yoga school kailas

「真理の楔」(2)

◎自然にしたがっているがゆえに

【本文】

 カルマというのは自然な流れだ。
 だから悪口等を言われた人にとっては、悪口を言い返すこと、あるいは他の人にその矛先をむけること、あるいは、言わないまでも心に憎しみを持つこと。これらが最も自然で、行ないやすい反応ということになる。
 しかしその「自然」にしたがっているがゆえに、カルマの輪から逃れられないのだ。

【解説】

 カルマというのは自然な流れです。自然な流れっていうのは、まあよく作用反作用の法則とかでも表わされるわけだけども、つまり、自分が過去に何かをやりました。それによってそれが返ってきます。これはもう避けられないんですね。で、問題はここから先で、返ってきたときに、自分はもうすでにカルマの輪の中にいるから、そこで終わればいいんだけれども、またやってしまうと。
 これはちょうど、そうですね、作用反作用っていうのは、つまり投げたボールが返ってくるようなものなんだけど――つまりボールを壁に打ってね、返ってきましたと。これはもう避けられない。またそれを打ち返しちゃうわけですね。その打ち返すっていう働きが自然にもうでき上がってしまってるというか。でも返ってくるのは避けられないが、打ち返さないっていうことは実はできるはずなんです。できるはずなんだけども、自然に自分もその習性によって、まるでそれを打ち返すマシーンと化しているというかな。この機械をぶっ壊すかストップさせない限りは、自分はその返ってきたものを打ち返すマシーンと化してるんですね。
 これは――いいですか――自然な流れなんです。自然なんです。自然ってどういうことかっていうと、われわれは頑張って悪業を積んでるわけではない。頑張ってカルマを消化しているわけではない。自然にやってるわけですね。例えば、怒りっぽい人がいるとしたら、この怒りっぽい人っていうのは、他の人からも傷つけられるカルマがあると。で、傷つけられると。で、怒りっぽいからすぐ言い返すと。これは自然だよね。頑張って言い返してるわけじゃないよね。ワーッ言われて、「なんか言ってるな」と(笑)。「でも言い返そうかな――よし、言い返すぞ、言い返すぞ……このやろー!!」って言ってるわけじゃない。自然に、心からワーッて言い返しているわけですね、普通に反応としてね。で、この自然な流れっていうのは――ここで言う自然っていうのはつまり、なんていうかな、無理のないこの宇宙の流れなわけですけども、それに従ってはいけないんです。
 これはね、ヴィヴェーカーナンダも同じような表現をしているけども、われわれは自然と闘わなきゃいけないと。ね。自然ってだから、自然環境とかの自然じゃないですよ。もう一回言うけども、このカルマの流れによって――まあだから、この自然というもののおおもとを辿るならば、ヨーガ的にいうとそれはプラクリティとか三つのグナになるわけですね。この宇宙を作り出している生命の、生命っていうか動きの、そのエネルギーの源みたいなものがあって、で、そこからこの宇宙がバーッて展開してきたと。で、そこにわれわれは巻き込まれ、で、過去に作ったカルマの流れに応じて、今、自然に煩悩が出て、自然に苦しみを味わい、自然にこの輪廻の中で流転しているわけですね。この自然に乗ってはいけないんですね。この自然っていうのは、闘わなきゃいけない、立ち向かわきゃいけない相手なんです。
 じゃなくて、もうちょっと深い法則で、「心の本性」というのがある。――仏教で心の本性といってる、あるいはヨーガにおいては真我っていうわけだけども――この、こっちには当然、心を没入させる。それに心を合わせる必要があるんだね。
 つまりわれわれはこの心の本性から――ちょっとこの辺がね、難しいところなんだけど、あえて細かく説明せずにいうけども――心の本性から、あるいは真我から立ちのぼるサットヴァ性の、サットヴァ的な、純粋性なエネルギー、あるいは展開っていうのがあるんだね。
 これは何を言っているのかというと、すごく簡単に言いますよ。例えばわれわれがさっきみたいに神の歌を歌い、なぜか涙が出ると。これは、心の本性から来てるエネルギーです。あるいは、苦しんでいる人を見て心から助けたいと思ってる。これは心の本性から来るエネルギーであって、さっき言ったカルマの流れとは別のものなんだね。あるいは、なんともいえない真理をつかみたいという気持ちがわいてくると。これも心の本性からやってくるエネルギーなんだね。
 これが難しいといっているのは、心の本性というのはでも、何の実体もない、何の層もない、何の展開もない存在なんじゃないですかと。そうなんです。心の本性というのは、なんの特徴も無く、なんか動くこともない存在なんだけど、その何も動かない特徴がないものからやってくるものがあるんだね(笑)。それがわれわれにとって唯一の――唯一のっていうかな――身を明け渡さなければならない自然なんだね。
 だから、そこは勘違いしちゃいけない。よくヨーガや仏教の本だと、「心の赴くままに」とかいうわけだけけど、その「赴くままに」っていうのは、今言った真我からやってくる――まあちょっとかっこいい言い方をすれば――光のサインみたいなものであって、それに身を委ねなきゃいけないんだね。そうじゃない、カルマからやってくるものに身を委ねてはいけない。このカルマからやってくる自然といわれるものに対しては、われわれは闘わなきゃいけない。
 最近よく英語の仏典とかを訳してるわけだけど、英語とかだといろいろこう、まあもともとの仏教用語とかヨーガ用語が複雑なんだけど、英語とかからさらに日本語に訳そうとすると、同じような言葉をね、使ってる場合が多いから、ちょっと複雑なんだけどね――例えばnatureという言葉があるとして、これは今言ったような三グナ的な自然を表わす場合もあるだろうし、心の本性的なものを表わす場合もある。まあ日本語でもそうですけど、日本語でも悪いものといいものを同じ言葉で扱ってる場合もあるから、その教えが表わしている本質を、最初から分かってそれを読まないと、間違う場合が多いんですね。だから「自然」といわれる同じ言葉で、われわれが戦わなきゃいけないものと、それからわれわれが身を委ねなきゃいけないもの、二つがあるんですね。
 はい、もう一回話を戻すけど、この自然、カルマと呼ばれる自然の流れ、これとわれわれは立ち向かわなきゃいけない、戦わなきゃならない。もちろん達観的な見方としては、ちょうどバガヴァッド・ギーター、さっき読んだバガヴァッド・ギーターに書かれていたように、あるいは多くのね、高度な仏典に書かれてるように、われわれはこのカルマの流れ、自然そのものの影響を受けない状態にならなきゃいけないんだね。本当はね。でもこれはね、理想論なんです。普通無理でしょ(笑)。普通はまだ、われわれは影響を受ける中にいる。だから完全に影響を受けない状態まで解脱するのはまだ無理なので、まずはこのカルマの流れにいながら、それと立ち向かわなきゃいけない。
 立ち向かうっていうことはつまり、その流れを変えるってことです。これはある意味大変なことです。大変なことっていうのはつまり、自然の流れだから。自然の流れってどういう意味か分かりますか? 自然の流れってことは、川みたいなものです。つまりわれわれは、この川の流れを変えようとしてるんです。こないだクリシュナ物語でバララーマがヤムナー川の流れを変えたって話があったけど(笑)、あれは神だからできることで、普通は川の流れとかはなかなか変えられないよね。例えばそこを流れている川とかね――を変えようとしたら、なかなか大変だと。すごい工事をして変えなきゃいけない。それくらいのものがあるんですね。ものすごい奮闘努力をして、自分と戦って、その流れを変えなきゃいけないわけだから。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする