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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(8)

◎正法は甘露のようであると思う

 「正法は甘露のようであると思う」。ね。甘露――つまり、ここでいう甘露っていうのは、大変おいしい、あるいは大変気持ちいい、あるいは大変エクスタシーを与えるものっていうことですね。つまり、教えに対してそういうイメージを持たなきゃいけない。つまり、「教え、なんか難しいな」――じゃなくて、「ああ、教え!」と「わたしにも教えください!」と。「ああ、教えというのは本当に」――まあ、ここにいる人はだいたいそういうことを当然味わったことあると思うんだね。「本当にダルマっていうのは素晴らしい」と。本当に――方向性は人によるだろうけど、「本当にバクティの教えっていうのは素晴らしい」と。あるいは、「本当に菩薩の教えっていうのは、いつ聞いても本当に心から涙があふれる」と。ね。「それだけでわたしはいいんです」と。こういう気持ちね。これを大事にする。
 あるいは人によっては――昔、わたし、ある修行者がこういうのを聞いて――何かって言うと――わたし前から言ってるけど、今はそうでもないけど、特に昔、原始仏教とかちょっとピンとこないときがあったんだね。自分なりに研究してたんだけど、原始仏教とかちょっと、なんていうかな、ちょっとこう――自分はやっぱりバクティとか、クンダリニーヨーガとか、あるいは密教とかが好きだったから。原始仏教的な方向性ってピンとこないところがあったんだけど、でも原始仏教大好きなある修行者がいて、で、彼がなんか、本当にもう、ちょっとこう歓喜に浸ってね、経典を読んでて、「戒律っていいよなあ」みたいな(笑)。

(一同笑)

 戒律が細かく書いてあってね。「何々してはならない。何々してはならない。」「ああ! 本当にエクスタシーだ!」みたいな感じで言ってるんだね。「ああ、やっぱり人によって違うんだ」って思って(笑)。

(一同笑)

 わたしはどっちかっていうと、そのころは、なんていうか――まあ原始仏教の戒律ってすごく細かくて厳しいから、「これしてはならない、してはならない」ってなると、なんかちょっと堅苦しいなっていう感じがあって。それよりもバクティ的な、こう、解放的な方が好きだったんだけど。でもその人は、「これをしてはならない。決してこれをしてはならない」っていっぱい、グーッってあるのを読むと「はあ……!」ってなるらしいんだね(笑)。

(一同笑)

 それはだから、なんていうか、前生からのタイプによるからね。でもそれも一つのダルマの歓喜ですよね。でもそれもわたしもちょっとは分かる気がする。あの、なんていうかな、戒律――戒律だけじゃなくて、ダルマに対して縛られる喜びってあるよね。変な話なんだけど。「これやらなきゃいけないの?」みたいな(笑)。「あ、これやんなきゃいけないだな」みたいな、そういう喜びみたいなものがある。「これが教えか!」みたいなね。うん。それもあるよね。
 だからわれわれにとって、甘露のようなものなんだと。教えっていうのはね。で、それは皆さんは多分、エッセンス的にそれをつかんでると思うから、それをもっともっと大事にしたらいいね。世の中のどんな快楽よりも、教え、ダルマの快楽っていうのは、もう計り知れないと。「それにわたしは今、出合っているんだ」と。「これを逃してなるものか」っていうかな。そういう気持ちですね。

◎正法は良薬のようであると思う

 はい。そして、「良薬」。「良薬」っていうのは、これは甘露っていうのはその、どっちかっていうと、気持ちの問題ですけど、「良薬」っていうのはこれは理論的な問題として、つまり実際に、「わたしは今、病にかかっているようなもんだ」と。つまり、さっき言ったように、わたしは真我が正体なんだけども、全然なんか、わけわかんない煩悩の世界に迷い混んでると。これは完全に病気であると。で、これを実際に治してくれるのがダルマ、教えなんだと。ね。つまりよく言われるよね。グルが先生で、ダルマが薬であると。そして修行の実践が治療であると。このイメージをちゃんと待たなきゃいけない。だからまさにこの教えっていうのは、素晴らしい薬なんだと。決して、その表面だけただ学べばいいもんじゃないんだと。それを飲んで――飲むイコール教えを実践するっていうことだけど――飲んで初めて、それが自分の煩悩の病を浄化してくれ、わたしを目覚めさせてくれるんだっていうイメージをしっかり持つっていうことですね。

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