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「賢者の道」

【本文】

 この身を保護すればするほど、それはいっそう軟弱となり、ますます堕落する。

 かように堕落しても、その欲望は、この全大地をもってしても、なお満たしがたい。それゆえ、誰がその願いを実現しうるか。

【解説】

 欲望に妥協し、この身体を甘やかせば甘やかすほど、身体、というよりも五蘊といったほうがいいでしょうが--この身体をよりどころとしている自我は、甘やかせば甘やかすほど、軟弱となり、そしてその堕落した欲望には、終わりがありません。以前は耐えられた欲望にも耐えられなくなり、また、その欲望の増大には終わりはないのです。

【本文】

 不可能を願う者には、煩悩と幻滅が生ずる。しかし、あらゆるものに対して期待をかけない人には、衰えない幸福が訪れる。

 だから、身体に願望を増させる余地を与えてはならない。希望によって触れられることのない事物が、まさにすばらしいのである。

【解説】

 入菩提行論は、さまざまな多様な教えを含み、それは読む人のバックボーンによって、さまざまな読み取り方ができるでしょう。
 私は前にも、入菩提行論はまるで「バガヴァッド・ギーター」のようだ、と書きましたが、この部分も、バクティ・ヨーガやカルマ・ヨーガの教えと同様の雰囲気を、私は感じますね。
 もう少し具体的に解説しますと、つまりこれは大乗仏教や密教でもよく言われるように、「希望と恐怖と幻滅を捨てなさい」ということですね。
 我々は明日の自分の生死もわからないような無智であるにも関わらず、根拠のない欲望・希望を持ち、それが得られないのではないのかという恐怖を持ち、得られなかったときに幻滅・落胆を感じます。
 そうではなく、自分の全てを仏陀・菩薩方に任せ、一切の期待と恐怖を持たずに、なすべき事を誠実にただ為し続ける。--この生き方こそが、まさにすばらしい、至福にいたる生き方なのです。

【本文】

 灰の状態に帰し終わるべきこの身体は、本来、無活動で、他によって活動せしめられる。それはものすごい不浄の像である。どうして私はそれに執着を持つか。

 それが生きていようと死のうと、この機械が私に何の関係があるか。土くれ等とそれの間に何の違いがあるか、ああ、我執よ。汝は滅びがたい。

 肉体に味方することによって、無益に苦しみが得られる。この木片に等しいものを、憎み、あるいは親しんで、何の役に立つか。

 それ(肉体)を私が守っても、あるいはハゲタカ等が食っても、それ(肉体自体)は愛著も憎悪もない。なぜ私はそれを愛するか。

 それがむごく取り扱われれば私は憤りを覚え、敬われれば私に満足が生ずる--しかるに、その物(肉体)自体はこれを意識しないとすれば、私の心労は誰がためになされるか。

 この身体を愛する人があれば、彼らはもとより私の友達である。全ての人は各自の身体を愛する。しからば、彼らはなぜ私の愛すべき人々でないか。

【解説】

 この辺は、この第八章の最初のほうでも追求されていた、身体に対する検討ですね。これらは各自でまた思索してほしいと思います。

 そしてここから、この章のまとめへと入っていきます。

【本文】

 かようなわけで、私は世界の幸福のために、惜しげなく我が身を捨てた。ゆえに、多くの過失があっても、これ(わが肉体)が保たれているのは、行為の道具としてである。

 以上で、世間の所行は十分に述べられた。「不放逸」の説法を憶念しながら、惛沈と睡眠を避けて、私は賢者の道を進もう。

 そのために、心を自己のよりどころに密着させて、邪道から引き戻し、障害を除くために、私はサマーディを行ずる。

【解説】 

 今まで述べてきた正観によって、結論として、世界の幸福のために、惜しげなく我が身を捨てた、とシャーンティデーヴァはいいます。
 それはまず自分自身のためでもあります。この身体や五蘊への執着が、苦しみの因だからです。
 そして同時にそれは他のためでもあります。誰かがまずその道を歩き、我が身を捨てることこそが至福への道であるということを示さなければ、無智なる衆生はこの輪廻の苦しみの中から永遠に解放されないからです。

 我が身を捨てた、といいつつも依然としてこの身体・五蘊が保たれているのは--行為の道具、つまり、菩薩としての、菩薩行をするための、「ただの道具」としてあるだけなんだ、ということですね。

 バクティ・ヨーガでも、自分という存在を、神の「ただの道具」であることを理想としますね。

 さあ、そしてここまでにおいて、この世間においての具体的な菩薩行の実践内容については、十分に述べられた、といいます。
 そしてたとえば入菩提行論の第四章のような、不放逸(怠けないで励むこと)についての教えを何度も学び、自分の心を鼓舞しつつ、怠け心や心身の愚鈍さを捨てて、賢者の道を進もう、と。つまりここまでに述べたような菩薩行を、怠けずに実際にひたすら実践しよう、ということですね。

 最後の一文にある「自己のよりどころ」とは、仏・法・僧のことといっていいでしょう。
 もっと具体的に言うと、お釈迦様、そして大乗仏教で定義されるもろもろの仏陀、そして仏陀と同一であるとみなされる自分の師匠。--これらを第一のよりどころとします。
 そして、正しい教えを何度も何度も繰り返し学び、それを自分の生き方の指針とします。--これが第二のよりどころですね。
 そして、菩薩の道を歩む善き先達や友がいるならば、彼らと接し、良い影響を受け、それを第三のよりどころとします。

 このようにして、自分の内外のさまざまな邪な法、邪な道から自分を引き離し、三宝にのみ心を密着させて、サマーディに入ろう、と。--これで、入菩提行論の第八章「禅定の完成」の章は終わりです。

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