yoga school kailas

「秘密の法則」

【解説】

 今回で入菩提行論の忍辱の章は終わりですが、この最後の部分は、私が最も好きな部分でもあります。
 そしてこれは、ヒンドゥー教のバクティ・ヨーガの高度な教えで説かれることと、全く同じことを言っているといっていいでしょう。
 バクティ・ヨーガの初期段階においては、修行者は、自分の信じる神に熱烈な帰依心を向けます。それはつまり、他者との比較としての帰依心ですね。つまり神以外のものには心を向けず、神以外のものは汚れている、あるいは自分には必要ないと見、ただ神だけに心を向けるのです。
 しかし至高のバクティと呼ばれる段階では、修行者は、神に対するのと同様に、全ての衆生に対して、無限の愛と尊敬と慈悲を向けるのです。それはなぜでしょうか?--それはまさに、今回のこのパートで説かれる理由とほぼ同じなのです。
 それでは、その至高のバクティの世界に入っていきましょう。

【本文】

 さらに、偽りのない友であり、無量の恩恵を与える者(もろもろのブッダ・菩薩方)に対し、衆生を喜ばせること以外に、いかなる他の報謝がありえようか。

 彼ら(もろもろの仏陀・菩薩方)は、衆生のために、体を裂き、アヴィーチ地獄に入る。衆生のためにそこでなされることは、彼ら(もろもろの仏陀・菩薩方)のためになされるのである。それゆえ、大いなる害を加える人々に対しても、あらゆる善を行なうべきである。

 私の主(もろもろの仏陀・菩薩方)は、自ら進んで、そのために自己(の身命)を顧みない。なぜ私は主(の最愛の子)であるそれぞれ(の衆生)に対し、召使としてつかえないで、高慢に振舞うか。

 衆生が幸せになれば聖者は喜び、衆生が苦難にあえば憤りを起こす。衆生が満足すれば一切の気高き聖者たちは満足し、衆生が害を受ければ聖者は害される。

 全身一面に火に焦がされている人には、あらゆる愛欲をもってしても喜びがないように、衆生が苦難を受けている場合には、慈愛の心に満ちるもろもろの仏陀・菩薩方にも、喜びのたずきはない。

 かようなわけで、私は衆生を苦しめることによって、全ての大慈悲者に苦しみを与えたのである。だから、今その罪悪を告白する。彼らを憂えしめたこの罪悪を、聖者たちは許したまえ。

 如来を満足せしめるために、私はいまや全身をもって、世界に召使として奉仕する。世の人々は、私の頭に足を置け。あるいは私を害せ。世界の主(仏陀)は満足したまえ。

【解説】

 我々は帰依の証として、そして多くの恩恵を与えてくれたことへの恩返しとして、仏陀や菩薩方を、喜ばさなければなりません。
 ところで、仏陀や菩薩方が最も喜ばれること、彼らの願いとは何でしょうか?
 彼らは慈悲の塊です。彼らは自分自身と同じように、全ての衆生のことを考えています。彼ら仏陀や菩薩方にとって、自分と衆生の変わりはないのです。
 仏陀や菩薩方は、衆生のためには、自分が地獄に落ちることすらいといません。ひたすら衆生の幸福を求め、ひたすら衆生が苦しみから救われることを願っているのです。
 ということは、私達が仏陀や菩薩方のためにできる、最大の恩返し、帰依の実践は、私達も彼らと同様に、衆生の幸福のために生きること。それが第一なのです。
 私に害を与える衆生がいたとしても、その人もまた、仏陀たちの最愛の息子・娘であって、ないがしろにすべきではありません。彼らはブッダ方の最愛の息子・娘なのですから、私は衆生の召使としてつかえなければなりません。彼らがもし私を害することで幸福になるのなら、喜んでそれを受けるべきなのです。なぜなら、それを仏陀や菩薩方は大変お喜びになるのですから。

【本文】

 慈悲に満ちる彼ら(もろもろの仏陀・菩薩方)は、この全世界を、我が物としたまう。これは疑いもないことだ。衆生の姿で現われている者たちは、まさしく、われらの主(もろもろの仏陀・菩薩方)ではないか。どうして恭敬せずにいられるか。

 これ(衆生への恭敬)は、そのまま如来を満足せしめることであり、自己の(仏道修行の成就という)目的の完成であり、また、まさしく世界の苦しみを取り除くことである。よって、それは直ちに、私の誓願であらねばならぬ。

【解説】

 次に、またちょっと別の観点からの検討です。
 修行をすると、自我の壁がどんどん壊れていきます。そして完全な解脱を果たした仏陀というのは、この全宇宙に偏在する存在となるのです。これはヒンドゥー教の不二一元論とも似た、汎神論的な考えなのですが、つまり全ての本質に到達した仏陀は、全ての存在の中に広がっているというわけです。
 ということは、全ての衆生の中にも、仏陀は偏在しているのです。私の周りにいる全ての人の中にも、私に害を与えてくる人の中にも、仏陀は偏在しているのです。よって私達が仏陀に帰依をし、かつその仏陀の完全なる偏在性を信じるならば、衆生を敬い、衆生を心から愛するのは、論理的に考えて当たり前のことなのです。
 そしてそのような、全ての衆生を愛し敬う実践は、
①如来を満足させる。
②自己が仏陀へいたる。
③世界の苦しみを取り除く。
という、多くの果報をもたらすのです。よって、衆生への完全なる慈愛と慈悲と敬いの実践こそ、自己の誓願にしなければいけないのです。

【本文】

 あたかも、王の従者の一人が大衆を虐待したとき、用心深い大衆は、彼に反抗しないように--なぜなら、彼のバックには王の権力があるからであるが--そのように、他人が己になした犯行に対して、どんな微弱な侮蔑さえも与えてはならない。

 なぜなら、地獄の看守も、慈悲者(もろもろの仏陀・菩薩方)も、彼の兵力であるから。
 ゆえに、従者が暴悪な王に仕えるように、衆生に喜びを与えるべきである。

【解説】

 また別の面白いたとえが登場してきましたね。
 ある大したことのない男が、私を虐待してきたとします。
 しかしこの男が、本人の力は大したことがなくても、暴虐な王の権力を後ろ盾にしていたとしたら、私達が彼に逆らうことはないでしょう。逆らうことによって、王の力で後でどんな目にあうかわからないからです。

 同様に、ある他者が自分に害を与えてきたとしても、私達は逆らってはいけません。
 なぜなら、彼のバックには、
①地獄の看守
②仏陀・菩薩方
がいるからです。
 これはどういう意味でしょうか?
 まず①についていうならば、つまり自分が誰かに害されるのも自分のカルマですから、そこで怒りを発することは、悪いカルマが浄化されないだけではなく、私達の地獄のカルマが増大し、実際に私達自身が地獄におちる可能性があります。
 それを、「地獄の看守も、彼の兵力である」と表現したのです。
 次に②については、前述のように、どんな悪人であっても、仏陀や菩薩方の慈悲の対象であるということですね。仏陀や菩薩方は、彼らを愛しているのです。だから我々は、その「害を与える人」ではなく、そのバックにいる仏陀・菩薩方のことを考えて、彼ら「害を与える人」に対して、怒りや害を返すことなく、逆に彼らも含めた全ての衆生に対して、いかに喜びを与えるかと、考えるべきなのです。

 さて・・・こういったたとえ話を紹介しながら、私はちょっと危惧せざるを得ないことがあります。
 こういった一連の話は、仏陀への愛、衆生への愛、こういったものがあらかじめある程度なんとなくでも理解できる人にとっては、ストレートに理解できる話だと思います。
 しかし一部の人にとっては、こういった内容は、若干誤って受け入れられ、卑屈な感覚を呼び起こしてしまう場合があるかもしれないという危惧です。
 しかしそのような危惧を抱きながらも、なぜあえてこういう内容を紹介しているかといいますと・・・たとえ一部の人が、そこで卑屈な感情を抱えてしまったとしても--卑屈であろうが、若干捉え方が間違っていようが、このような教えに出会い、実践するかもしれないチャンスにめぐり合うことは、すばらしいと思うからです。この教えだけではなく、この経全体を何度も学び、実践することで、ここでシャーンティデーヴァが言いたかったことが、もっと深く理解できるようになってくるでしょう。
 つまりこの一連の内容の実践は、決して卑屈な心で行なうものではなく、大いなる心の喜びと、明るさと、堂々とした感覚のもとに行なわれるものである、ということはお断りしておきます。少なくとも私はそう思います。そこにはプライドもなければ、卑屈さもないのです。ただ、この大いなるユーモアを含んだ真理の教えの実践に対する喜びだけがあることでしょう。

【本文】

 衆生を憂えしめることによって、われらが感受せねばならない地獄の苦難--かかる苦難の発生を、怒れる王といえどもわれらに加えるであろうか。

 衆生を喜ばしめることによって、われらが受けるべき仏陀に等しい状態--かような状態を、満足した王といえどもわれらに与えうるであろうか。

 衆生に満足を与えることから生ずる将来の仏陀としての状態は言わずもがな、今ここで、なぜ汝は、幸福と名誉と安穏と、恩恵と健康と歓喜と長寿と転輪王の豊かな安楽と--これらを人がこの輪廻界において、忍辱によって得るのを認めないか。

【解説】

 さあここでもまた、我々の修行、いや、修行以前に、我々のこの世での幸不幸、そして輪廻転生において、衆生、いわゆる他者の存在が、大きく関わっていることを説かれていますね。
 
 簡単にいうと、他者に苦しみを与えることによって、我々は将来、狂った王に与えられるさまざまな苦難など及びもつかないほどの、苦難を受けなければいけないんだと。

 そして逆に衆生に幸福を与える実践を続けることによって、我々は、将来、仏陀になれるだろうと。

 そしてその前の段階、まだ輪廻に結び付けられた状態の時においても、衆生から与えられる苦難に耐え忍び、逆に衆生へ幸福を与える実践を続ける者は、幸福、名誉、安穏、恩恵、健康、歓喜、長寿、そしてこの人間界全体を法によって支配する伝説の転輪王のような、さまざまな豊かな安楽を、得ることができるであろうと。
 
 それは事実なのです。これがこの世の秘密の法則なのです。よって我々は、他者にどんな苦しみを与えられても耐え忍び、他者に苦しみを返すことなく、ただただ他者に幸福を与える者でなければならないのです。

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