yoga school kailas

9月27日読書会 「ダンマパダ」その1

ヨーガスクール・カイラス 勉強会より

9月27日読書会 「ダンマパダ」その1

※いずれ全文をまとめて本にする予定ですので、ご期待ください。

先生「まあこれは原始仏典、スッタニパータとかと同じ原始仏典ですね。漢訳では、中国とかではよく法句経っていう言葉でよく知られています。で、どちらかというとこれは、様々なお釈迦様の教えのエッセンスを集めたようなものですが、欧米とかでは物凄くこれは普及していて、まあ世界で一番知られている仏典と言っても過言ではないぐらいのものなんです。このダンマパダ。
 で、それだけの、まあ、なんていうかな、内容的素晴らしさ、それは内容的素晴らしさもそうだし、説き方の美しさっていうか、それも凄く評価されている作品ですね。

 はい、じゃあ、一番最初の第一章、『ひと組みずつ』というのを今日はやってみたいと思います。じゃあ、T君、読んで下さい。」

T君「ひと組みずつ。ものごとは心にもとづき、心を主とし」

先生「あここはアルジの方がいいかなアルジの方が」

T君「心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。---影がそのからだから離れないように。」

先生「はい。まあ、この辺は読んで字のごとくだね。

 全ては心ですよと。
 心こそが、全ての主であって、すべては心によって作り出されるんだよと。つまり、誰かもし苦しんでいるとしたら、それはその人の心が、一番最初の原因なんだよと。あるいは喜んでいる人がいたら、それはその人の心が原因なんだよと。これについて、K君、どう思いますか」

K君「いやー、もう、唯物論の対極にある考え方だなーって」

先生「あぁそうだね。んー。…………どうしたの(笑)?」

Tさん「どうしたの(笑)?」

先生「どうしたの(笑)?」

Tさん「Nちゃんどうしたのーー(笑)?」

先生「何が、何がウケたの。」

Nさん「だって、そんな高度な言葉使う人、あんまりいないから」

みんな (笑)

先生「あ、そういうこと(笑)。」

Tさん「良かったね」

先生「科学者目指していたからね。……でもそうだね。確かに、あの、でもこれは大雑把に言うと、その、西洋と東洋の科学の違いだね。あの、科学っていう言葉っていうのは、決してその、唯物論的なものだけじゃなくて、例えば魂の科学っていう本があるように、東洋っていうのは凄く、心理的な科学っていうか、あるいは霊的な科学っていうか、それをどんどん追求してきたわけですね。その一番中心的なのが、仏教でありヨーガであるわけだけど、結局その、大きなその、大元の考え方の違いっていうのは、西洋で発展した科学っていうのは、まず全ては物質的な、まず働きがあると。で、それを自然科学として、外側の世界の物理的な仕組みを解明しようとした。で、東洋の発想っていうのは、そうじゃなくて、いや全ては心が作り出しているんではないかと。よって心の解明にこう、数千年、あるいは数万年をかけて、あの、聖者方が瞑想で解明していったわけだね。その確かに大きな違いがありますね。

 そしてこのお釈迦様も、もちろん、修行によって、一つ得た、まあ気付きっていうか、知ったこととして、全ては心に基づくものなんですよと。まあ、これはだから、なんていうかな、ここの部分っていうのは二つの見方があると思うね。今、K君が言ったみたいな、壮大な、いや全ては心から世界は作り出されるっていう(笑)ものと、もうちょっと現実的な、日常の中で、いや私達は心こそが大事なんだよっていう部分ね。で、この今言った二番目の後者の部分っていうのは、これもまた非常に重要なところで、あの、ね、虹の階梯とかにもよく書いてありますが、あるチベットの昔の聖者は、これもねぇ、何回も言っているけど、誰かと会って挨拶する時に、おはようとかこんにちはとか言わないで、『良い思いを持っていますか?』と挨拶したっていう聖者がいると。もう常に、ぱっと会った時に、『あ、どうもT君、いい思いを持っていますか』と(笑)。『あ、U君、いい思いを持っていますか』と(笑)。これが挨拶の言葉になっていると。つまり、それが、最も重要なことだ、っていうことが分かっちゃうね。
 つまり、これは逆の言い方をすると、仏教ではよく、身、口、意、って言って、体、言葉、心の三つに、我々が行動を分けるわけですが、あの、体と心が二次的なものだと考えればいい。
 つまり逆の言い方をすると、いかに体や言葉で聖者っぽい、修行者っぽいことをやっていても、心が全然汚れていたら、それは意味ないんだよっていう発想なんだね。心こそがメインなんだよと。で、もっとさらに逆の言い方してしまえば、心の清らかさを保つために、あの、仮に一時的にちょっと、体や言葉が汚れているように見えたとしても、それは心の方が大事なんだよと。これはまあ色んな場面で、それは考えることができるね。例えば、人を救うために嘘をつくっていうことが必要なこともあるのかもしれない。で、それは、本当にこの人を救いたいっていう思いで嘘をついたとしたら、それは心の浄化になるわけです。でも言葉は汚れるわけ。さあどっちがいいのかっていう問題になる。あるいはそうじゃなくて、ピシっと修行者っぽい人生を送り、言葉も美しいと。しかしその裏側には、さあ、俺を見ろと(笑)。そういう傲慢な心があったと。これは、いいのかどうか、っていう問題がある。もちろんこれはねえ、ここでもう一つ言えるのは、じゃあ心が汚くて、言葉や体だけきれいにする作業がいいのか悪いのかっていうと、これは実はいいんです。全部汚いよりは(笑)。つまり体や言葉をきれいにしていくことで、心も影響を受けていくから、それはそれでいいんだけど、ただポイントを言うならば、心こそナンバーワンだよと。つまりもし心の浄化を第一位に置ける人がいるとしたら、それが一番素晴らしいよと。それが、あの、なんていうかな、我々の心に留めておかなきゃいけない。
 もちろん何度も言うけど、形を整えるっていうのももちろん大事なんだよ。この身の行ないをしっかり正すとか、あるいは言葉をきれいにするっていうのは大事なんだけど、あの、一番メインに置かなきゃいけないのは心なんだね。

 で、それは、普通の人もそうだし、修行者も同じだけども、我々の不幸の全ての源は心にあると。あるいは幸福の全ての源は全て心にあると。これはもうちょっと発展させるとシャーンティデーヴァの入菩提行論にあったように、この世で楽しんでいる人は全て、利他、つまり他人の幸福を願ったからだと。あるいは、この世で苦しんでいる人は全て、自分の幸福のみを、つまりエゴを追求したからだと。そういう物凄くこう、断定的な、ズバっとした教えがあるわけだけど、これはまあ、この教えの発展形ですね。つまり、目に見える現象っていうのは、全て、まあ、いつも言うけど、つじつま合わせに過ぎないんだね。カルマのつじつま合わせ。
 例えば、よくこう、論理的にこう、人生哲学を語る人がいるよね。こうこうこうしたら幸福になるんだよとか、成功するんだよと。あるいは、例えば、いや、君はここでこう、この仕事を成功させるには、まずこのプログラムを組んで、このステップを踏んでこうやらないとダメだよ、あ、やっぱり失敗したねと、それはこうやらなかったからだよと。そのようなもちろん表面的な条件っていうのも、この世で生きる上で当然働いているんだが、それはあくまでも二次的なものなんです。それをやったから成功したとか、それをやんなかったから成功したとかいうよりももっと奥の、第一次的な因として、心があるんです。っていうことをここで言っているわけですね。よって、全ては心に基づき、幸せになり、心に基づき汚れるんだよと。
 もちろんこれはいつもカルマの法則で言うように、我々は、過去世からのカルマの積み重ねとか、あるいは、ここでは汚れているとかきれいだって言っても何層も我々の心はあるわけだから、一見心の汚い人が、この世で幸せになったりとか、一見心のきれいそうな人が不幸だっていう場合も当然あるわけだ。それはそういった、過去世のカルマなり、あるいは、まだ、表面に現れていない奥底のその精神の状態によるのかもしれない。

 でも本当にその人の心が、なんていうかな、汚れが本当に少なくなってきたら、少なくてもその人は不幸にはなかなかならない。あるいはその、逆に、汚れがほとんどになってきたら、その人は幸福にはなかなかならない。なんでかって言うと当たり前の話だけれども、結局幸不幸を感じるのは心だから(笑)。ね。
 外側を、いかにこう、なんていうか、整えたとしても、それを感じるものは心だから、例えば心が本当に清らかであるとしたら、その人はどこにいても幸福です。どんな状況でも幸福になってしまう。
 で、心が本当に汚れている人がいるとしたら、どんな状況でも小さな不幸を見つけて、ああ俺は不幸だって思ってしまう。
 それはまあ皆さんの周りを見ても分かると思うけども、なんでこの人はこんな、客観的にはそうでもないのに、こんなに一人で悩んでいるんだろうとか。あるいは、逆に、あ、この人はこんなにいろんな苦悩があるのに、凄い明るいなとかね。色々それはあると思うけども、結局それは第一義的に来るのは心なんだね。

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