクルご自身のこと)は布を体に巻きつけておくことができないが、それでも絶対にそのような間違いは犯さないよ。』

 人生全体が宗教的生活、すべての仕事が宗教的実践であるべきなのだよ。少しの間宗教を行なって、その後にはそれと正反対のことをする――ということをしてはならないよ。食べていても、歩いていても、眠っていても、夢を見ていても、数珠を繰っていても、集中していても、礼拝していても、あるいは経典を読んでいても――あらゆる状況において、”神の悟り”という唯一の思考、唯一の理想という中心点の周りに心をとどめておくべきなのだよ。」

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