yoga school kailas

「真の富者」

◎真の富者

【本文】
 天人師は、満足があらゆる財のうちの最高である、と説いています。よってすべてに満足すべきです。満足があれば、たとえ富を持たずとも、真の富者といえます。
 高貴なる者よ、財が多いとそれだけ苦しみがあり、少欲の人はそうではありません。大竜には頭の数だけそれから生じる苦しみがあります。

 これもお釈迦様の教えのすごく知性的なところだけども、いったい満足とは何かと。満足っていうのはつまり心の問題だから、外的な要因で決められるものではないわけだね。つまりもともと欲望が少ない人がいたとしたら、少しの条件ですごく満足する。逆に欲望が多い人というのは、その同じ条件では全く満足しない。で、どんどんどんどん外的な条件を整えるわけだけど、人間の欲望ってきりがないから、その欲望が拡大傾向にある人っていうのは、何かを得るとまたもっと得たいと。何かを得るとまた、「いや、これでは満足できない」と。
 これは日本でもよくそういうのってあると思うんだよね。例えばちょっと昔は貧乏で慎ましく生活してた人が、ちょっと何か成功してお金を得ましたと。そうしたらもうそこから生活レベルを落とせなくなる。昔はちょっとした食料とかちょっとした友達との語らいとかで満足してたのに、「いや、もうこんな食べ物じゃ満足できません」と。あるいは「毎日こうやって遊ばないと満足できません」、あるいは「お金がこれくらいないとわたしは安心できません」と。こういうふうにどんどんどんどん満足の条件が広がっていくんだね。
 つまりこれは、前にも言ったけども、分数みたいなもので――つまり分母が欲求。分子が実際の物理的な条件だね。普通の人の発想というのはこの分子を増やそうとするんです。分母の方が大きいから、例えば分母が五で分子が一しかない。つまり「欲求が五くらいあるのに、わたしのまわりには一くらいしかないんですよ」と。「だからわたしは頑張ってこれを五にするんだ」と。「一、二、三、四、五……やった! 五になった! 満足だ!」ってなるかっていうと、こういう発想の人というのは、こうなると今度は欲求がパッて六になる(笑)。それで「今度は六だー!」っていって六、で、またパッと七になる。また「七だ!」――こうしてどんどんどんどん拡大していく。で、どうなっても満足しないと。
 例えばプロ野球の契約更新なんかを見ると、みんなよく知ってるか分かんないけど、プロ野球の選手が契約を更新するときに、更新するときの契約金を話し合うわけだけど、球団が「これくらいでどうですか?」って言ったのを、「いや、わたしはこんなに活躍したんだからもっと上げてくれ。これじゃ満足できない」とか言ってそれがよく話題になるわけだけど、その額ってさ、例えば八千万とか一億とかの世界なんだね。例えば「一億円でどうですか?」って言われて、「いや、わたしはこんなにいっぱいホームラン打ったんだから、一億五千万じゃなきゃ納得できない」と。でもわれわれから見たら、「一億でいいじゃん」と(笑)。わたしがもし一億もらったとしたら、もう多分――ここにいるみんなもそうだと思うけど――一生生きていけるよね(笑)。特にそれで何するわけでもないし(笑)。「いいじゃん」って思うんだけど、だんだん多くのお金をもらうようになって、生活も豊かになって、家も大きくなって、いろんな物を買うようになった人にとっては、それでも足りないと思ってしまう。
 だからこの分子を増やす発想っていうのは、本当の満足には至らない。そうじゃなくて、ちょっと方向性を変えてみましょうと。方向性を変えて分母を減らしてみましょうと。例えば分母が五で、分子が三しかありませんと。じゃあ、この三を増やすんじゃなくて、分母の方を減らしましょうと。四にして、三にして、「あ、満足だ」と。二、一までもっていったら、これは満足どころか、わたしが求めている三倍のものを得ているっていう世界になるんだね。みなさんは頭がいいから分かると思うけど、じゃあどっちが幸せかっていったら、心のしくみとしては、この物が少ないが欲求も少ない人の方が幸せなんです。
 人間って錯覚があるから、例えばお金があると幸せなような気持ちがしてくる。でもお金ってただの紙にすぎない。つまりお金を持って何かできますよっていう約束事をもらっているに過ぎないんだね。で、その概念によって人は喜んでる。だからすべては概念なんです。
 心の中に、「わたしはこれで全く満足ですよ」っていう非常に少ない欲求があったら、例えばものすごく客観的に貧しい家に生まれて、しかし非常に欲が少なく、人に対する慈悲が強く、そして日々あらゆることに満足して生きている人がいたとしたら、この人はある意味世界一の富をもっているというか、世界一の満足を得ている人ということになる。だからどういう状況に生まれようとも、あるいはどういう状況にあろうとも、その状況に満足する心――これを育てた者こそが、ここでいっている「最高の財を得たものである」ということになるわけですね。
 この辺はとても知性的な話であって、信じる信じないの話っていうよりは、知性的にわれわれが理解すべき話だね。

◎財がある苦しみ

 そして逆に「財が多いとそれだけ苦しみがあり」――これも分かるよね。つまり財産っていうのは、別にあってもなくてもいいんです。あってもなくてもいいということは、欲が少なければ財産がたくさんあったって別に構わないんです。しかし人間って馬鹿だから、財産がたくさんあると欲が出るんです。で、苦しみが増すんです。例えば前までは貧乏でお互い助け合って生きていて、とても心優しく生きていたと。しかしだんだんだんだん自分の所有が増えるにしたがって――例えば前までは日々自分が食べるので精一杯と。でもこういうときっていうのは逆に――まあ、人によるけども――人に優しくなる。何か困ってる人がいたら、「おれも今日ちょっとお金ないんだけど、でもこれ持っていきなよ」って感じで渡せていた。でもお金がどんどん貯まってくると、それを失いたくないっていう気持ちが強くなってくる。
 だからそうならないんならいいんだよ。そうならないんならいんだけど、えてしてなりがちなんだね。財産が増えることによって、それに対する執着が増してしまう。執着が増すことによって苦しむ。「これを失いたくない」と。
 例えば貧乏で何も失う物がない人っていうのはハッピーじゃないですか、ある意味(笑)。「おれは何も怖くないよ」と。逆に例えばいろんな物を持ってる人っていうのはいつもドキドキドキドキ、「ああ、これなくなったりしないかな。ああ、どうしよう。これどうしよう。強盗が来たらどうしよう」と。
 だからそういうのがない人なら全くいいんだよ。例えばもうたくさん財を得たと。しかしもし誰かがやって来て、「それ全部くれ」って言ったら、「ああ、いいですよ」ってあげられるような人がいたとしたら、それはまったく問題ない。財を持っていようが。ただ人間の心って弱いから、財があればそれだけそれを失いたくないとか、苦しみが出たり、執着が出たりするんだね。この辺は知性的に考えたらいいですね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする